詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

デビッド・ベンド監督「帰ってきたヒトラー」(★★★★)

2016-06-19 00:53:25 | 映画
監督 デビッド・ベンド 出演 オリバー・マスッチ

 ヒトラーが現代のドイツにタイムスリップしてきて、現代の社会に対して苦情を言う。それは現代のドイツ人が内心思っていることと重なる部分がある。そのために、テレビ、ネットで大受けする、というストーリー。これを半分、ドキュメンタリーのようにして表現している。ヒトラーをとりまく市民が役者なのか、ほんとうの市民なのか、よくわからない。テレビの画像が揺れる、電波が乱れる、画像の一部にモザイクをかける。さらには、実在の党首とのインタビューまである(字幕から判断したのだが……)。虚実、入り乱れるのである。
 そこから「わかる」ことは、人はだれもが「自分のことば」を持っているわけではないということだ。言いたいことがある。でも、どうやって言えばいいのかわからない。そのどうやって言えばいいのかわからないことを、誰かがことばにしてくれると、考えることをやめて、そのことばに頼ってしまう。
 こういうことは言ってはいけないことになっているが、言っているひとのことばに触れると、そこに「真実」があるように気がしてくる。何よりも自分の言えないことを言ってくれている気がしてくる。自分の気持ちが「正しい」と言われた気になってしまう。
 ヒトラーが犬を飼育している人とやりとりするシーンなど、何とも不気味である。もし、シェパードとダックスフントが交配して子犬が生まれる。そうすると、どうなる? すぐれたシェパードがいなくなる。犬を人間の「比喩」にすること自体、完全に間違っているのだが、「比喩」はとてもわかりやすい。わかりやすいから、それが「正しい」と勘違いもしてしまう。
 そういうシーンを見つづけていると……。
 ここに描かれていることが、ドイツの問題を通り越して、日本の問題にも見えてくる。情況が複雑になりすぎて、その情況を自分のことばでどう言えばいいのかわからないということが増えている。そういうとき、誰かが「大声」を出すと、それが「正しい」もののように思えてくる。「正しい」かどうかを吟味せずに、その「声」にしたがって、自分の「声」をあわせてしまう。
 いまドイツは他のヨーロッパの国と動揺に難民(移民)問題をかかえている。日本の「難民/移民問題」は安倍政権が難民を受け入れていないせいもあって、それほど顕在化しているようにはみえない。しかし、ヘイトスピーチが問題かしているように、「異民族差別」には根深いものがある。
 ヘイトスピーチの横行を見ると、他者(意見の異なる人間)への憎しみをあおることで、安倍は政治の失敗を隠そうとしているように思えてならない。アベノミクスが成功し、経済が順調に成長しつづけていれば、国内に中国人や韓国人が何人いようが、そんなことは気にならない。中国人、韓国人、さらには他の国から日本にきているひとが、どんな暮らしをしているか気にならない。多くの外国人が日本の経済を支えていることに感謝こそすれ、憎むというとはおきないだろう。
 安倍政権は、ヘイトスピーチを広げることで、言論の「内戦」をあおっているように思える。ヘイトスピーチを拡大し、それを「内戦」から、外国との戦争にまで拡大しようとしているように思えてならない。
 安倍政権が、中国、北朝鮮を「仮想敵国」として(安倍に言わせれば「仮装」ではないかもしれないが)戦争法を成立させるなど、差別をあおり、ヘイトスピーチを支援している側面があるので、問題は映画に描かれたドイツの「内情」より深刻かもしれない。(少なくとも、ヨーロッパでは「政権」が「難民/移民」を「積極的に拒絶する」という姿勢をとっていない。「どうやって受け入れるか」「受け入れを持続する」ためにどうするかが課題になっているように見える。)言論の「内戦」から武器をつかった「戦争」へと人間の対立を深刻化させ、同時に言論の自由、精神の自由を奪い、国民を支配を強化するという「作戦」が徐々に具体化している日本の方がはるかに危険かもしれないと思う。
 安倍をヒトラーに見立てるイラストや写真はあふれているが、安倍をヒトラーとして映画化するという企画、テレビ化するという企画は、日本では成り立たないだろう。
 あ、少し映画から離れすぎたかな?
 映画に戻って、私がいちばん驚いたのは、万年副編集局長だった男が策をろうしてテレビの編集局長になったあとのシーン。やることなすこと失敗して視聴率が落ちる。そして、いらだって側近に当たり散らす。そのシーンはブルーノ・ガンツがヒトラーを演じた映画の、ヒトラーが側近に当たり散らすシーンの再現なのだが、そのシーンが始まる寸前から、劇場内に笑いが広がった。それまでは、あちらこちらで単発の笑い声が漏れただけだったのに、このシーンでは、方々で笑いが上がるのだ。ヒトラーの最期として有名な「事実」なのかもしれないが、こんなに笑い声が多いとは思ってもいなかった。ここで笑うなら、もっとほかで笑うシーンがあるだろうと思うのだが、どうしてだろう。私が見たときだけの観客の反応だろうか、それともどこでも同じなのだろうか。とても気になった。
                       (天神東宝6、2016年06月18日)








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山田亮太『オバマ・グーグル』

2016-06-18 09:16:58 | 詩集
山田亮太『オバマ・グーグル』(思潮社、2016年06月01日発行)

 山田亮太『オバマ・グーグル』のタイトルになっている「オバマ・グーグル」は刺戟的である。googleで「オバマ」を検索する。そのとき表示された上位100件のウェブサイトの記事を引用し、構成している。ほんとうは、この作品について書かなければこの詩集の感想を書いたことにならないのだが、私は目が悪くて、「引用」と「出典」を引用することができないので、別の作品に触れる形で、山田の詩の魅力について語ってみたい。
 「みんなの宮下公園」。この作品には「2010年4月22日時点に宮下公園内に存在した文字により構成した。」という「後注」がついている。googleではなく、自分の目で集めた「文字/ことば」を再構成している。

落書き禁止 「きれいなまち渋谷をみんなでつくる条例」 違反者は、処罰されます。 見つけた人は警察に通報してください。/おおむらさきつつじ つつじ科/ここはみんなの公園です。うらに書いてあるきまりを守って、みんなでなかよく遊びましょう。/NO NIKE!! ナイキ 悪/ゴミは持ち帰りましょう/水を大切にしましょう/公園はみんなのものだ! PARK is OURS/フットサル場 使用上の注意 このフットサル場は、ゴムチップス入り人工芝を使用しています。

 フットサル場がある公園だとわかる。そして、その公園は「ナイキ」に売却されようとしている。あるいはナイキがフットサル場を独占しようとしているのかもしれない。そういうことに対する反対運動がある。そういうことが、読んでいる内に、だんだんわかってくる。宮下公園に私は行ったことがないのに。そもそも、それがどこにあるかも知らないのに、渋谷にあるとわかる、というか信じてしまう。
 このとき、私に何が起きているのか。
 ことばを自分勝手につなぎあわせて、そこに「意味」を見出している。その「意味」が間違っているかもしれないのに、間違っているかもしれないとは考えずに、「意味」にしてしまっている。
 これは、危険だね。
 「意味」は、そのことばを発した人の意図したものとは違ったものとして、かってに広がっていく可能性(恐れ?)があるということだ。
 この公園は、みんなに愛されています。つつじの花が咲いているきれいな公園です。それがナイキのものになってしまうというのは許せない、と読むことができるが、実は逆かもしれない。
 「ゴミを持ち帰りましょう」「見つけた人は警察に通報してください」ということばからは、ゴミが放棄されている汚れた公園を想像することもできる。その公園を整備するために、ナイキが手をあげた、ということかもしれない。
 汚い公園だけれど、汚いならきれいにすればいいだけであって、それをナイキに売るのは反対ということかもしれない。
 どのことばも「ひとつづき」の「枠組み」のなかで、それぞれを「意味」をもっているはずである。それを「解体」してしまうと、実は「意味」はわからなくなる。
 わからないのに、私は、それを自分が「わかる」ように、かってにつないでいる。
 山田が、そこにあることばを「ばらばら」にしているのに、私は「ばらばら」をかってに整理し(?)、統合して、それを「意味」と思い込んでいる。

 あ、これが、「現代」の「ことば」のおかれている情況なのだ。

 ここから「オバマ・グーグル」へと飛躍してみる。「引用」を省略して、妄想してみる。
 オバマについて書かれた「記事」は、それぞれの「文脈」を持っている。「文脈」によって同じことばであっても「意味」が違うということがあるのだが、無秩序に「引用」をつないでいくと、ほんらいの「意味」が消える。
 山田のやっていることは、この「ほんらいの意味」を消すことである。「ほんらいの意味」を解体して、ただのことば、「意味のないことば」に、ことばを還元してしまう。
 そんなことは、できるのか。
 よくわからない。しかし、どんなに文脈を解体して、ことばを「意味」から解放しようとしても、読む人間化かってに「文脈」をつくってしまう。
 Aの「記事」のなかの一行を、Bの記事の一行につなげ、さらにCの一行につなげる。注釈をていねいに参照すればと、それらの一行がA、B、Cという「違った記事」からの引用であることがわかるが、そういう「手間」を省略してしまうと、そこにはまったく違う「文脈」が生まれてきてしまう。「意味」が生まれてきてしまう。
 ときには、Aという肯定のことばの後にBというAの見解を否定することばが書かれたはずなのに、Bを先に引用しAをそのあとに引用すると、AはBに対する「反論」になるという「意味時系列」の逆転がおきる。否定を再否定する肯定になってしまうということがおきる。
 そして、それは新しい時系列がつくり出す「意味」が山田の意図を反映したものなのか、あるいは読者(私)が「読者」の欲望を反映する「文脈/意味」であるのかわからなくなる。ことばを読むというのは、それを書いた人の「欲望」を読むということだが、その「欲望」は実は自分の中に存在している「欲望」を作者のことばを借りてよみがえらせるということなので、……と考えると、うーん、ここに書かれていることばって、何?
 最初の「記事」を書いた人の「文脈」どころか、山田の意識している「文脈」も無視して、私の「欲望」がかってに暴走する。(それが、この文章。)
 こうなってくると、ことばを「どう読むか」ということは、問題ではなくなる。「どう読むか」ではなく、「どれだけ」読むか、である。「量」がすべてである。「量」を多く抱え込む「もの」が「正しい」ことになる。「正しさ」の基準というか、「支え/基盤」になる。

 ここで、私は、とんでもない「飛躍」をする。
 安倍政権のやっていることを思うのである。
 安倍は、ことあるごとに野党に対して「対案を出せ」という。「対案を出さずに反対するのは無責任」だと批判する。民進党と言えばいいのか民主党と言えばいいのかわからないが、安倍に手玉にとられている「野党第一党」は「無責任」ということばにおびえて「対案」を考える。ときには提出する。そのふたつの「案」を比較するとき、それぞれの「案」がもっている「情報量」が圧倒的に違う。「与党(安倍)」には与党しか持ちえない圧倒的な「情報(ことば)」があり、その「量」に「野党第一党の対案」は負けてしまう。安倍の出す案には、その案を支える官僚の用意した「資料」がある。野党にはこの「資料」はない。独自調査で集めた「資料」は官僚の「資料」に比べると圧倒的に「量」が劣るから、その不足した「量」の部分を追及され、その結果「思慮不足の案」と追及される。最後には、議員の数という「情報量(賛成多数)」で押し切られる。
 「対案なんて、ない。その案はだめだ。納得くできない。これこれの問題がある」と言い続けるのが野党の仕事。野党の要求を組み入れた「修正案」をつくれないのは、与党にその能力がないからだ、といいつづけるのが野党の仕事だ。「不満の量」は野党が圧倒的に多いのである。「対案」という限定的な「意味」ではなく、「不満」をどれだけいいつづけることができるか、「不満」を拡大し、増殖させ、新たな「不満」を国民から引き出し、それを自分のものとしてどれだけ吸収できるかが野党の「質」の問題点なのだ。「不満」の言い方を増やせないというのが、民進党(民主党)の弱さなのだ。国民は「不満」を無尽蔵にかかえている。それは刺戟を受ければさらに増殖する。「不満」の声が「不満」を呼び覚ます。「幼稚園落ちた、日本死ね」という直接的な「声」を集め、それを組織的なことばにできないのが民進党(民主党)の愚かさなのだ。山尾が少しがんばったが、まだまだがんばりが足りない。
 「不満」は「意味」にしなくていいのだ。それなのに「意味(対案)」にしようとしているところが民進党(民主党)の幼稚なところである。「対案」を出さずに、「幼稚園落ちた、それは私だ」という国民を国会の前にどれだけ集めることができるかが、野党に問われている。自主的に集まってくる国民を「ほら、集まってきた」とよろこんでみているだけではだめなのだ。「集まれ」と「煽動」しないとだめなのだ。
 あれもこれも不満なのだから、その場その場で「あれがだめ」「これがだめ」と無秩序に言い続けるエネルギーが民進党には完全にかけている。

 ということろから、また山田の詩に戻る。
 山田が検索して集めた「オバマの記事」は、それぞれがそれぞれの「意味」を持っている。肯定も否定も、それぞれの「文脈」のなかで「意味」となっている。山田は、それを「読まない」。読んだとしても、それを「意味」で「要約」しない。逆に、「文脈」を解体し、「意味の可能性」を「増殖」させる。「意味」を「違った意味」に暴走させるために、次々に違った文章を割り込ませ、「文脈」を切断する。
 あるいは、こう言い直した方がいいのかもしれない。
 「意味」にしばりつけられていることばを、別の「意味」をつくっていることばで切断する。それは「切断」なのだが、「切断」した瞬間に、新しい「接続」に変化し、「異種」の「意味」を「生み出す」。
 オバマを肯定するAという文章がBによって批判されたはずなのに、A→Bではなく、B→Aという形で引用されると、Bを批判する形でAの論理が動いているように見えてしまう。最初の「意味」を超えるものが「生み出される」ことになる。
 そのとき、接続によって生まれた新しい「文脈/意味」は、しかし、重要ではない。そんてものは、どっちにしろ「意味」にすぎない。
 重要なのは、「切断」が「接続」に変化し、その変化が新しい「意味」を「生み出す」。その「生み出す」という「動詞/行為」なのである。
 「意味」ではなく「意味を生み出す」という「動詞の瞬間」を山田はつかみとっている。そして、その「生み出す」という「動詞」は、洗練なんかとは無関係に、ただ「量」によって力になる--と書いてしまうと、かなり危なくなってしまうけれど、「量」がとても重要だと私は思う。山田のやっていることが「絶対量」ではないが、とっかかりはつくったのだ。

 私は目が悪くて40分以上モニターに向かっていると、何も書けなくなる。で、大急ぎで、思いつくままに書くしかないのだが、この詩集は今年いちばんの傑作である。いや、この10年でいちばんだ。ことばをどう語るか、ということへの「問いかけ」がある。
 ことばを集めると詩になる、ということならすでに谷川俊太郎が「カタログ」でやっているが、そこには「秩序(意味)」が指向/思考されていた。いろんな日本語のそれぞれ独自の「文体/効果的な意味の生成方法」を持っていることを明るみに出す、その「文体」の「音楽」を響かせてみるという「意味」があった。
 googleは「意味」を指向しない。指向しないことで「意味」になっている。「量」を手にすることで、「力/正しい」そのものになっている。
 ただ、私はその「量/力/正しい」というあり方に与したいとは思わない。
 山田が、それに与していると感じているわけではない。むしろ「量/力/正しい」に向き合い、それを破壊するために「量」をつかおうとしているように感じる。そこに興奮した。
オバマ・グーグル
山田 亮太
思潮社
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パリのピカソ美術館(2016年05月22日)

2016-06-17 10:34:08 | その他(音楽、小説etc)

パリのピカソ美術館(2016年05月22日)

 アンティーブ、ヴァロリス、パリと三つのピカソ美術館を駆け足でめぐって、ピカソの「立体」のおもしろさを、あらためて感じた。特に、いろいろな素材をあつめてつくり出す形がおもしろい。この素材の集め方(コラージュの仕方)に、私は、やはりスピードを感じる。素材を見た瞬間に、ぱっと、それが動いて形になっていくのが見えるのだと思う。悩みというものを感じることができない。まるで、こども。
 その点から言うと、「塑像」は少し違う。「素材」そのものが「形」をもっていない。だから、というと変なのかなあ。「素材」をいったん「形」にしてしまって、それを組み合わせている感じがする。そういう作品がおもしろい。
 マリー・テレーズをモデルにしているのだと思うけれど、「女の胸像」が私はすきだ。女の頭部がおもしろい。目とか鼻とか頬(頬骨)とかを「顔」にぶっつける。そうすると、目や鼻や頬骨が「顔」を突き破って、顔の「外」に出てくる。つながっているのだけれど、「顔」を破ってでてつくる感じがする。その「出てくる」力がピカソには見えるのだと思う。
 何でも、そうなのだと思う。
 そこに「もの」がある。その「もの」を突き破って、「もの」のなかから力があふれる。「もの」を変形させて、自分の力を知らせる。それに即応する。

 違う観点から。
 ある彫刻家がフラメンコダンサーの「塑像」をつくっているのをネットで見たことがある。モデルにポーズを取らせるのではなく、そのポーズになるまで踊らせ、ポーズを取った瞬間をじっと見つめ、それを再現する。止まったポースなのだが、ダンスを見ることで、肉体の中に動いている力を「塑像」のなかに引き込もうとしているように見えた。ピカソと、こんな手間をかけない。一度見ただけで、「肉体」がどんな具合に動いているかをつかみ取り、それを動きそのものとして形にしてしまう。
 もし、ピカソがフラメンコダンサーを何度も何度も踊らせながらポーズをとらせて作品をつくるようなことがあれば、ポーズが同じ形だとしても、そのポーズをとった回数だけの違う作品をつくってしまうだろう。一度見た、一度だけ見えたものを、瞬間的に、そのまま「運動」としてつくりあげるのがピカソなのだ。
 あるいは女のトルソの「塑像」をつくる過程もネットで見た。腰骨や背骨からつくりはじめ、腹筋やさまざまの筋肉を「人体模型」にあるように、そっくりそのまま内部からつくっていく。乳房も内部からつくり、最後に「皮膚」をまとわせる感じで仕上げていく。見えないけれど「内面」から作品をつくっていく。
 ピカソは、そういう「手間」もかけない。「内部」に「いのち」があることはわかっている。その「内部」をつくれば作品が「落ち着く」ということなど、わかってしまっている。ピカソは「落ち着いた姿」ではなく、「落ち着いて見える姿」を破って内部があらわれるときの「異様」の美しさを、見たままに、見えるままに形にするのだ。

 ピカソを見た翌日、ロダン美術館でロダンとカミーユを見たが、ロダンの作品を見ながら展示室を進んでゆき、カミーユの部屋に入った瞬間に、雰囲気ががらりとかわる。肉体の捉え方が違う。カミーユは静かだ。しなやかだ。ロダンとピカソは、まだ共通点があるかもしれないが、カミーユとピカソは共通点はないなあ、と思った瞬間。
 ふと。
 ピカソは大理石を彫ったことがあるだろうか。リノカットやエッチングのように、あるいは陶器のようにやわらかいものは「彫る」ことがあっても、大理石を彫ったことはあるんだろうか、と疑問に思った。
 カミーユは、大理石のなかに隠れている「いのち」のようなものを彫り出し/掘り出している。
 ピカソは、「彫り出す/掘り出す=発掘する」ということがあるのだろうか。むしろ逆に、外にはみ出してしまうものを、そのはみ出す瞬間、外を突き破る瞬間をとらえる芸術家なので、「掘り出す/彫る」という仕事はしなかったのかもしれない、と思ったのである。
  
 立体作品以外では「セレスティーナ」や「自画像」に、やはり引きつけられる。(マリー・テレーズをモデルにした作品は、私が見たときは展示されていなかった。どこかに貸し出し中なのかな。他の美術館でもそうだが、ここにこれがあるはずと思い見に行って、それが貸し出されているときは、とても残念だ。オルセーで見るつもりだったルノワールは東京で展示中で見ることができなかった。)
 ただ、ひきつけられると言っても、晩年の作品ほど魅力的ではない。「内部」から滲み出してくるものが、「表面」と拮抗している。「表面」を突き破って、「存在」そのものを剥き出しにしない。「滲み出す」ときの、ゆっくりした感じが、視線を吸い込むという動きをする。





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金井雄二「りんごがひとつ」

2016-06-16 09:28:22 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「りんごがひとつ」(「独合点」125 、2016年05月10日発行)

 金井雄二「りんごがひとつ」の最後の方が、なんとなく、おかしい。

りんご
ぼくがその前にいて
白く輝きながら
そのうち
あとかたもなくなる
ぼくが
食べてしまうからだ

 「あとかたもなくなる」が、おかしい。「ぼくが/食べてしまうからだ」と「理由」が書かれているが、そんなことに「理由」っている? いらない。だから、おかしい。
 言い換えると、りんごを食べるとりんごがなくなるというのは、あたりまえ。そういう、わかっていることを、わざわざことばにしているからおかしい。
 ことばにすると、わかっていることでもわからなくなる、というか、違ったものに見えてきてしまう。
 「なくなる」「ない」ということが、「あらわれる」。「あらわれない/見えない」のが「ない」なのに、「あった」ことが「わかる」というか、「意識」のなかで動く。
 ことばにするとなんだがめんどうくさいのだが、そのめんどうくささが、ことばのどこか、「意識」のどこかをくすぐっているらしい。

 「なくなる」まえに、何が「あった」のか。
 「白く輝きながら」。これはりんごの果肉が白いということだね。「赤」ではなくて(「皮」ではなくて)、果肉の「白」。これが「意識」されるのは、吉田拓郎の歌「リンゴ」が、その前に意識されているからだ。

りんごでひとつ
うたをうたおう
ぼくの好きなうた
(ひとつのリンゴを君がふたつに切る)
 (ぼくの方が少し大きく切ってある)
  (そして二人で仲良くかじる)

 拓郎のうたでは「ふたり」。でも、金井の詩には「ぼく」しか出て来ない。ここから「あとかたもなくなる」ということばは、りんごだけではなく、「君と一緒に食べた」という「過去」も「あとかたもなくなった」という感じがしてくる。しかし、「過去」というのは「あとかたもなくなる」ものではない。いつでも「思い出す」ことができる。「記憶」が残ってる。「思い出す」と、その「過去」が「過去」にだけあって、「いま/ここ」にないことがわかる。「あとかたもなくなった」のは「過去のしあわせ」ということかな?
 あ、こんなことは、金井は書いていない。けれど、「あとかたもなくなる」ということばが、そういうことを感じさせる。
 りんごというのは、「食べてしまう」とほんとうに「あとかたもなくなる」かというと、そうではなく、たいてい「芯」がのこる。姫りんごのように小さなものでも「芯」は残る。それはきっと「リンゴ」の「ふたりでリンゴをかじった記憶」のようなものかもしれない。
 「あとかたもなくなる」ということはなくて、必ず何かが「残る」。
 残っているのに「あとかたもなくなる」と言ってしまう。
 これを「悲しみ」にせずに「おかしみ」にしているのが、金井の詩のいいところだろうなあ。「悲しみ」に共感する前に「おかしい」と思ってしまう。そこが、「抒情」を軽くしている。

 この詩には、もうひとつ、おかしなところがある。部分部分を引用する。

りんごがひとつ
齧ろうとしている

 これは「りんごがひとつ(ある)」、それを「(ぼくは)齧ろうとしている」ということ。だから、

りんごをひとつ
齧ろうとしている

 としばらくすると言い直される。
 (この、省略された「ある」は、最初に引用した最後の部分の「あとかたもなくなる」の「ない」と呼応しているのだけれど、こういうことは書くとうるさくなるので、省略ふる。)
 さらに「りんご」は

りんごでひとつ
うたをうたおう

 これは「りんご」が登場する歌を歌おう。思い出してみようということだろう。で、拓郎の歌が引用され、そのあと

りんごもひとつ
齧ろうとしている
りんご
ぼくがその前にいて
白く輝きながら
そのうち
あとかたもなくなる
ぼくが
食べてしまうからだ

 と最後の部分になる。
 この「りんごもひとつ」の「も」は何? りんごがりんごを齧ろうとしている? まあ、詩だから、そういうことがあってもいいのかもしれないけれど。
 「りんご(を)、もうひとつ」とも読める。「さらに、あと一個」ということ。「もう」と書くと(言うと)、しっかり食べる感じがするが、「もひとつ」というと、軽い。
 「が」「を」「で」は助詞。「も」は助詞とも読めるし、副詞とも読める。
 この変化が、妙におもしろい。
 何か、私をつまずかせるものがある。
 詩は、つまずいて、あれっ、今のは何? なんでつまずいたのかなあ、と思いながら自分をふりかえるときに、ふっと見えるものかもしれない。





朝起きてぼくは
金井雄二
思潮社
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浦歌無子「頭のなかではねる単音」、橋本シオン「デストロイしている」

2016-06-15 10:56:33 | 詩(雑誌・同人誌)
浦歌無子「頭のなかではねる単音」、橋本シオン「デストロイしている」(「ココア共和国」19、2016年06月01日発行)

 浦歌無子「頭のなかではねる単音」は

青から薄藍薄藍から紺碧紺碧から群青群青から瑠璃
瑠璃から藍藍から紺青紺青から漆黒って
グラデーション変わってく

 と始まる。
 あ、「頭のなかではねる単音」というけれど、音がぜんぜん「はねない」。おもしろくないなあ、と思っていたら、左目が左のページをぐいっとつかみとる。

バッタが見せる夢はすこし変わっていて
中央に大きな池のあるレストランで
わたしはバターのたっぷりぬられたハムトーストを食べていて
池にはハムレットの像が沈んでいて
頭のなかではアルファベットが脳みそにあたってはねて

 あ、ここはおもしろい。楽しい。「ハムレットの像」は「ハムレット」の方がもっと「音」になるかなあ。
 「バッタ」「バター」「ハムトースト」「ハムレット」「アルファベット」というのは、書き出しの尻取りの繰り返しのようでもあるけれど、そしてそれを「グラデーション」と呼ぶのもおもしろいと思うけれど。
 いや、ここに「グラデーション」という「意味」をひきずってはいけないなあ、と思う。「グラデーション」なんて、最初から「予定調和」。誰がやっても、「意味」っぽくなる。連続する変化というのは「ゲシュタルト」だからというか、「ゲシュタルト」というのは「変化の連続」をベクトル化したものだから--と、私はテキトウな嘘をつきたくなってしまう。
 つまり、そんなことを考えるとおもしろくなくなる。
 で、「ハムレットの像」に戻るのだけれど「像」がない方がいいのは、「ハムレット」だけの方が「固有名詞」だからだ。「ハムレットの像」にしてしまうと、そこに像をつくったひと、像の材質(ブロンズか、コンクリート化、大理石か)というようなものが、それこそ「グラデーション/連続する変化/接続する変化」として絡みついてきてしまう。「ハムレット」だけの方が、読者それぞれが知っているハムレットのまま孤立し、グラデーションを断ち切る。「単音」になりきれる。
 そう思いながら、この詩って、全体はどうなっているのだろうと、読み直してみる。
 途中に、

そとがわでは雨の音
もっとうちがわから聞こえるのは

 という二行が出てくる。「そとがわ」と「うちがわ」は「連続/接続」している。それを「もっと」ということばを差し挟むことで、その「連続/接続」を断ち切ろうとしているのだが、逆に動いてしまわないか。「そとがわ/うちがわ」の「連続/接続」をぐいぐい内部にひっぱりこんで、「うちがわのうちがわ」まで「そとがわ」と「連続/接続」させてしまうことになっていないか。
 「……だから」「……だから」「……して」「……して」という繰り返しも「連続/接続」をひきずっている。あえて、そういう「ひきずる」感じを強調することで「単音」を瞬間的に強調したいのかもしれないけれど。
 でも、それは効果的なのかなあ。
 浦の詩では「骨」の詩がとても印象的で、私はまだそこからぬけ出せないのだが、あの「骨」の詩では、骨それぞれの「固有名詞」が「単音」としてはじけていた。一方で繰り返しあらわれる「骨」そのものが、そこに「連続/接続」が具体的に書かれていないにもかかわらず、「肉体」に「連続/接続」してくる感じがした。「孤立」と「連続/接続」が、読んでいて、私の「肉体」のなかでぶつかりあう楽しさがあった。
 ああいう作品をもっと読みたいなあ、とどうしても思ってしまう。



 橋本シオン「デストロイしている」は小詩集。「ヨシエ」が登場する作品が、私は好きである。その「ヨシエ」の書き出し。

ヨシエ、蒲団の中で芋虫のように這いずりまわっていたのに、気づけば
トーキョーのネオンと踊る。ぐじゅぐじゅの夢から醒めて、あの夢はた
だしかばねを踏み潰すだけのほこりをかぶったゆめの夢の世界だった
と、ヨシエは遠い目で言う。

 「ヨシエは蒲団の中で芋虫のように這いずりまわっていたのに」と書かずに格助詞「は」を省略し、読点「、」にしたところに、橋本の「肉体/思想」があると言えばおおげさだろうか。
 「ヨシエ、蒲団の中で芋虫のように這いずりまわっていたのに」と書くとき、「ヨシエ」は登場人物(主役)ではなく、「主題(テーマ)」なのだ。「ヨシエという人間がいる。彼女は……」を短縮していうと「ヨシエ、蒲団の中で……」になるのだ。
 だから二連目、

だいきらいだ都庁が、あの姿形が、そそり立つ男性器みたいで。

 この書き出しは、実は「ヨシエ、彼女はだいきらいだ都庁が、あの姿形が、そそり立つ男性器みたいで。」である。
 「主語」ではなく「主題」。どう違うのか。
 うーん。「意識」のありかたが違うとしか言えないのだが……。
 「ヨシエ」の行動がいろいろ描かれるが、橋本は「行為」そのものに溺れない。「行為」を書くのは「ヨシエ」という人間、彼女が考えていることを浮き彫りにするため、という意識が強く働いていると思う。
 ここに書かれている「行為」を「私/橋本」もするけれど、だからといって、ここに「私/橋本」が書かれているのではなく、そのことばのなかで動いているのは「ヨシエ」であるという、「切断」が強調されている。
 ちょっと外国語っぽい。フランス語やスペイン語で、こういう言い回しがあると思う。主役を最初に言って、それを代名詞で受けて文章がつづいていくというのが。「ヨシエは……」ではなく、「ヨシエ、彼女は……」という「構文」があるように思う。日本語で書かれているのに、「翻訳」みたいな、乾いた感じがするのは、そのせいかな?
 「ヨシエ」が登場する二つ目の作品は「ヨシエと性行為について」であり、

子供を持つ男の性器が、十五年ぶりに女に触れる。ヨシエはまだ二十四歳
と六ヶ月で、皮膚にはまだハリがある。

 と書き出される。それから性行為と、その感想が書かれるのだが、「肉体」を感じさせるというよりも、「距離」というか、「肉体」を見つめる「精神」の方が浮かび上がる。「肉体」を「精神」でみつめなおす「二元論」。とても「乾いている」。

男の汗を拭ってやりながら、約一時間の行為は終了し、男性器も女性器
も、何も変わりがないと、ヨシエは思った。形と意図が違うだけで、同
じ座標で蠢いているだけの、歳をとっても、果たして何も変わらないの
だと。

 「座標」ということば。「具体的な行為」を抽象化する「定義」。「実存/定義」の「二元論」というのだろうか。これも「我思う、ゆえに我あり」から始まる、フランスの「二元論」だなあ、というようなことを考えた。「ヨシエは思った。」の「思う」という「動詞」がとても印象に残る。

ep.
橋本しおん
キリンスタジオ
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ピカソ展ルードヴィヒ・コレクション

2016-06-15 09:14:40 | その他(音楽、小説etc)

ピカソ展ルードヴィヒ・コレクション(佐賀県立美術館、2016年06月14日)

 ピカソ展ルードヴィヒ・コレクションで私がいちばん気に入ったのは「鶴」(ブロンズ)である。
 ガス管(ガス栓)とショベルとフォークを組み合わせて立体にしている。ガス栓のねじの部分を鶴の鶏冠にして、ショベルは胴と翼(ショベルの土を救う部分を半分に切って形を変えている)、フォークは足だ。
 この作品には、ピカソのデッサンのスピードがくっきりとあらわれている。何を最初に見て、それが「鶴」に見えたのかわからないが、どれが最初であっても、それが鶴の「肉体」の一部に見えたとき、他のものがぱっとそのまわりに集まってきて、一気に形なる。いつも見ていた何かが、突然、違って見えてしまう。ガス栓のねじが鶴の鶏冠に見えたとき、ショベルが翼になってみつかる。フォークは足になってやってくる。
 「材料」を変形させるのではなく、「材料」がそのまま「形」になっていくのが「見える」のだ。「材料」が隠している「形」が見えてしまう。違う形になりたがっている、その「もの」の欲望が見える。それを、そのまま後押しする。「材料」のなかから「形」があらわれてくるのを手助けしているという感じかもしれない。「材料」そのものがもっている力を、そのまま引き出すから、「加工」に手間がかからない。あっというまに作品になってしまう。実際にどれくらいの時間をかけてつくったものかわからないけれど、「一瞬」にしてつくったという感じがする。
 ピカソの何かを「見てしまう」視力には試行錯誤というものがない。ピカソの視力には迷いというものがない。
 そのスピードに、私の視力はのみ込まれてしまう。そこにあるのは「鶴」ではない。しかしし、ピカソの「鶴として見てしまう」スピードにひきずられ、「鶴」にしか見えなくなる。「これは何かなあ、鶴かなあ、ガス管かなあ」などと考えている「時間」がない。ボルトが百メートルを九秒台で走るのを見ているとき、ただそのスピードの美しさに感動して十秒を忘れるのに似ている。いや、それ以上。その作品にピカソがどれだけ時間をかけたのか、そんなことは「思いもしない」。「一瞬」にして完成したと感じてしまうのである。
 そして、何と言うのだろう、そこにある「不自由」をたたき壊していく「自由」の力も、そのときに感じるのだ。ガス管もショベルもフォークも、完成された形。(あるいは、それらはつかわれなくなった不良品かもしれないのだが。)その「完成されたもの」を縛っている既成の力を破壊し、もう一度エネルギーを与えなおし、「自由」へ向かって解放する力というものを感じる。「革命」というとおおげさかもしれないが、これから何がおきるのかわからない、何が起きてもかまわない、すでにあるものを違うものに変えていくのは楽しい、という無邪気な喜びがある。喜びの、はかりしれないスピードがある。

 陶器作品では「頬づえをついている顔の水差し」がおもしろい。水差しの形ができて、それからそれに絵を描いたのか、頬づえをついている女を描きたくて、その水差しをつくったのか、わからない。きっと、同時に思いついたのだろう。この「同時」というのがピカソのデッサンのスピードである。あらゆることが「同時」なのだ。この壷には、横を向いている顔と正面の顔が組みあわさっているが、それはひとりの女のなかで「同時」におきることである。女は頬づえをついたまま正面を見ているとしても、その顔には同時に横顔がある。立体のなかで、それが自然に融合している。「複数」の時間を「同時」につかまえてしまうのだ。

 「接吻」も好きな絵だ。男が女にキスをしている。キスをしながら体をまさぐっている。女は「やめて」というように、その手を拒んでいる。男は、女の顔を見つめながらキスをする一方、「同時」に、女の手を「そんなことするなよ、触らせろよ」という感じで見ながら手に力をこめている。ひとは「同時」にいくつものことをする。そして、それは「いくつものこと」でありながら「ひとつ」。キスは単に唇をあわせること、舌をからめることではない。そのとき「味わっている」のは唇の感触だけではない。「ひとつ」のことをしながら「同時」に「複数」のことを感じ、動いている。この「交錯する感じ/交錯する肉体の動き」を一瞬にしてとらえてしまうピカソのデッサンのスピードが、とても楽しい。快感である。笑い出したくなる。
 「読書する女の頭部」は、わかりやすい作品といえるだろう。左半分には光があたっている。右半分は影になっている。その影になった部分、うつむいた睫毛は、読んでいる本をすこし離れている。「活字」を追っているのではなく、ストーリーを追っているのではなく、そこで動いている「感情」に共感しているように見える。「読みながら共感する」というのは誰にでもおきること。それは「同時」に起きているのだが、「同時」ではあっても少し「時差」がある。この「時差」というか「ゆらぎ」を多くの画家は「ひとつの表情」にしてしまうのだが、ピカソの筆のスピードは「ひとつ」を「解体」し、もういちど「統合」する。いや、統合という「おとな」っぽい行為ではないかもしれないなあ。「解体」によって生まれたものをぶつけ合う。そのときの衝突、その衝撃を楽しんでいるといった方がいいのかも。何だって作り上げるときよりも、それをたたき壊すときの方がはるかに楽しい。ここまで壊すことができる、という喜び。壊すことではじめて見えてくる「秘密」のようなものが楽しいし、こわれたものをさらにぶつけて「形」ですらなくしてしまう。そこに「生まれてくるもの」は何? わからない。「知らないもの」が生まれてくる喜び。それは意外と「肉体が知っている」ものだったという、不思議な「安心感」もあるかもしれない。そういうものすべてが「同時」に、そして「一瞬」よりもはるかに短い時間の内に起きてしまうのがピカソなのだ。



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ピカソ「戦争と平和」

2016-06-14 20:24:07 | その他(音楽、小説etc)




ピカソ「戦争と平和」(ピカソ美術館@ヴァロリス、2016年05月20日)

 ヴァロリスはアンティーブとカンヌの中間くらいのところにある小さな街だ。ピカソは、ここで陶器に出合った。陶器に目覚めた。たくさんの陶器をつくっている。それを見に行ったのだが、思いがけず「戦争と平和」に出合った。
 私は、実は、その絵を知らなかった。私の読んだ旅行ガイドには、「戦争と平和」のことが書いてなかった。
 陶器の、立体のおもしろさ、立体を生かした絵(立体と一体になった絵)、油絵にはない強い色に夢中になって、何度も展示室を往復した。リトグラフも楽しかった。あとは広場で「山羊をかかえた男」の彫像といっしょの写真を撮って帰ろうと思っていた。すると、見知らぬひとが、陶器の前を行ったり来たりしている私の方に近づいてきて、「あっちもピカソがある」と言うのである。
 指差す方向へ歩いていき、その部屋に入る。それは、蒲鉾形の、窓のない部屋である。この蒲鉾形の部屋は、実は礼拝堂である。その曲面に「戦争と平和」が描かれている。
 その部屋に入った瞬間、動けなくなった。異様な緊張感がある。
 入って左側が「戦争」、右側が「平和」と言われている。それが、向き合う形で、丸くなって(曲面を描いて)、天井でつながっている。ふいに、「胎内」ということばが思い浮かんだ。「赤ん坊」になって、「胎内」から、「母親の肉体」を通して、世界をみているような気持ちといえばいいのだろうか。
 私は、これから、どっちの方へ生まれていくのか。それを思うと、こわくなったのである。
 それだけではない。「胎内」「生まれる」ということばが、絵を見ている内に、「生む」ということばにかわっていく。私は男だから「子宮」はもちろんない。「産む」ということは肉体的に不可能なのだが、「生まれる」というのは「産む/生むということなのだと感じた。
 「共感」が、そう感じさせる。描かれていることが「わかる」ということが、そう感じさせる。「わかる」のは、それを私が知っているから。実際に体験したことではなくても、「わかる」。その「わかる」とき、私の「肉体」のなかで「何か」が動いている。そこに起きていることに通じる「何か」が起きていて、それが瞬間的に「生まれ」、同時に私は「生み出している」。
 「戦争」の、右の男の持つ刃物の先は赤く濡れている。その下には、手が助けを求めるように動いている。そのまわりは赤い。血だろう。大地が血に染まっている。影絵のアニメーションのように、黒い影が、誰かを殺すシーンを連続して描かれている。その動きに、なぜか魅了されてしまう。私はひとを殺したことはないが、子どものとき、遊びで蛙や蛇や魚を殺したことがある。私は「殺す」ということを「肉体」で知っている。やせて、あばらぼねが浮き出た馬(その白い線)の悲しみにも、ぞくぞくするものがある。友達をいじめたときの、その悲しみが目からあふれてくるのを、ぞくぞくする感じで見ていたことがある。あの、手だけになって、なおも誰かに助けを求める指の動きも、もっと見ていたい、これからどう動くのかを確かめたいという気持ちが生まれてくるのだ。
 「平和」は、美しい。ペガサスの無邪気な動きが楽しいし、よそ見している右の子ども(ペガサスの手綱を持っている子ども)の明るさがいい。女のダンスの、下半身の動き、その線の速さはエロチックなものを含んでいて、思わずうれしくなってしまう。ピカソの線は、ともかく速い。「肉眼」が一瞬だけ見たものを、見たままに描きだすスピードがあって、どきどきしてしまう。右の方では子育てをしている。赤ん坊におおいかぶされるような女の形が、とてもなつかしい感じに見える。いちばん右の、顔のないのは男だろうか。考えを書き留めているのだろうか。
 太陽の描き方もいいな。太陽のまわりに木が生えているなんて、うれしくなってしまう。笑い出してしまう。この「太陽」は、また産道にも、女性の性器にも見える。まわりの「木」と見えていたのは、陰毛である。クリトリスはどれ?などと、思ってもしまう。
 これらの「妄想」は、「生まれる」のではなく私が「生み出す」もの。
 私以外のひとは、私とは違う感想を持ち、その瞬間瞬間、私とは違う人間となって生まれているだろう。違う人間を産み出しているだろう。

 「生む/生まれる」ということに、差はない。違いはない。

 不思議な「混乱」のなかで、私はシスティナの大壁画を思い出していた。天井の中央に描かれたアダムの指。正面の壁の最後の審判。入り乱れる群像。こんなにごちゃごちゃ描いているのに、乱雑な感じがしない。なぜか。和辻哲郎は「イタリア古寺巡礼」のなかで、イタリアには「分割統治」の伝統がある。ローマ帝国の時代から、都市都市に、それぞれの地方の統治をまかせてきた。システィナの絵は、それぞれの「区切り」のなかで完結しているというわけである。
 一方、ピカソの壁画には、そういう区切りはない。左の壁から天井へ、天井から右の壁へ、「曲面」がつづいている。区切りは、色と線のなかにしかない。それは「任意」であるというか、動いている。どこにどの線が描かれ、どこにどの色がおかれようと、それは絵を描くピカソの自由。そして、そのどれを見るかは見る人の自由。
 あらゆる瞬間に「生む/生まれる」が起きる。そして、そこには「とぎれ/区切り」がない。
 これが、この絵の「緊張」の原因だ。人間は、どんな動きもできる。どんな人間にもなれる。「生む/生まれる」は「なる」でもあるのだ。

 この礼拝堂を出たら、外はどうなっているのだろう。「戦争」だろうか、「平和」だろうか。私は、外に出た瞬間、何になって生まれるか。何を生み出すのか。

 ピカソは、「戦争」と「平和」を同時に描いた。それは人間が「戦争」も「平和」も自分の手でつくりだすことができるという「証明」かもしれない。
 しかし、こんなことを考えるのは、私が「疲れている」からだろう。「頭」が疲れていて、「肉体」が楽しめないでいる。
 もっと違う時代に、もう一度、この絵を見に来たいと思った。
 「戦争」は終わった、「平和」のなかへ生まれていくのだという「わくわく」する感じを、「肉体」で味わえるときが来たら、もう一度見てみたいと思う。




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ピカソ「生きるよろこび」

2016-06-13 08:26:19 | その他(音楽、小説etc)


ピカソ「生きるよろこび」(ピカソ美術館@アンティーブ、2016年05月20日、21日)

 ピカソ「生きる喜び」は、フランス・アンティーブの「ピカソ美術館」にある。この絵を見に行ったとき、幼稚園児くらいの子どもを相手に、女性が絵の説明をしていた。これがとてもおもしろかった。
 この絵には直線と曲線がある、というような説明から始まった。左上のヨットは帆が直線で描かれている。三角形である。この三角形は海に映るヨットの影にもつかわれている。さらに笛を吹く男(獣、山羊?との組み合わせ)の体のなかや、遊ぶ子山羊たちの体のなかにも、女の足の交錯したところにも隠れている。その組み合わせが、まるで音楽のようである。(ということまで説明していたかどうか、私のフランス語ではよくわからないのだが、女性が絵のいろいろな場所を指し示しながら語るので、かってに想像した。)
 右の男の、右下の茶色い、うんこというか、ひげというか、それを指して「これは何?」と聞いている。子どもたちは、すぐには答えられない。でも、同じ部屋にある別の絵を指し示しながら、それが動物の尻尾であることを教えている。「同じ形をしてるでしょ」。そう、右の男は、ちょっと目にはわかりにくいが、やっぱり山羊と男が合体した生き物なのだ。
 それからタンバリンを取り出した。女のひとが手の先の「まるい白」。あれは手で輪っかをつくっているのではない。タンバリンを持っているのだ。男は笛でメロディーをかなで、女はタンバリンでリズムを刻む。その音楽にあわせて、女と子山羊たちがいっしょに踊っている。そう説明している。さらにタンバリンを子どもたちにまわして、「叩いてみて」と言っている。(子どもだから、軽く叩く子もいるが、思いっきり叩いて、叱られたりもしている。)そのあと、プレイヤーで、笛とタンバリンの音楽を実際に流し、それも聞かせている。
 その音楽を聴きながら、絵を見ながら、私が考えたのは(感じたのは)。
 このタンバリンの丸は、子山羊たちの「顔」の形にもなっているということだ。「顔」が「音楽」になっている。「音」を奏でている。
 前日、ひとりで見ていたときは気がつかなかった。あっ、子山羊たちが、こっちをみている。子山羊は「あ、見られた」と思いながらも、踊ることをやめることができない。この瞬間、あ、見てはいけなかったのかな、と思ってしまう。そんなことを感じさせるくらい、楽しさにリアリティがある。そう思いながら見ていたのだが、タンバリンが「顔」になっている、「肉体」になっていると思うと、その踊る喜びがいっそう強く感じられた。後ろ脚で立ち上がったり(左の子山羊)、飛び上がったり(右の子山羊)、「体」が音楽になって、かってに動いてしまう。やっぱり、見てはいけない「喜び」を見てしまったのかなあ。
 こういう「動きのリアリティ」を含んだ線(デッサン)は、ピカソは、まさに天才。「写真」のように「リアル」な「形」ではないのだが、そのひとつひとつが、目に見たままなのだ。「肉眼」というのは、どんな精密機械よりもすばやく対象に焦点をあてて、何かを見てしまう。「肉眼」には何かが見えてしまう。
 私たちは(私は、というべきなのかもしれない)、何かを見たとき、その形を「わかる」ようにととのえてしまう。絵に描いて誰かに示すときは、そのととのえ方はさらに厳しくなる。「見たまま」ではなく、誰かに「見えるように」描く。ことばで言えば、肉体からあふれてくる音をそのまま無秩序にあふれさせるのではなく、単語にし、さらに「文法」にあわせてととのえ、文章にするように、絵の場合も「形」をととのえている。「ととのえた形」を「わかる絵」として学んでいる。
 でも、ピカソは違うのだ。
 子山羊の足の力が入っている感じ、立ち上がったときの胴の豊かな感じ、それから「顔」が「山羊」なのにまるで「人間」のように見える、その見えるままを描くことができる。
 おかあさんの丸くておおきなおっぱい。細い腰。おしりのしっかりした丸さ。まげた膝。伸ばした足。足の裏。足の甲。みんな、それを見た瞬間の、見えたままの形を描く。それはほんとうに「見てはいけない」秘密の「リアリティ」かもしれない。ピカソは、それを自在に組み合わせる。
 ふつうはそんなことをすると「デッサン」がばらばらになる。「歪む」。
 ピカソの絵を、そんなふうに「歪んだデッサン」「狂ったデッサン」「子どもよりもへたくそな電算」と見るひともいるかもしれないが、私には「見えたまま」を描き、そのバランスがまったく正しいものに見える。「写真」のように「動き」を一瞬を切り取ったのではなく、「いのち」が動いている、その「動き」そのものを「動かして」描いているように見える。

 幼い子どもの描く絵は、「デッサン」が狂っているように見える。学校では「デッサン」を正確に描くこと(写真のように描くこと)が求められる。そのための「教育」もする。でも、あれは「見えたまま」描くというよりも、「こう描けば誰にでもわかる」という「形のととのえ方」の勉強であって、「見えたまま」を描くということではないと思う。
 ピカソの絵を見ると、特に、そう感じる。
 ピカソは、子どもが何かを見たときの「見える」驚きをそのままに描く。「見てはいけないもの」を見たときの驚きのまま描く子どもの力強さを、さらに突き進めて、「いのち」に高めている。子どもの絵の「稚拙さ」に似ているかもしれないが、子どもにはこんなに「強く」は「見たまま」を描けない。「動き」を「動かしながら」描くということはできない。
 そんなことを思った。

 絵の説明は20分以上つづいた。30分くらいあったかもしれない。
 最後に、ここにはいろいろな青がつかわれているが、それはどうやってつくり出すのか。「先生」は女の体の青い色を絵の具を実際にまぜてつくってみせた。びっくりしてしまった。えっ、こんなことまで、こんな子どもたちに教えるのか。色をまぜることで、他の色とのバランスがとれる。そう語っている。わかるかなあ。いまはわからなくてもいい。でも、きっといつか思い出すだろうなあ。
 ウィーンでクリムトの「接吻」を見たとき、ここでも偶然、子どもたちに絵の解説をしているところに出くわした。そのとき、子どもたちにほんものの「金箔」を手に取らせてみせているのに驚いたが、ヨーロッパでは、幼いときから「ほんもの」に触れさせ、ほんものについて真剣に語るのだ。(洋服の幾何学模様についても、そのハーモニーについて、真剣に説明していた。)
 ウィーンでも感心してしまったが、ここでも感心してしまった。

 アンティーブの「ピカソ美術館」には、ピカソがヴァロリスでつくった陶器の作品もある。皿にいろんな模様が描かれ、彩色されている。その形、皿を指でえぐって描いた線が、子どもの無邪気な強さを感じさせ、とても楽しい。

 さらに。
 この美術館は、ピカソがアトリエとしてつかっていた城。つかわせてもらったお礼に作品を残していって、それで「美術館」になったのだという。窓から地中海の青い海が見える。その透明な光を見て、さらにもう一度ピカソを見つめなおす。なんとなく、ピカソになった気分。








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ウッディ・アレン監督「教授のおかしな妄想殺人」(★★★★)

2016-06-13 02:25:44 | 映画
監督 ウッディ・アレン 出演 ホアキン・フェニックス、エマ・ストーン

 ウッディ・アレンの映画は、アメリカ映画にしては緑がとても美しい。私の印象で言えば、イギリス映画の緑に似ている。陰影があるのだ。
 で。
 最近の映画に特徴的なのだが、この緑の陰影の、「影」のなかで女優を撮ることが多い。実際にシーンの数を比較したわけではないのだが、なぜか、そう感じる。(「マジック・イン・ムーンライト」のエマ・ストーンの撮り方で、私は、それに気がついた。)
 大学のキャンパスをホアキン・フェニックスとエマ・ストーンが会話しながら歩くシーンなんか、背後の芝生というか広場には光があふれているのに、手前の二人は「緑陰」のなか。木の緑も、日の当たった部分と影になった部分をしっかりとみせている。
 私は目が悪いので、この「緑陰」のなかな表情というのは、ちょっとつらいのだけれど、「緑陰」のなかだと、女優の肌がやわらかな透明感をもってひろがる。目の色との対比も静かになり、「毒」がなくなる。
 「毒」というと、まあ、変かもしれないけれど。
 たとえば、「テス」のナスターシャ・キンスキーのような、あ、この目で見つめられたら何でもしてしまう。この肌、唇に触れることができるなら、自分がどうなってもいいと感じるような、強い「魔力」がない。
 とても静か。何か、「のみ込まれてしまいそう」というよりも、「支えてくれる」という感じかもしれないなあ。「落ち着ける」という感じかなあ。
 昔から、ウッディ・アレンは、女性の「純な感じ」に支えられる男というものを描きつづけているような気がするけれど、(たとえば「マンハッタン」)、最近、それがいっそう強くなっていると感じる。
 エマ・ストーンは、撮影の仕方によっては、とても強烈な「顔」になるはずなのに、一歩引いている感じ。遠くから目立たなくてもいい、そばにいるときだけわかってもらえればいいという感じということもできるかな?
 それがね。
 書いていることと矛盾するけれど、「どうして私のことをわかってくれないの」という感じでホアキン・フェニックスに迫るところが、矛盾しているだけに、とてもおもしろい。静かな「緑陰の映像」に、激しい感情が動く。この対比が、わっ、刺激的。
 ウッディ・アレンは、ほんとうに女の描き方、女優のつかい方がうまい。
 一方、ホアキン・フェニックス。すごい中年太り。最初はシャツの下に詰め物でもして「体型」をつくっているのかと思ったが、裸になって醜い腹をさらけだしている。本物だったのか、と思わず、うなるね。
 この、ホアキン・フェニックスだが、いままでのウッディ・アレンの「主演男優」とはかなり異なる。「ブルージャスミン」のケイト・ブランシェットが異質の女優だったように、とても強烈。演技のアンサンブルをはみ出して動く。ストーリーではなく、「肉体」そのものが、何かを語っている。「役」ではなく、そこにしかいない「個人」になっている。こんな役者だったかなあ、と驚いてしまう。
 ウッディ・アレンの映画では、女優ばかりがアカデミー賞を取っているが、この演技でホアキン・フェニックスが賞を取るならば、ちょっとおもしろいなあ、と思う。
                     (KBCシネマ1、2016年06月12日)






「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
マジック・イン・ムーンライト [Blu-ray]
クリエーター情報なし
KADOKAWA / 角川書店
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松田朋春『エアリアル』

2016-06-12 15:18:09 | 詩集
松田朋春『エアリアル』(ポエムピース、2016年05月15日発行)

 松田朋春『エアリアル』にはさまざまな詩があるが、「はなす」がおもしろかった。

はなしてごらん
しまってあるものを
言うのではなく
喋るのでもなく
はなしてごらん
はなしていないことを

自由にしてあげなさい
はなしていないことを
あなた自身も

 「はなす」は「話す」であり「放す」である。
 「しまう」ということばが二行目に出てくる。「しまう」は「しめる/閉める」「とざす/閉ざす」。その反対は「ひらく/開く」。この「開く」と「放す」を結びつけると「開放する」になる。
 自分のなかに「閉ざし」ていたものを「開いて」「放す」。
 そういうことが強く意識されているのだが、あえて漢字では書かない。漢字にすると「意味」が強くなりすぎる。それに「話す」ということばとの関係が見えにくくなる。

 「言うのではなく/喋るのでもなく」という二行は「話す」ではないんだよ、と言っているようにもみえるが、そうではなく「話す」ということばが意識されているからこそ、そう言うのだろう。
 「言う」「喋る」と「話す」はどう違うのか。
 「話す」には「放す/開放する」という意味がある、ということ。「自由にする」ということ。
 とらわれているものを自由にする。そのとき、自由は「はなす」ひとにも、はねかえってくる。「閉ざす」必要がなくなった。「閉ざす」という行動から開放/解放され、自由になる。
 「秘密/隠し事」を考えてみるといいかもしれない。自分のなかに隠していたものを、開いてみせる。ことばにして、告げる。
 「放す/話す」ことは何かを自由にする以上に、自分自身を自由にする。
 「放す/話す」ではなく、そのとき「開く」という「動詞」の方が、「肉体」に強く還ってきているかもしれない。
 自分が「開かれる」。「開かれて」、自分のなかに新しい空気や光が入ってくる。
 それが「自由」の「定義」になるだろう。

 「動詞」のなかで、「意味」が交錯する。ことばの「意味」がとけあって、新しく生まれ変わる。

 こういうことは、ほかの詩人も言っているかもしれない。
 しかし、ほかのひとが言っていてもかまわない。
 自分で言い直す。自分のリズムで、ことばをととのえる。ことばを自分のものにする。そのとき、自分自身が、自分から離れて自由になる。
 つまり、詩になる。

 「はなす」は「放す」であり、「離す」でもある。詩は、詩を書いた人を「離れて」、知らないところへ旅していく。

はなしてみなさい
小川に小舟を浮かべるように

 小川を流れる小舟のように。
 その小舟が、きょう、私のところへ流れてきた。
エアリアル
クリエーター情報なし
ポエムピース
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ノエミ・ルボフスキー監督「カミーユ、恋はふたたび」(★★)

2016-06-12 09:21:51 | 映画
ノエミ・ルボフスキー監督「カミーユ、恋はふたたび」(★★)

監督 ノエミ・ルボフスキー 出演 ノエミ・ルボフスキー、サミール・ゲスミ

 フランス個人主義と私が勝手になづけている「生き方」がある。この映画には、その「フランス個人主義」がいっぱい。
 主人公というよりも、その周辺、高校の教師に、それが濃厚に描かれている。どの教師も「平均的な教育」というのか、「日本の教科書に書かれている知識」を教えようとはしていない。自分の「好み」をことばにしてまくしたてる。自分の「好み」以外のことには関心がないというだけではなく、それを「自分のことば」として、「体系」として語る。「哲学(思想)」として、語る。「哲学(思想)」というものは、完全に個人のものであり、他人がとやかくいうものではないのだが、それを逆手にとって、ただ「自分の好み」まくしたてる。教師の「好み/好みを語ることば」が、つまり教師本人が教科書なのだ。
 「物理」の先生は、宇宙の深淵について「詩的」に語る。宇宙(物理)と詩の融合が、その教師の「哲学」なのだ。で、「いけない」と思いながら、主人公の女性と(40歳の熟女?)に手を出してしまったりする。詩が、恋愛が、倫理に優先する。そのひとを語ることばそのものが、すべてに優先する。
 「演劇(?)」の教師は、生徒の感情など気にしない。自分が演出する芝居の完成度のことしか考えていない。教師ではなく、芝居の「演出家」になってしまっている。
 そうか。フランスでは、「平均的な知識/受験に必要な知識」を学校で学ぶのではなく、「おとなの生き方」を学ぶんだな。「おとな」はどんなふうにして「わがまま」を言うか。「おとな」になるためには、どんなふうに「わがまま」を「ことば」にして、相手を説得するか。自分の思っていること、「わがまま」をきちんと「ことば」にして生きていく。それが、「おとな」だ。
 「イギリス個人主義」も「ことば」と強い関係にある。イギリスでは「本人がことばにしなかったこと」はすべて「存在しないこと」になる。周囲の人がいくら「秘密」を知っていても、本人が「ことば」として語らないかぎり、それは「プライバシー」であって、けっして「公開された事実」ではない。
 「フランス個人主義」では、どんなことでも「ことば」にして言えないなら、何をしても「個人」として存在したことにはならない。人間が人間として存在するために、「ことば」がいる。自分で自分を語ることが重要。どんなに「でたらめ(?)」であっても、自分で自分を語るとき、そこに「人格を持った人間」が生まれる。「人格を持った人間」になるためには、自分を語らなければならない。
 で。
 たとえば、たとえばたばこを吸う。おとなの女の小道具。でも、ただ、それをかっこよく吸うだけではなく、それを「自分のことば」で言い直す。ゆっくりと息を吐くのはどうしてなのか。そのとき「こころ」は何を思っているのか。どういう言い方ができるかが、「おとなの女の価値」なのである。
 主人公が、若い女子高校生にたばこの吸い方(ポーズのとり方)を教え、それにこたえて、女子高校生が「ことば」で自分を描写する。こういうことが「おとな」になること。まあ、たばこを吸うなんて、どうでもいいことだが、そのどうでもいいことを、いかに「わがまま」に、つまり「自分」として語るか。それがフランス人の「生き方(思想)」なのだ。
 体育の授業で、平均台で演技している友達を見ながら、顔は何点、胸は何点、尻は何点などと騒いでいるのも、「フランス個人主義」のあらわれ。平均台の上でどんな演技ができるかという「体育」の「基準」など、どうでもいい。そんなものは「学校」が決めた「判断」。おとなの、個人の「好み」とは無関係。誰が何ができるかではなく、そのとき「自分の好みをどう語ることができるか」が重要なのだ。中年の、中年太りで垂れてしまった尻を批評して「尻は平ら(0点)、胸は巨乳(点数なし)」なんて、平然というところが、いかにもフランスの女子高校生。笑ってしまう。
 そして。
 この「自分のことばで語る」ということの重視は、逆に言うと、フランス人は「語られたことば」でしか、その人を判断しないということ。
 だから、主人公は40女で、泥酔したときにタイムスリップして女子高校生になっているのだが、周囲のひとは彼女を40女と見ないということろにも象徴的にあらわれている。「容姿」を見ていないのだ。「容姿」について批評はしても、それをそのひととは見ない。あくまで「ことば」で自分をどう語っているか、そのとき「好み」をどう語っているかでしか向き合わない。「好み」を語ることばだけが「事実/実在」であって、そのほかのものは「実在」しない。こんな「哲学的な」、つまり、こんなに現実を無視したでたらめな(いいかえると、形而上学的な)設定の映画は、フランス人にしかつくれない。
 この「自分の好みを、自分のことばで語ることで、ひとは個人(おとな)になる」という思想が、結局、恋愛→結婚→破綻という人生のなかで、さまざまに動く。ぶつかりあい、ゆらぎ、新しく何かを発見する。それが楽しい--ということなのだが。
 結末やストーリーは、関係がないなあ。
 「わがまま放題」のフランス人気質にどっぷりつかり、フランス人がどうやって「わがまま」を調整して生きているか、それを傍から見て楽しむ映画だね。フランスへ行ったら(特にパリでは)、いかに自分の「わがまま」を相手に伝えるか、それを学ぶ映画だね。(「わがまま」を言えないというとこは、そのひとの「人格」が確立されていないということ。)40女が物理の教師を口説き落とした(?)ときのように、あともう少し、もう一分、もう二分、あと五分だけという感じで、「自分のことば」を語る。語ることで、だんだん知り合いになっていく。親しくなっていく。「語る」ことだけが大切ということだね。(パリっ子になるには何としてもフランス語を身につける必要がある。わがままになる必要がある。)
 この「ことば」重視は、主人公がテープで「ことば」を録音しているところに象徴的に表現されている。「ことば」があるとき、そこには「ひと」がいる。「おとなのひと」がいる。主人公の母親が、スチームの配管で暖をとっているハチを見つけ、そっと外へ逃がしてやるまでの「ことば」なんか、とても泣かせる。あのハチを見守るように、きっと主人公のことも見守っていたのだろう。テープで「ことば」を聞くたびに、主人公はその母親を思い出す、母親の真実(思想)を知る、というのが、とても気持ちがいい。忘れられないシーンだ。
                      (KBCシネマ2、2016年06月08日)







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菅井敏文『コラージュ』

2016-06-11 10:01:03 | 詩集
菅井敏文『コラージュ』(洪水企画、2016年06月15日発行)

 私は、とても苦手なことがある。「語呂合わせ」である。この「語呂合わせ」のため、私は歴史が嫌いになった。もともと何かを覚えるということが苦手なのだが、歴史の「年号」を覚えるための「語呂合わせ」に出合って、そんな面倒なことはとてもできない、と感じてしまった。何年という数字と事実だけ覚えればすむはずなのに、「語呂合わせ」で関連づけるという「手間」が面倒で、これはやっていられない、と子どもごごろに思った。「語呂合わせ」の延長にある「だじゃれ」も、私は苦手。おもしろいというよりも、ふたつのことを結びつけるのが面倒くさいのである。
 で。
 菅井敏文『コラージュ』なのだが、ふんだんに出てくることば遊びが、私には、とても面倒くさい。延々とつづく遊びに、「楽しい」と感じるよりも、「わぁ、根気があるなあ」と思ってしまう。

鰤武器桐箪笥寸胴鍋
禿げげそそ知らぬぬばたま
発哺闊歩窒素そっぽ
有為不作為即天嘆願                       (「うん」)

 これは「しりとり」と「韻」を踏む遊びをごっちゃにしたものだが、この「細かさ」に私はどうしてもついていけない。気配り(?)ということが、私は、どうも性分にあわない。
 ただ「発哺」というのははじめて見ることばなのでどう読んでいいのかわからないのだが、次の「かっぽ、ちっそ、そっぽ」を参考にすれば「はっぽ」になるのかな、と思う。そして、そう読むときの、この行は、ちょっと楽しい。
 音が弾むからである。
 その弾みを利用して、「有為不作為即天嘆願」も、わりと気楽に読むことができた。「有為不作為」には「音」だけではなく「漢字」の「だじゃれ(?)」のようなものもあって、楽しかった。

レファラ
らっきょで絶叫京都でラファレ
ラファレレファレミソドどれから                (「レファラ」)

 は、この詩集のなかではいちばん楽しかった。特に「どれから」が楽しい。「名詞」ではないところが、いい。「音」だけになっている。もっと、こういう「ことば」、「音」で動いていくことばがあると、楽しいのだと思う。
 「意味」が消えて、ことばが「音」になる。そこから始まる「音楽」なら楽しいのだが、「音」が「意味」をぶら下げていると、とても窮屈に感じる。
 これは、まあ、単に私の好みの問題なのだろうけれど。

 あ、音が楽しくないなあ、窮屈すぎるなあ、と思いながら読み進むと、「ひるむ」という詩が、唐突に、あらわれる。

一瞬唖然として凍り付く
青い色のコラージュがすべり落ちる
凝然と見る先に
激しい怒りの炎がある
命の火がある
簡単に分解は起こる
今まで支えていた多数の部品がはじけ飛ぶ

 詩集のタイトルの「コラージュ」ということばも出てくる。
 あ、そうか、そういうことだったのか、と納得というか、私は勝手に「誤読」するのである。
 「語呂合わせ/ことば遊び」ではなく、ことばの「コラージュ」。それは「意味」を「分解」し、つまり「解体」し、言い換えると「無意味化」し、それを「部品」としてはじけさせてしまう。ばらばらにしてしまう。
 何かを「もの」を解体し、その奥に隠れていた部品をずらりと並べる感じ。並べなおす感じ。
 目覚まし時計は、こういう部品でつくられているというのをきちんと並べてみせる。さらにオルゴールや薬罐やスマートフォンや、身の回りのものを全部、ねじ一個にまで分解して並べなおす。その「一覧表(一覧図?)」をつくる感じかなあ。そういうものがずらりと並ぶと、「視覚」が圧倒されるね。見えなかったものを、丁寧に見せつけられる感じ。
 その「部品」は、

溜めてこらえていた思いが
噴き出して止まらない

 という感じで「分解/部品化」されていく。「ことば」の奥に、「意味」にはらないない「溜めてこらえていた思い」を見ているのか。「溜めて」「こらえていた」と畳みかけるリズムがいいなあ。「肉体」を感じる。
 ことばが「溜めてこらえている思い」を、ことばとことばをぶつけることで、分解させているということなのか。
 ここから「ことば遊び」の詩を読み返せば、きっと違ったもの(私が「面倒くさい」と呼んだもの以外のもの)が見えてくるのだろうけれど、でも、私は実は「引き返す」ということも「面倒くさい」と感じてしまう人間なので、先に進む。
 「ミネさん」という詩。そのなかほど。

ミネさんの家は疾うに壊され
敷地を借りておれの車がそこに置いてある
玄関の場所 トイレの位置 部屋の配置
それを明瞭に思い出すことができる
家の中の臭いを感じて今鼻がむずむずしている
ミネさんの生活の断面がおれの記憶に刻印されている
関係ないと思っていたことが
そのように意識とは別にあるのが人間の記憶で
よみがえることで関係が再び生成される

 「関係ないと思っていたことが/そのように意識とは別にあるのが人間の記憶で/よみがえることで関係が再び生成される」という「意味」を「コラージュ」にあてはめて見つめなおすと、菅井のやっていることを語りなおすことになるだろう。
 関係ないと思っていたことばがコラージュされると、ことばのそれぞれの「意味」と思っていたものとは別な「記憶」があらわれる。そしてそれは、よみがえることで、いままでのことばとは違う「関係」を生成しはじめる。
 そういうことを、やっているのだ。
 で、そのときの、「意識とは別にあるのが人間の記憶」、私はそれを「意味と思っていたものとは別の記憶」と言い直してみたのだが、それを菅井の書いている詩のなかのことばで言い直すと、
 
玄関の場所 トイレの位置 部屋の配置
それを明瞭に思い出すことができる
家の中の臭いを感じて今鼻がむずむずしている

 ここだね。「玄関」「トイレ」「部屋」というのは「意味」だ。それはそれぞれの「位置」をしめている。「位置」、つまり「配置」されることで生まれる「関係」があるのだが、「場所/配置/関係」の「閾(しきい)」を超えて「臭い」が動いている。「玄関」には「玄関の臭い」「トイレにはトイレの臭い」があるのかもしれないが、それとは別に「家」全体の「閾」を超えてひろがる「臭い」というものもあるね。何か、その家独特の、その家ならではの「臭い」。
 それを「肉体/鼻」がおぼえている。思い出して「むずむず」している。「肉体」のなかに「臭い」をつくりだしているのかもしれない。
 これと同じことが、ことばの「コラージュ」をするときに、菅井の「肉体」のなかで起きているのだ。それぞれの「ことばの場所」、ことばがある場所を占めることで獲得/確立する「意味」を菅井は明瞭に知っている。知っているけれど、同時に、そこに「意味」にならない「特有の臭い」を感じ、その「臭い」にしたがって、ことばを配置しなおす。ぶつけなおす。そこから「関係が再び生成される」。
 あ、私は音痴(耳が悪い)だけではなく、鼻も悪い。「臭い」につつまれると、それがどんな臭いであれ、息苦しさにおそわれる。
 菅井のやろうとしていることは、なんとなく「頭」でわかった。しかし、私は、それを「肉体」で体験しなおすことができない。私は耳も鼻も弱い。(目も悪く、長い間パソコンのモニターを見ながら書くというのも、実はとても苦しいのだが、私は、この詩集では「視覚」を主につかって読んでいるなあ、と反省している。)耳も鼻も頑丈な読者向けの詩集だと思った。強靱な「肉体」の読者が、もっと楽しく感想を書いてくれるのを期待しよう。

コラージュ
菅井敏文
洪水企画
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渡辺武信「知っている唄」ほか

2016-06-10 11:02:24 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺武信「知っている唄」ほか(「現代詩手帖」2016年06月号)

 渡辺武信「知っている唄」には「岩田宏に」というサブタイトルがついている。追悼詩である。その一連目、

生に意味はない
とまでは言わないが
どんな意味も死の向う側には行けない
どんな功績も宝石に変わらず
どんな商売も生涯は満たせない
奔放に生きて情婦を囲っても
ひとり引きこもって毛布を被っても
順位はつけられずメダルも受けられない

 読みながら、私は、思わず「死の向う側には」という部分に棒線を引いた。「死の向こう側」って、どこ? 「死」そのものが「向う側」ではないのか。
 彼岸/此岸ということばがある。
 死んだら行くのが「彼岸」。生きているときは「此岸」にいる。
 だから「死の向う側」とは「死んだら行くことになっている向う側」ということになる。「向う側」を強調して、ことばを重複させていることになる。あるいは「向う側の死」と言い直すこともできる。これも「向う側」を強調している。
 でも、違うかもしれない。「向う側」ではなく、「向う側」ということばが隠していることばをこそ、強調しているのかもしれない。
 二連目に、その、一連目では隠されていたことばが出てくる。

どんな記憶も生と共に消える
わたしたちは ただ
こちら側に記憶を残していくだけだ

 「こちら側」。そして、その「こちら側」は「わたしたち」と同義である。
  「わたしたちの側/わたしの側/こちら側」から、岩田は「向う側」へ行った。そして、そのとき岩田は「記憶/意味/ことば」を「こちら側/わたしの側/わたしたちの側」に残して行った。
 これを渡辺は、さらに言い直している。

ひとりの詩人 言葉使いが
膨大な言葉の記憶を
わたしたちに託して去った

 岩田という詩人が、膨大な言葉を「わたしたち/こちら側」に「託して」死んだ。このとき「こちら側」にいるのは渡辺だけではない。「わたしたち」だから他の人もいる。渡辺は常に誰かと一緒にいる。誰かと一緒という感覚が「こちら側」に含まれている。「共生感覚」とでもいうのだろうか。
 読みながら、「あ、昔は、共同体だったのだ」と思い出すのだ。
 で。
 ここから、私は、唐突に詩の冒頭に戻る。

生に意味はない

 この「意味」とはなんだろう。

どんな意味も死の向う側には行けない

どんな記憶も生と共に消える

 これは、言い直しだろう。つまり、その二行は

どんな記憶も死の向う側には行けない

どんな意味も生と共に消える

 なのだが、これは正確には、

岩田が作り上げた(岩田が語った)どんな意味も死の向う側には行けない

岩田が岩田自身のなかにもっているどんな記憶も生と共に消える

 これは、さらに

岩田が作り上げた(岩田が語った)どんな意味も死の向う側には行けない
けれど、岩田が作り上げた意味はこちら側(わたしたちに)に記憶として残る
つまりわたしたちが生きるかぎり岩田は生き続ける

岩田が岩田自身のなかにもっているどんな記憶も生と共に消える
けれど、岩田が語ったことばは意味としてこちら側(わたしたち)に残る
つまりわたしたちが生きるかぎり岩田は生き続ける

 と読み直すことができる。
 こんなことは、私がわざわざ言い直したり、書き直したりしなくてもいいことなのだけれど、なぜ、こんなことを書いたかというと。
 「死の向う側」ということばに思わず棒線を引いたとき、そしてそのことばが「こちら側」ということばと強く結びついていると感じたとき、私には、ふいに渡辺武信が見えた気がしたのである。
 「ことば/意味/記憶」は「共同体」のなかで「詩」になって生きていたのだ、その「詩」を生きている渡辺が見えたのである。「共同体としての詩」を生きている渡辺の肉体が見えた気がして、とても懐かしくなったのである。
 いま、現代詩はかつてのような「共同体」をもっているのだろうか。詩人は「共同体」を生きているだろうか。

 「遠い木霊」の一連目。

死者への想いは遠い木霊に似ている
ここから呼びかけても
相手は答えず私の声だけが還ってくる

 「ここ」ということばが出てくる。「側」を含まない。(二連目からは「ここ」が「“ここ”」とちょんちょんカッコで表記されている。) 「こちら側」と書いていた渡辺が「ここ」と書いている。それにともない「わたしたち」は「私」と言い直されている。(二連目に「私たち」が出てくるが、これは「私と恋人」である。)
 この「こちら側」から「ここ」への変化は大きい。岩田を失って、渡辺は「ことばの共同体」を失ったことに気がついた。孤立しているのだと気がついた。その「孤独」が、強く感じられる。
 詩は個人のものだが、そのときの「個人」というのは「共同体」のなかでの「個人」である。詩はそれぞれに孤立したものだが、それはあくまで「共同体」のなかでの孤立というのが、渡辺の「青春」なのだ。

補記

 「共同体としての詩」は、たとえば、「どんな功績も宝石に変わらず」の「功績」と「宝石」の語呂合わせの形で「共同性」が書かれている。岩田の得意としたことばの運動だが、それを渡辺は「共有」することで岩田になろうとしている。ここから書きはじめると(あるいは読みはじめると)、また違う感想になるのだが。

続・渡辺武信詩集 (Shichosha現代詩文庫)
渡辺 武信
思潮社
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北川朱実「パラパラ、」

2016-06-09 09:29:31 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「パラパラ、」(「朝明」創刊号、2016年05月08日発行)

 北川朱実「パラパラ、」は一連目が非常に魅力的。

草が生えたアスファルトが
妙にふくらんで
ワニが飛び出してきそうだ

 「ワニ」が唐突でおもしろいのだが、この「唐突」の前にある、

妙にふくらんで

 この、まるっきり「散文」という感じのことばが絶妙だ。
 アスファルトを突き破って草が生えてくる、というのは日常的な景色である。草が生えている部分はひびわれている。その周辺は、ときにはふくらんでいる。具体的に、そのふくらみを表現することはむずかしい。具体的にことばにできたら、きっと、その一行が「詩」である。ここを「具体的に」、つまり「詩的に」は書かずに、「妙に」という気楽で、気安いことばでやりすごし、そのあとに、「ワニ」。
 日本の街中で、そんなものが出てくるはずがない。だから「唐突」と感じるのだが、この唐突さ、あるいはでたらめさの瞬間に、見えていた風景が破壊され、消えてしまう。
 そこが、「詩」。

 二連目、

深夜の都会の裏通り
金属の筒をしきりに地べたにあてて
盗聴する人

 「ワニが飛び出してきそう」というのは、私には「真昼」にしか思えない。深夜はワニは眠っているだろうし、深夜にアスファルトのふくらみなど見えない。見えにくい。真昼の光がつくりだす光のつや、うっすらとひろがる影が「ふくらみ」を感じさせる。
 「ワニ」も唐突だったが、その「ワニ」の「真昼」から「深夜」へと時間が瞬間的に変わってしまうのも唐突だ。
 「アスファルト」がかろうじて「都会」へとつながっている。しかし、「都会」じゃなくても、いまの日本はアスファルトだらけ。
 「金属の筒をしきりに地べたにあてて/盗聴する人」というのは、わざとらしいねえ。三連目で言い直すために、わざと、そう書いている。

--水道管の水漏れは 乾いた音がします
  人の笑い声に似ています

 「盗聴する人」は「水道管の水漏れ」を検査する人。
 そう言い直したあとで「水漏れの音」を「乾いた音」と言い直し、さらに「人の笑い声」と言い直す。「水」と「乾いた」は矛盾している。相いれない。そういうものが衝突すると「唐突」という感じがする。
 「唐突」というのは、別なことばで言い直すと「はっとする」。驚く。
 こういう「驚き」を「詩」と呼ぶことができる。
 北川は、「唐突(驚き)」を「詩」と考えているのだろう。「唐突」を「唐突」として、出現させる。
 しかし、どんな「唐突」なことであっても、自分でことばにしてしまったら、その瞬間から、それは書いた人にとっては「唐突」というよりも「自然」あるいは「必然」になる。自分の「ことば」をくぐるということは、「知ってしまうこと」あるいは「わかってしまうこと」だから。
 さて、どうする?
 北川は、「唐突」を持続させるために、「唐突」と同時に、「持続」を持ち込む。「地続き」を持ち込む。
 「アスファルト=都会」「草=裏通り」「盗聴=音」「盗聴する人=水漏れ検査をする人」「ワニ=水」「アスファルト=地べた」「乾いた音=笑い声」
 なにかしらの「持続」があって、その上で「切断」があり、「持続」があるからこそ「切断」が「唐突」になりうる。
 この「持続/切断」の関係は、増えるたびに世界を「拡大」させる。「拡散」させる。そして、このとき「詩」は「唐突」はなく「拡散」という形になる。世界のひろがり方、ちらばり方、散らばった世界をつなぐ存在としての「肉体=北川」が、その中心にあらわれてくる。
 「あらわれてくる」とは言っても……。
 ちょっと、「超絶技巧的」かもしれない。
 四連目、

目の中をスコールが渡って
こぼれた空のようなポンチョと
カヤツリ草で編んだサンダルを履いて
サバンナの国からやってきた青年は

 うーん、「水漏れ」の「水」は「スコール」へと接続し、「スコール」は「サバンナ」に、「サバンナ」は逆戻りして「草」へとつながり、一連目を呼び戻すのだが。「盗聴する人」は「青年」かどうかわからない。サバンナの国からやってきた青年が、日本の(?)都会で水漏れの検査をするかどうかわからない。
 「スコール」は「雨=水」だが、それは「空からこぼれてくる」。「こぼれてくる」ものは「水」なのだが、量が多いので「空がこぼれてくる=落ちてくる」という感じかもしれない。
 そういう魅力的なことばを含みながら、さらに、二転三転して、「パラパラ、パラパラ、」という行を挟んで、

パラパラ、パラパラ、

乾いた音がこぼれるたびに
遠い草原が雨になる

考えごとをしながら
ほこりを巻き上げてやってくるバスも濡れて

 と作品は閉じられる。
 なんだか「予定調和」みたい。二連目の「深夜」はもう遠くへ消え、一連目の「真昼(ことばとしては直接書かれていないが)が戻ってくる。「草が生えたアスファルト」は「ほこり」と「バス」に、(この「バス」は「ワニ」かもしれない)、詩を貫いていた「水」は「濡れる」という動詞でよみがえり、そこにも「ワニ」がひそんでいるかもしれない。この、「調和」。「予定調和」の「意味」もはっきりわからないまま、私は、思ってしまうのだった。あまりにも「技巧的」、これが「予定調和」というものだったら。


ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ
北川 朱実
思潮社
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阪本順治監督「団地」(★★★)

2016-06-08 10:53:51 | 映画
阪本順治監督「団地」(★★★)

監督 阪本順治 出演 藤山直美、岸部一徳、大楠道代、石橋蓮司、斎藤工

 あ、困ったなあ。映画を見ている感じがしない。芝居を見ている感じ……。
 特に、ラストの方のクライマックス(?)の宇宙船が団地の上空にあらわれ、その後、藤山直美、岸部一徳が宇宙船に乗り込み、大楠道代、石橋蓮司が見えない相手に向かって大声で会話するシーン。舞台なら感動するだろうなあ。特に藤山直美の演技がすばらしい。山の中を「舞台(板の上)」に変えてしまっている。観客が見ている、その視線を感じながら、それを「肉体」で吸収し、ストーリーに転換し、「肉体」から発散する感じ。うーん、芝居小屋なら感動してしまうだろうなあ。でも、私は映画を見ている。スクリーンで、こんなふうに目の前に観客がいることを前提とした演技をされてもなあ。ちょっと、醒めてしまう。
 随所に、こういうシーンがある。
 藤山直美がパート先のスーパーの店長に叱られて、裏口でレジを打つ練習をするシーンは、とても好きだなあ。洋服の柄のボーダーをバーコードに見立て、「ぴっ」「細かいのをお持ちですか?(小銭をお持ちですか?)」「ありがとうございます」というような、動作をくりかえす。それを大楠道代が盗み見するのだが、見られていることを知らずに、無心に、淡々と、無表情にやっている。そのときの「全身感」がすごい。体のどの部分もしっかりスーパーのなれないレジ係のおばさんになっている。どうしてレジで働かなければならないのか、ということまで感じさせてくれる。このシーンなど、舞台が暗くとけてゆき、一点、スポットライトがあたったなかで藤山直美が演技する感じだなあ。
 団地で、みんなの噂話を聞いて、それから階段を上りはじめるシーンや、向かいの部屋の少年が「ガッチャマン」を歌うのを聞いて、「きれいな歌だったよ」と励ますときの感じも、アップなのだけれど、全身感がある。(アップだったせいか、ここは「映画」を見ている感じがした。観客に向かって演技をするのではなく、共演者に向かって演技をしている感じがした。その「共演」の「共」のなかに引き込まれていく感じ。--これが、「映画」の感じ。)
 で、この「共」の感じがいちばん出ているのが、漢方の薬をつくるシーン。岸部一徳とふたりで薬草を切ったり、煎じたりしながら、「丸薬」にする。その過程が、ことばで説明されるわけではなく、淡々と手作業がくりかえされる。「泥まんじゅう」のようなものをつくり、それを伸ばし、奇妙な洗濯板みたいなものに挟んで、一個一個にする。その作業がおもしろい。途中で、岸部一徳が部屋の温度、湿度を気にして除湿を指示したりするところなんかも、「無意味」になりきっていて、楽しい。「詩」になっている。ストーリーなのに、ストーリーを突き破って、二人の動きとものの変化が生きている。とても「濃密」な空間と動きがスクリーンを支配し、そこにのみ込まれていく。
 岸部一徳が疲れ切って、半分眠りながら、藤山直美にもたれかかるようにして薬をこねる(?)ところなども、真似してみたくなる。このひとは、こういうひとなんだ、と受けとめて、もたれかかる岸部一徳を受けとめながら、そのまま仕事をつづける藤山直美の姿は、あ、これがこの夫婦の「形」なのだ、と感じさせる。「歴史」というか、いっしょに暮らしてきた「時間」が、叩いてもこわれない感じで噴出してきている。
 でも、やっぱり全体が「芝居」だなあ。「映画」じゃないなあ。
 原因はなんだろう。登場人物が少なすぎる。いや、出演者が少ないというのではなく、そこには実際にスクリーンに映る人の数だけした人間がいない、というのが問題なのだと思う。姿をあらわさないけれど、そこにはたくさんのひとが生きている、という「団地感」が希薄なのである。それぞれの登場人物は「過去」を持ってい動いているけれど、その「過去」の持ち方が、「自分の過去(夫婦の過去)」という形でしかない。「噂話」という横のつながりがあるけれど、その「横」が登場している人物の外へ広がっていかない。テレビ局や警官も出てくるが、どうも「背後の組織」が感じられない。役者たちがみんな「映画」の演技ではなく、「芝居」の演技をしている。
 「芝居」というのは、それが「架空」のものであることを観客は了解済みである。限られたひとしか舞台の上にあらわれない。舞台の上の「現実」は架空のもの、書き割りである。「現実」を省略して、エッセンスをみせているということを、観客は了解している。
 でも、映画は違うね。そこに描かれる舞台、たとえば団地が「架空」の団地であったにしろ、その建物はセットではなく、本物。それぞれの部屋の中には、それぞれの生活があり、ひとが生きている。その感じが、どうも伝わってこない。
 藤山直美、岸部一徳は「いま/ここ」ではなく、「過去」そのものとつながって、たまたま「ここ」にいるだけだから、それはそれでいいのだが、周囲が、ずっーとそこに住んでいるという感じ、そのまわりに他人とのいろいろな関係がある、という感じがしない。藤山直美ショウと思えばいいのかもしれないが、どうも不全感が残る。
 不思議な青年の「ごぶさたしています」を「ごぶがりです」というギャグなども、舞台なら客席からの笑いの反応があり、その反応にあわせて役者が次の演技の呼吸(間合い)をはかるのだが、映画では役者と観客の呼吸のやりとりがないので、どうも醒めてしまう。私は藤山直美の舞台をみたことがないのだが、この映画は舞台にするととてもおもしろいと思う。舞台で、この映画を見てみたい。ぜひ、舞台化してもらいたい。
                      (KBCシネマ1、2016年06月05日)





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