詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-14)

2017-05-14 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-14)(2017年05月14日)

27 *(どこからその坂を)

どこからその坂を登りはじめたのか

 魅力的な一行から始まる。坂が幾つもあり、そのうちのどの坂を登りはじめたのかと自問しているのか。あるいは坂と意識しはじめたのは、坂のどの地点からだろうかと自問しているのか。

暮がたのしずかな頂上だつた
遠くにきらめいている一つの星があつた

 頂上に立っているのだから、いくつもある登り道の、どの道からと考えるのが自然なのかもしれない。「どこ」も、それを問題にしている。しかし、私は後者と読んだ。どの道にしろ、それを坂と認識するかしないかということの方が重い。
 「どこ」は「いつ」とも通じる。こういう「意味」の「ずれ」に詩がある。私たちは「ことば」の意味を辞書通りにはつかわないことがある。辞書通りではなくても、意味が通じる。
 たとえばマラソンの選手に「どこで勝利を意識しましたか」と聞く。「〇〇選手を追い抜いたときですね」。「どこ」と問われて「とき」と答える。特に不自然というわけではない。
 で、「どこから」を「とき」と考えていると……。

そのときふつと女のことを忘れようと思つた
いつだつたかもうそれからかなり日が経つている
長雨にふりこめられてふたりは一歩も外へ出なかつたことがある

 「そのとき」と「とき」が出てくる。「そのとき」から坂を登りはじめたのだとわかる。「いつだつたか」と「いつ」も出てくる。
 このとき嵯峨は「二人の部屋」という「場」を思っている。「とき」(いつ)と「場」(どこ)は固く結びついている。
 だからこそ、

それつきりぼくはもう家に戻らなかつた

 と、「場」が最後に登場する。「そのとき」に戻らなかった。「とき」は過ぎ去るものかもしれないが、ひとは過ぎ去るにまかせず「戻る」(やりなおす)ということがある。「戻る」と「そのとき」はいつでも「いま」になる。「いま」を捨てたのだ。それを思い出している。

28 イヴの唄

イヴは何処にもいない
ぼくのなかで火薬と藁で飼われている

 「いない」といいながら「ぼくのなか」で「飼われている」。
 「ぼくのなかにいるイヴ」と「ぼくの外にいるイヴ」が違ってしまったということか。「火薬」と「藁」はいったん火がつけば燃え上がり、消えてしまう、危険な存在ということか。
 いまはこういう比喩が成り立たないかもしれない。
 ということは、詩の批判をしたことになるのか。そうでもあるし、そうでもない。この時代には、こういう比喩が成り立っていた。すくなくとも嵯峨は「藁」というものを知っている時代の詩人である。正直に「時代」を呼吸していたということが、いま、その比喩が成り立たないところからわかる。

 (嵯峨の詩の感想から逸脱死することになるかもしれないが、これは重要なことだと思う。競馬馬くらいしか見ない時代に、野生の馬を見たみたいに詩を書く人がいるが、こういう感覚を私は信じていない。読んできたことを、それがたとえ「想像力の世界」にしろ比喩、抽象としてつかうことに私は疑問を感じている。)

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-13)

2017-05-13 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-13)

25 玄猿

 「玄猿」とは何だろう。子猿を失った母親の猿を描いている、と読んでみる。

玄猿は
冷え切つた悲哀のなかにいる
その脳は
光線の屈折だけを反射する
神は手の先きから逃げさつたのだ

 「冷えきつた」ということばが「子猿」の「冷えきつた」亡骸を連想させる。「神は手の先きから逃げさつた」は「いのち」が手の先から遠ざかっていく、という印象を与える。「冷えきる」「逃げさる」という「動詞」が呼びあってイメージを作る。

失つたやさしい本能が
小さな脳のなかを掠める
忽ち狂つたようにかけめぐる
停止したものに気づいたらしい
なくなつたものを求めて
猿は金網をゆすつてかけめぐる

 「かけめぐる」という動詞が二回出てくる。「逃げさつた」いのちはつかまえられない。呼び戻せない。知っていても、「かけめぐる」のである。「本能」が「かけめぐらせる」のである。
 正しい本能のまま動いても、実現できないことに出合ったとき、そこに「悲哀」が生まれる。

26 *(死ぬことは)

死ぬことは
他の日に考えよう

 何度も繰り返される「死」、「死ぬ」という動詞。これをこの詩では最終行で別のことばで言い直している。

そして自己埋葬のイマージユのなかを子供のぼくが駆けぬけていく

 「死」は「自己埋葬」である。自分で自分を葬る。その「イマージユのなかを子供のぼくが駆けぬけていく」というのは、よく読み直さないといけないかもしれない。
 「自己埋葬」するときの「自己」というのは「いま/ここ」にいる「自己」だろう。そうすると、当然、その「自己」は「子供」ではない。また「幼い子供の自己(自己の中の幼い部分)」を「埋葬する」というのとも違うだろう。「幼い自己」を埋葬するとき、その「自己」は死んでいるのだから「駆けぬけていく」という「動詞」はふさわしくない。「死」は「動かない」。
 私はこの行を「いまの自己を埋葬する」、そうすると「その埋葬したいまの自己/死んだ自己」のなかから「幼い子供の自己」がよみがえり、駆けだした、と読む。「再生」である。生まれ変わりである。
 嵯峨が書く「死」のなかには「消滅」ではなく、「再生」のイメージがある。「再生」した「いのち」が動いているから、感覚を刺戟してくるのだろう。

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-12)

2017-05-12 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-12)
23 小さな位置

誰にも忘れられることは怖しい
それは死のなかにもいなくなることだからだ

 死よりも忘れられることが怖い、という「意味」だと思う。ここでは「怖しい」は「定義」されていない。「忘れられる」ということが定義されている。「怖しい」は「忘れられる」ということを感情に刻み込むためのことばのようである。
 「感情に」と思わず書いてしまうのは、二行目が「それは……だからだ」という「理由(論理)」を声明する「構文」でできているからである。
 何か「感情」というのものが置き去りにされている感じがする。「感情」のことを書いているのに、「感情」は遠ざけられ、「論理」でことばが動いている。嵯峨の「抒情詩」には、そういう性質があると思う。
 「死のなかにもいなくなる」の「なかにも」が、「理詰め」という印象を引き起こす。

24 *(太陽と言葉との間に)

太陽と言葉との間に
ぼくは硝子の梯子を立てかける
どこまでもそれを登つていつてぼくは夜を探すのだ

 ここには「論理」が不思議な形で動いている。
 「太陽と言葉の間に」「梯子を立てかける」、そして「登る」。そのとき、「ぼく」は太陽に近づくはずである。太陽に近づくことは「夜」になることではない。「真昼」のままだ。太陽の近くに「夜」があるというのは、とても奇妙だ。
 「論理」になっていない。
 だが、ほんとうにそうか。
 「梯子を登る」とき、そこに「時間」が経過していく。普通、時間は朝から昼へ、昼から夜へと動いていく。太陽が出ていても、太陽は沈む。そして「夜」になる。「登る」という動詞が「時間」をつくりだし、「時間」が「夜」をつくる。「太陽に近づいていく」ということを無視すれば、そういう「論理」がなりたつ。
 また、太陽がある宇宙空間。それは基本的に「暗い」、つまり「夜」だ。光はそこにあるが、周辺は「暗い」。空気(散り)が太陽の光を乱反射させないから「青空」はそこにはない。月のように「暗闇」のなかに存在する太陽というものを、私たちは「知っている」。太陽のまわりに「夜」が存在することを知っている。
 だから、「夜を探す」ということばに、それほど違和感がない。
 私たちは(私だけかもしれないが)、「論理」的に考えるようであって、そうではない。「知っていること(覚えていること)」にあわせて、「論理」をねじまげてしまう。「覚えていること/知っていること」とことばが重なる部分があると、それを「論理的」と思い込んでしまう。
 頭/脳というのは、ご都合主義なのだ。自分の都合のいいように考えてしまう、考えたことを「論理」にしてしまうのが頭/脳というものなのだろう。
 そういう「論理」が「科学的」ではなく、どこかねじれている、そして「感情」に働きかけてくるとき、それを私たちは「抒情」と呼ぶのかもしれない。
 このあと、詩は、

もし暗黒がものの始めなら
ぼくはそこから死を手に持つて降りてくるだろう

 「死」は「死」そのものというよりも、「生」の根源的なあり方というものの「比喩」かもしれない。ひとは生まれて、生きて、死ぬ。その「過程」全体の秘密が詩の「ことば」ということか。

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-11)

2017-05-11 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-11)

21 *(過ぎ去った場所をたえず歩くものよ)

過ぎ去った場所をたえず歩くものよ
名の上に名を重ねても
ほんとうの名は帰つて来ない
昨日は川岸を誰も通らなかつた
ただぼくのなかで一つの名がゆきつもどりつした

 一行目は、現実には不可能なことである。過ぎ去った場所(通ってきた場所)を歩くことは現実にはできない。想像のなかでしかできない。
 この「想像」を嵯峨は最終行で「ぼくのなか」ということばで言い直している。
 この「ぼくのなか」は、少し形を変えると、この作品の様々なところに補うことができる。

過ぎ去った場所をたえず歩く「ぼくのなかの」ものよ
名の上に「ぼくのなかの」名を重ねても
ほんとうの名は帰つて来ない
昨日は「ぼくのなかの」川岸を誰も通らなかつた
ただぼくのなかで一つの名がゆきつもどりつした

 「名」は恋人の名か。「ほんとうの名は帰つて来ない」とは「ぼくのなかの名」ではなく、つまり「想像」の恋人ではなく、「現実の」恋人は帰っては来ないということだろう。
 「ぼくのなかの」川岸を誰も通らない。恋人の名を呼ぶ「ぼく」だけが何度も行きつ戻りつしたのだ。恋人の名を呼びながら「ぼく」が何度もゆきつもどりつしたのだ。
 「現実の川岸」ではなく「ぼくのなかの川岸」であるから、それは、言い換えると、そういう詩を(ことばを)何度も書き直した、ということになるだろう。


22 離れ島

その船が
どこにも着くところがなかつたら
離れ島の石牢の前に着くだろう
そしてそのまま何十年も繋ぎ放しになるだろう

戸口は
不在者を閉じこめて誰かを待つているだろう

そういう言い伝えを信じて
港の人たちは見たこともない離れ島をいまだに思つている

 最後の「思つている」の「対象」、「思われているもの」は「離れ島」であるが、それは「離れ島」というよりも、詩、である。
 「離れ島」であると同時に「石牢」であり、「閉じ込められた不在者」である。「閉じ込められた不在者(不在者を閉じ込める)」というのはあえないことだが、そのありえないことがかたく結びついて結晶している。それが、詩である。ことばでだけ生み出すことができる「現実」を詩という。
 そして詩は、「思う」というよりも、「信じる」ものかもしれない。「言い伝えを信じて」の「信じて」には嵯峨の思想が強くあらわれている。

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-10)

2017-05-10 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-10)
19 絨毯

ぼくは外に溢れ出るものを持ちながら
もはやここからたち去つていかねばならぬ
ふたりの間にあるのは掌ほどの小さな宇宙だつたが
そこでぼくは愛することの難しさを教えられたようだ

 「外に溢れ出るもの」とは「大きなもの」だろう。「掌ほどの小さな」ということばと向き合っている。「外に溢れ出るもの」は「掌ほどの小さな宇宙」からも溢れ出ていく。
 この「溢れ出る」と「たち去る」は同じことを語っている。「溢れ出る」ものにしたがってぼくは「たち去る」。
 求められる以上に愛するのではなく、愛するということは求められるものを配慮せずに愛してしまうことである。
 ここまでは「論理的」に読むことができる。
 しかし、後半がわからない。

そのとき太陽はぼくをどこからか射しはじめたか
ぼくはその場処について考えている
それはよく飼いならされよく鞣されていた
今日ぼくにの残されたのはこの唯一の絨毯だけである

 「絨毯」とは何だろう。何の比喩だろう。絨毯は「なめし革」でできているのだろうか。

20 *(おまえはどんな遠くよりも遠く)

おまえはどんな遠くよりも遠く
どんな近いところよりもさらに近い
そこは死の直下で
また生の真ん中だ

 「おまえ」とはだれなのか。「人称」で呼ばれているが「人間」ではないように感じられる。
 「遠く」と「近く」、「死」と「生」が対比される。このときまず「遠く」「死」が想起され、そのあとで「近く」と「生」ということばがつかわれている。「遠く」から「近く」へ、「死」から「生」へと動いている感じがする。
 「近く」「生」そのものをみつめようとしている。「近くよりさらに近く」の「さらに」が、そういうことを語っている。「また生の真ん中だ」という行には「さらに」を補って「また生の真ん中よりさらに真ん中だ」と読み直すことができると思う。
 「おまえ」とは「ぼく」自身の「内部/核心」、「ほくの核心よりもさらに核心のぼく」のことだろう。

おまえは失つた日の坂に立つてぼくを呼ぶ
そしてどこかにある血の樹よりも
真赤な夕日をあびて烈しく風にさからつて立つている

 「ぼくの核心(血)の核心(血)」は「樹」のように立っている。ここにも「さらに」を補って読むことができるだろう。

そしてどこかにある血の樹よりも
「さらに」真赤な夕日をあびて烈しく風にさからつて立つている

 「さからって」は「さらに」を言い換えたものである。風にさからって「さらに」強く立っている。

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-9)

2017-05-09 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-9)

17 問いと答え

小さな空き地にできた可憐な小屋が
ふたりのあいだのこころない火で燃えつきてしまう
そして頂は頂として
ただそこへいく道の傾斜だけがはつきり見えてくる

 詩の二連目の四行だが、なんとも意味がとりにくい。
 書き出しの二行は「想像力」で小屋を燃やしているのだろう。「もし火をつけたら、すぐに燃えつきてしまうだろう」と暴力的な想像をしている。そういう想像は、あるいみでは青春の特権だ。
 わかりにくいのは後半。わかりにくいけれど、「ただそこへいく」の「ただ」が印象に残る。「ただ」は前の作品で見た「どうしても」に似ているかもしれない。「ただ」は「無目的」、「どうしても」は「明確な目的」を浮かび上がらせるかもしれない「どうしても」そこへいくのではなく、無目的に「ただ」そこへゆく。
 そういうとき「頂」ではなく、「いく路の傾斜だけ」が「はっきり見えてくる」。「頂」か「未来/これからいくところ」なのに対し、「傾斜」は「いま」そのものだろう。その「いま」がはっきり見える。
 「タイトル」に結びつけて読むと「答え」は「頂/未来」であり、「問い」は「いま」ということになるか。何かを「問う(問い)」とき、「いま」が「はっきり」見えてくるということなのだろう。 


18 不在の日

日はふたたび来ることがない
だが 詩のなかにはやつてくる

 この「来る」は「どこから」来るのか。「未来から」である。「未来」ということばが思い浮かぶのは、書き出しに「日」ということばがあるからだ。「日」のなかに「時間」があり、それが「未来」ということばを呼び覚ます。
 この「来る」は「去る」と言い直すことができる。ただし、そのときは「ふたたび」は無効になる。「ふたたび」が「意味」を持ちうるのは、「去った日」が「もどる」というときである。
 「日は流れ去って、ふたたびもどることがない」
 そうであるなら、この詩のキーワードは「ふたたび」である。「キーワード」であるから、それはほかのところでは省略されている。大事なことば(作者にとっての思想)は、しばしば無意識なものである。意識する必要がないから、書き忘れてしまうのである。それくらい作者の肉体にしみついている。「ふたたび」を別な行に補ってみるとそのことがよくわかる。

だが 詩のなかには「ふたたび」やつてくる

 過ぎ去ったものを「ふたたび」いま/ここに呼び「戻す」ことが詩なのである。
 そしてこのことは、まったく逆な形で言い直すことができる。過ぎ去っていったものを「ふたたび」とり「戻す」のではなく、先取りしてしまうのも詩なのである。
 「過去」を「ふたたび」とり戻すよりも、「未来/まだ存在しない時間」を、あたかも「過去」に体験したことがあるかのように「思い出す」のが詩である。
 この、私の説明は「矛盾」しているが、矛盾しているから、それが詩なのだとしか、私にはいえない。
 その「矛盾」を嵯峨は次のように書いている。

死のなかを通る日をきみはいつ見たか
どのような言葉でその不在の日を捕えたか

 死はだれにとっても「未来」であり、それは存在していない。この存在していないもの(不在)を先取りするものこそが詩である。
 この「不在」は「すでに存在したもの/既在」によって、「予兆」のようにして書いたものが詩。死のなかに「不在」がやってくる。しかも、それは「ふたたび」なのである。

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-8)

2017-05-08 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-8)

15 幸福

忘れた名はどうしても思い出せない
遠い路をどこまでも歩いていつた
どこからも合図などない

 「どうしても思い出せない」の「どうしても」という強調がこの詩のキーワードだろう。「思い出せない」ということよりも「どうしても」ということの方を書きたい。
 「思い出す」という動詞は次の行で「歩いていつた」という動詞にかわる。「どうしても」は「どこまでも」ということばにかわる。「果てがない」ということが、「どうしても」なのだ。繰り返し繰り返し「思い出そうとしている」。その「繰り返し」に「果てがない」。
 「どこからも」は「どこまでも」に「どこ」ということばが通じている。
 「どこまでも」は「歩いていつた」の「いく」という動詞になり、「どこからも」は「くる」という動詞を呼び寄せる。
 「いく」と「くる」は「どうしても」のなかでうまく合致できないでいる。
 しかし、これを「幸福」と呼ぶ。「幸福」とは実現しないことを夢見ることができることだろうか。


16 *(どうしても動かない部分があつた)

どうしても動かない部分があつた
それをぼくは魂しいと呼ぶ

 この詩にも「どうしても」が登場する。この「どうしても」は「方法」というよりも、「永遠」を指している。「永遠に動かない部分があつた」。「永遠」と読み直すと「魂しい」ということばと相性がよくなるようだ。
 しかし、なぜ「ある」ではなく、「あつた」と過去形なのか。

樫の大木に耳をあてると同じようなかたまりがなかに潜む
光りが死んで別なものになつたのだ

 「光りが死んで別なものになつたのだ」が「過去形」だからである。「樫の大木」だから、それは「過去」、ずいぶん遠い「過去」になるだろう。嵯峨が生まれる前から「ある」もの。それが「魂しい」ということになる。
 嵯峨のなかで「何かが死んで別になつたもの」というよりも、それは、嵯峨の生まれる前から存在し、いま嵯峨に引き継がれている。「あつた」はそれが嵯峨だけのものではなく、嵯峨以前のひとのものをも引き継いでいるということを語っているのだと思う。
 「魂しい」は自分のものであって、また「過去」のひとのものなのである。その「過去」とつながることで「いま」が「永遠」になる。「どうしても」になる。

ぼくはおまえの手の上にぼくの手を置く

 「おまえ」は「樫の大木」であると同時に「魂しい」でもある。手を置くのは、それを「引き継いだ」と相手の手に伝えるためである。

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-7)

2017-05-07 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-7)(2017年05月07日)

13 *(干あがつた死語の間を)

干あがつた死語の間を
ひとすじの水が流れはじめる

 この書き出しは、あまりにも抽象的である。
 「死語」が何を指すかわからない。「死語」をわざわざ「干がつた」と修飾している。力点は「死後」よりも「干あがる」という「動詞」の方にある。この「動詞」に「水が流れる」が向き合う。そうすると、そこに「風景/情景」が浮かんでくる。

その小さな岸で

 「岸」が見えてくる。そのとき、もうそこには「死語」はない。つまり「死語」が
具体的に何を指しているかは、完全に忘れられてしまう。
 この先を動かしていくのは、やはり「動詞」である。

名も死もけつしてぼくたちには追いつけない
とはいうものの--日々
ほこらしげに話ができるような豊かなものでは
 なかつた
が その少し先きの方で意味が少しずつ期待に
 変りつつあつた

 「追いつけない」は(太陽は……)(愛情)で読んできた「充分にわからぬ」や「知らぬことのはて」を想像させる。その「わからぬ」「知らぬ」は、ここでは「意味」ということばで語られ、それは「少しずつ期待に 変りつつあつた」と結ばれる。
 「意味が少しずつ期待に 変りつつあつた」の「名詞」にとらわれると、詩はむずかしくなる。
 この行では「変わる」という動詞が重要なのだと思う。
 たどりつけない。けれど、そこへ向かう動きが、わからないながらも、何かをそこに浮かび上がらせる。わからないものをそこに見てしまう。そういうことを「期待」というのだろう。

 ことばを「論理」ではなく、そこで動いていぼんやりしたものの、その「動き」そのもとしてつかむとき、そこに詩が見えてくるのかもしれない。

14 小さな岸

 「小さな岸」からは「小さな岸」という章。直前の詩に登場する「小さな岸」を引き継いでいるのだろう。

愛するとは
遠いとどこかで言葉がめざめることではないか
物の形にその名がやさしく帰つてくることではないか

 「言葉がめざめ」物の方へ「帰つてくる」。「名」になる。「名」とは「愛情」のことである。
 この「言葉のめざめ」は自然に起きることではない。これまで読んできた詩につないで考えるなら、わからない何か、その先まで行こうとする動きが、「はて」を超えたところにあることとばを刺戟し、めざめさせるのだ。
 嵯峨のことばが、まだことばになっていないこと(もの)を書こうとする。そうすると、向こうからことばが嵯峨の方へ「帰つてくる」。嵯峨とことばは、その間にある「もの」のところで「名」を発見する形で出会うのだ。
 それが詩。

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しばらく留守にします。

2017-05-06 09:43:25 | その他(音楽、小説etc)


この絵を見に行ってきます。
東京でピカソ展があったとき、図録の表紙になっていたのに見ることができなかった1枚。

わくわく、どきどき。
初恋の人に会いにゆく気持ち。



留守中も「嵯峨信之を読む」は更新する予定です。
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自民党憲法改正草案を読む/番外75(情報の読み方)

2017-05-06 09:41:11 | 自民党憲法改正草案を読む
憲法改正(その4)
               自民党憲法改正草案を読む/番外75(情報の読み方)

 2017年05月06日読売新聞(西部版・14版)の1面に、驚くべき記事が載っている。見出しは、

朝鮮半島有事/退避邦人 米軍が陸送/政府検討 釜山から海自艦

 朝鮮半島に有事が発生したとき、退避邦人を米軍が陸送し(陸上部分は米軍が運び)、釜山からは海上自衛隊の艦船で運ぶ(救出する)ということを政府が検討している、というのだが。
 政府が検討すれば、それで実現するのか。
 米軍は了承しているのか。これから了解を取るのか。記事には「5万人以上の在韓邦人」という記述はあるが、在韓米人(および米国に密接な外国人)は何人いるのか。日本人を優先して救出してくれるという「確約」はあるのか。
 これが記事を読んでまっさきに浮かぶ疑問だが、少し頭を冷やして読むと、もっとおそろしいことがわかる。
 陸上部分の救出を米軍に頼らないといけないのは日韓の信頼関係がないからだ。自衛隊が韓国に上陸して邦人救出作戦をしようにも、韓国側が自衛隊を受け入れないと想定されるということだ。
 記事の最後の部分には、こういう文章がある。

 釜山を拠点として海自艦を活用する退避は、韓国政府や自治体の同意が前提条件となるが、韓国側は同国内での自衛隊による活動には否定的で調整は進んでいない。このため、韓国が同意しない場合を想定し、海自艦が可能な範囲で釜山に接近し、ヘリや小型船が海自艦との間を往復することも検討している。

 自衛隊の上陸はおろか、海自艦の接岸さえも「同意」されそうにないのである。こんなことで邦人を救出できるわけがない。ひとり、ふたりではない。5万人である。
 それなのに、安倍は北朝鮮との戦争をあおっている。「有事発生」をまくしたてている。邦人の安全などどうでもいい。ただ戦争がしたいだけなのである。
 北朝鮮での「有事」を想定するなら、まず日韓の関係を安定させること、信頼関係を築くことが重要だろう。完全な退避ルートを確保したとしても、戦争になればそれが機能するかどうかわからない。退避ルートが政府の勝手な「空想」のままでは、そんなものは機能するはずがない。
 実現するはずのないことを「検討」し、あたかも邦人の安全を考えているふりをしているだけにすぎない。危機が迫っているというのなら、まず、危機が発生したときに一番重要な日韓関係を調整すべきだろう。そのために、政府が何を検討しているか。そのニュースこそ必要なものだ。単に、「政府検討」という記事を書くのではなく、その「検討」に問題点がないかを分析する記事が必要だ。

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-6)

2017-05-06 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-6)

11 *(太陽はどの通りの家並も照らそうとしない)

太陽はどの通りの家並も照らそうとしない
一つの死が終わらねば
その死の理由が充分わからねば

 二行目の「終わる」が「理由が充分にわかる」と言い換えられている。何かが終わるということは「理由」が「わかる」こと。
 そうであるなら、このことばを書いている嵯峨は「理由のわからない」何事かに向き合っているということなのだろう。
 「死」は問題ではない。「死」は命の「おわり」。「おわり」が「終わる」ということは、同義反復であり、意味がない。ここに書かれている「死」は何かの象徴である。「終わる」ということがどういうことかを語るための「意味のない象徴」。
 「死」ということばによりかかっている。「意味がない」にもかかわらず「死」と書くと、そこに「意味」が出てきてしまう。そこに「青春」の匂いを感じる。

12 *(愛情 沙洲の上に落ちるやわらかな陽ざし)

この首枷(くびかけ)をはずすために
背ろむきになって
ぼくは急いで書く
自分の知らぬことのはてを

 「この首枷」とは書き出しの一行にある「愛情」をあらわしているように感じられる。ただ、そこに深い意味があるかどうか、よくわからない。
 最終行の「自分の知らぬこと」というのは、ここに書かれている「愛情」かもしれない。「知らない」だからこそ「首枷」という「比喩/象徴」で語ってしまう。ただ「知らない」といっても、少しは「知っている」。「充分に知らない」こと、と言い直すと、(太陽は……)で見てきた「その死の理由が充分にわからねば」と重なるものがある。
 「死」も「愛情」も、ひとは生きているかぎり見聞きする。体験する。けれど、それを「充分にわかる」ということは、ない。そして,「わからない」からこそ、詩人は、その「わからない」へ向けで自分のことばを動かす。
 「知らぬことのはて」は「果て」を超えた「先」である。その「向こう」である。

嵯峨信之全詩集
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-5)

2017-05-05 14:43:30 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

9 *(そう いつかぼくも捕えられるだろう)

そう いつかぼくも捕えられるだろう
冷えきつた円の中に

 「冷えきつた円」が何を意味するかは、わからない。何かの象徴である。「冷えきつた」と向き合うことばは、最後の方に出てくる。

骨をすりあわせて小さな火をおこすことを知りながら
ついにそのことなくぼくは終つた

 「火」、それも「骨」をすりあわせておこす火である。「骨」は死を連想させる。死へ向かって人間は生きている。「冷えきつた円」とは「骨(死)」のことだろう。
 「知りながら」は一種の矛盾。知っているけれど、骨をすりわあせて火をおこすことはしなかった。何かのために情熱的にならなかった、ということだろうか。情熱の炎に身をこがすこともなく、「ぼくは終つた」。
 これを、しかし、「ぼく」は悔いてはいない。書き出しの「そう」は肯定している。それは積極的な肯定ではないが、否定でもない。死というよりも、そういう「境地」にとらわれている、そういう「境地」のなかで詩を書いている。

10 含蝉の唄

その時 わたしは消えてしまつた一本の松明
あまりに自分自身を照らして燃えつきた松明にすぎない

 「松明」は自分自身を照らすことはない。それが「自分自身を照らして燃えつきた」。こうした言い回しは青春独特のものかもしれない。「すぎない」と否定しながらも、どこかでそれを肯定している。自己陶酔のようなものがある。それを象徴的に語るのが「一本」という限定である。「わたし」だけ、「一本だけ」という思いがどこかにある。「一本」が視線を「わたし」に集中させる。

何かがあまりに遠くてわたしはそこへ到りえないのか

 「何か」とは「何か」。「何か」という形で問うときにだけそこにあらわれる。もの。「何か」としか呼べないもの。
 「遠く」と「到りえない」は表面的には「同じ」意味をもっているのが、ほんとうに「遠い」わけではない。「物理的/距離的」には「近い」。おそらく「わたし」の「肉体の内部」、「わたしの肉体」が、その「場」を知っている。「知っている」けれど、それは「何か」ということばにしからない。

あるいは知らぬまにそこを通りすぎてしだいに遠ざつているのか
わたしにはそれがよくわからないまま日は過ぎていつた

 「到りえない」「通りすぎて」さらに「遠ざかる」。それは、みな、「同じこと」になってしまう。その「わたし」の「過ぎる」と「日は過ぎる」が重なるとき、「日/時間」そのものが「わたし」になる。「時間」が「わたし」であり、「わたし」が「時間」である。「一本」の松明の「一本」が「すぎる」という「動詞」なのかに動いている。
 この「時間」と「わたし」を「ひとつ」と感じることこそ、「青春」とうものかもしれない。


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自民党憲法改正草案を読む/番外74(情報の読み方)

2017-05-05 09:09:12 | 自民党憲法改正草案を読む
憲法改正(その3)
               自民党憲法改正草案を読む/番外74(情報の読み方)

 2017年05月05日読売新聞(西部版・14版)の4面に「憲法考」の2回目。公明党の北側一雄党副代表と民進党の細野豪志前党代表代行がインタビューに答えている。
 この「人選」はおかしくないか。
 北側は「副代表」だからまだわかるが、細野は「前」の肩書の人間。肩書で人間を判断するのわけではないが、憲法改正私案を発表後、党執行部とは考え方が異なるという理由で代表代行を辞任した人間が、あたかも党の意見を代弁する形で発言していいのか。細野は「党の意見を代弁していない」と主張するかもしれないが、新聞の見出しを見た読者は、そうは思わない。
 読売新聞が仕組んだのか、細野が売り込んだのか。
 いずれにしろ、発言内容は安倍の改憲論に沿ったものである。

 この二人のインタビューで注目したのは、やはり「緊急事態条項」である。二人ともテーマとして取り上げている。3日の安倍インタビューでは語られていない問題である。(安倍は語っていないが、読売新聞は社説で「緊急事態条項の検討を」と呼びかけている。安倍には語らせず、社説で援護している。)
 今回の二人へのインタビューでも質問している。ただし質問の仕方が直接的ではない。「緊急時の衆院議員の任期延長はどうか」と、衆院議員の任期から緊急事態の問題点を聞き出そうとしている。国民の権利の制限はわきにおかれている。国民がどんな制限を受けようが知ったことではない。議員の給料さえもらえればいい、ということだろうか。北側は「緊急事態の時こそ議会制民主主義が機能すべきだ」ともっともらしく言っているが、戦争法ひとつをみても議会制民主主義は機能していない。「多数決」が強硬におこなわれただけである。公明党はその片棒を担いでいる。
 まず、緊急事態条項がどんな内容なのか、なぜ必要なのか、問題点はどこにあるのか、それを質問しないといけないし、答えないといけない。
 国民の自由という問題では、「教育の無償化」も同じ。「無償」のかわりに、国民はどんな犠牲を強いられるのか。たとえば現在無償化の「防衛大学」。そこで医師の資格をとった卒業生は、一般の病院で働けるのか。自由に開業できるのか。就職先が限定されるのなら、他の大学でも同じことは起きないか。
 ある大学が政権批判をした場合、その大学への進学も「無償化」の対象になるのか。学問の自由、思想の自由は、どこまで保障されているか。その問題を抜きにして「家庭の事情にかかわらず進学できる社会を作る」(北側)と言っても、そんなものは嘘っぱちである。政権批判をしない人間を育てるために教育するというだけである。

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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自民党憲法改正草案を読む/番外73(情報の読み方)

2017-05-04 14:30:45 | 自民党憲法改正草案を読む
憲法改正(その2)
               自民党憲法改正草案を読む/番外73(情報の読み方)

 2017年05月03日読売新聞(西部版・14版)は安倍の憲法改正構想(スケジュール)を掲載した。改正のポイントは2点。「自衛隊の明記」と「教育の無償化」。これは一種の「飴と鞭」。反対しにくいものを抱き合わせることで、ほんとうにやりたいことを押しつける。
 「教育の無償化」はいいことだが、そのとき「学問の自由」はどう保障されるのか。「教育の無償化」が実施されている小中学校では「学問の保障」は保障されていない。無償の教科書には「検定」があり、検定に沿って教科書が書き換えられている。教科書の検定は高校でもおこなわれている。それが「大学」にまで拡大される恐れがある。
 文学(芸術)は経済の発展に寄与する部分が少ない、廃止してしまえ、ということも起きるだろう。つまり「教育費無償化」とはいいながら「文学(芸術)」を「教育」から切り捨てるということも起きる。経済の発展に寄与しない、つまり「教育」に値する分野ではないのだから「無償化」の対象外ということになる。
 「哲学」というのは「批判」から始まっているから、これあたりが最初に「廃止」されるだろう。「批判」を許さない「教育」がおこなわれ、それだけが「無償化」の対象になるだろう。
 こういうことを、どう防ぐか、というところからも憲法改正問題をみつめないといけない。
 だいたい「教育の無償化」は憲法に盛り込まなければならないことなのか。法律で十分なのではないのか。
 憲法は権力の暴走を許さないためのもの。もし憲法に教育問題を盛り込むなら、「学問の自由は、これを保障する」という項目だろう。「教育の無償化」はたしかに権力に対して「金を払え」という義務を発生させるが、禁止事項とはならない。
 憲法とは何か、という問題からすべてを点検しないといけない。憲法はなんのために存在するのか、なぜ必要なのかという議論と組み合わせて一項目ずつ点検する必要がある。

 読売新聞は2017年05月04日から「憲法考」という連載を始めた。一回目は自民党の中谷元がインタビューに答えている。

自衛隊「合憲」明確に

 見出しが、その主張をとっている。これは安倍の方針に沿ったもの。
 見出しに取っていない部分に情報が隠されている。

 --ほかに議論を深めたいテーマは何か。
 緊急事態条項だ。

 即座に、そう答えている。
 安倍は語ったのか語らなかったのか、きのうの新聞ではよくわからない。少なくとも「見出し」を読む限りは主張していない。そして中谷のインタビューでも「見出し」を読む限りは「緊急事態条項」は出て来ない。見出ししか読まないひとは、自民党が「緊急事態条項」を引き下げたのかと思ってしまうだろう。見出しにとってないから重要な問題ではないと思ってしまうだろう。
 ここ「情報の罠」がある。
 「緊急事態条項」を提案せず、「自衛隊の明文化」だけなら、いまの現実と大差ないではないか。「緊急事態条項」がなくて「教育の無償化」が明文化されるなら、改正した方がいいじゃないか。
 そう錯覚する人が出てくる。
 報道機関の仕事は、隠されている「事実」、権力にとっての「不都合な事実」を明確に言語化することである。

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江代充「降雨」

2017-05-04 10:46:31 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「降雨」(「森羅」4、2017年05月09日発行)

 江代充「降雨」は独特の文体。「降雨」に限らないが。

粗い土の地にいる二羽のスズメが
雨の降りている地所のうえで白濁し
代わる代わるその位置を置き換えるように
ひくく跳ねながら
せまい土の範囲を先へ先へと移動している

 「ことばの経済学」から言うと、とても不経済な「文体」である。
 説明しすぎるとめんどうになるので端折って書くが、「土の地」というかわった言い方が最初に出てくる。二行目で「地所」と言いなおされ、五行目で「土(の範囲)」と言いなおされている。
 さらにスズメの動きは「代わる代わる」「位置を置き換える」「移動している」と言いなおされている。
 引用を省略して書いてしまうと、雨が振った日にスズメが二羽、ミミズをつついているという描写なのだが、それだけのことを、ことばを無駄につかって、不経済に書く。どれだけ不経済に書くことができるか、が江代の詩である。
 経済ついでに金をつかって言うと、たとえば1789円の買い物をする。金の払い方はいろいろ。一万円札を出してお釣りをもらう。千円札を二枚出してお釣りをもらう。二千円と89円を出してお釣りをもらう。千円札と五百円玉、百円玉二個出してお釣りをもらう。お釣りがないように千円札、五百円玉、百円玉二個、十円玉八個、一円玉九個ということも可能だし、百円玉七個、五十円玉と十円玉三個、五円玉一個と一円玉四個もある。江代は、その組み合わせをいろいろに変化して見せてくれている。それが、まあ、独特なのである。
 描写の「因数分解」と言いなおせば、数学的になるかもしれない。一般的に数学というのは「答え」をいかに合理的に、美しく、単純に出すことが目的。だから、そこでも「経済学」が生きているのだが、江代は「経済学」に背を向けて、「経済的」にならないように書いている。二次方程式つかえば簡単な問題を「鶴亀算」でやるようなものである。二次方程式を覚えてしまった頭には「鶴亀算」の説明をするのが、とてもむずかしい。小学生に「鶴亀算」を教えようとすると、面倒くさくなって「二次方程式をつかえば簡単なのに」と思うことがあるでしょ?
 そういう感じに似ている。江代の詩を読んで感じるまだるっこしさと、あ、そうか、たしかに最初はこう考えるんだったなあ、と「肉体」の奥が刺戟される感じ。「鶴亀算」には「鶴亀算」の美しさがあるなあ。
 ある意味では、ベケットの「重力の時間」に似ている。ことばがブラックホールにのみこまれていくように、崩壊しながら消えていく。消えながら目に見えない光を発し続ける。消えていくことが、光があったということを思い出させる。

せまい土の範囲を先へ先へと移動している
なかで時折りお辞儀をみせる一羽については
まるい頭部と尾とのあいだがひどく短くみえ
ふたつの眼の先に動くくちばしが
ところを変え
いつもどこかの方向を指しているものとみえた

 「移動している/なかで」という行またぎが、この詩では、とても重要だ。「お辞儀」という古びた、素直な比喩を使いながら、「みせる」という動詞を経由して、「みえる」という動詞が動き出す。
 スズメを描写しながら、スズメを「見る」江代の「肉体」の素直さを描く。
 描写とは客観的に見えても、どうしても「主体」が入り込む。それを主体をできるかぎり隠しながら、つまり単純にしながらもぐりこませる。
 この「肉体」の動きによって、そういうスズメを見たことがある、ということが、スズメとしてではなく、自分の「肉体」の古い感覚として思い出されてくる。スズメを思い出すのではなく、スズメを見たことを思い出してしまう。
 「スズメを見たことがある」とは書かずに、「スズメを見たことがある」と思い出させる。読者の「体験」にすり替えてしまう。
 読むというのは筆者の体験を自分の体験にすり替えて読むことだが、江代は、何といえばいいのか自分の体験を読者の体験にすり替えさせるようにして書く。「主観的」にではなく「客観的」にというか、「第三者」の体験にすり替えられる形で書くというべきなのか。
 こういうことろも、非常に不経済。

 不経済のものは、何か、なつかしい。江代の「文体」になつかしいものを感じるのは、「経済効率」が高められる前の、無駄独特の強い美しさがあるからだろう。無駄をていねいにたどることができる強さがあるからだろう。

江代充詩集 (現代詩文庫)
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