詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-22)

2017-05-22 14:00:14 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-22)(2017年05月22日)

43 別離

鳥が飛びさつたあと
夜の木々が鳥の重さを知るように

 失ってから知る「重さ」。鳥は女であり、木は嵯峨である。もちろん逆もある。区別はできない。区別してはならない。
 「木々」に「夜の」ということばがついている。そしてその「夜の」は「夜の孤独」にかわっていく。一人の夜。そのときに感じる孤独。「夜の」がなくても、鳥が飛び去り、鳥の重さを失ったということを知ることはできる。それだけでも悲しみは表現できるが、「夜の」があると、その悲しみに静かな「色」が重なる。
 「夜の孤独」というのは常套句だが、こういう常套句を隠していることばに、私は「ことばの肉体」を感じる。「文学」と言い換えてもいい。「文学」を生きてきたことばの力を感じる。
 書き出しの、

ふたりのあいだには親しい草を育てる短い時間もなかつた

 「花」ではなく「草」を選んでいるところにも「ことばの肉体」を感じる。「花」にしてしまうと抒情的になりすぎる。美しくなりすぎる。「草」にすることで抑制が生まれる。「草」を「親しい」ということばで、特別の存在に替えていく。
 細かな部分に詩が動いている。

44 *(死者たちの手だけしか)

 この詩から「時刻表」という「章」に入る。

死者たちの手だけしか
人間のほんとうの鋳型を造ることはできない

 人の評価は死んでから決まると言われる。詩の書き出しはこの定義を逆に言いなおしたもの。死者が生きている人間を判断する、と。
 「死者」を「歴史」と読み替えると(誤読すると)、嵯峨の言いたいことがわかる気がする。「死者」とは死んでしまった人というよりも、それまで生きてきた人である。人がどんなふうに生きてきたか、それに思いを巡らすことが、そのまま「人間の鋳型」になる。
 詩は、わかりにくいものである。わかりにくいけれど、何かを感じる。感じた何かを考えようとするとき、詩が生まれる。


嵯峨信之全詩集
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思潮社


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ドゥニ・ビルヌーブ監督「メッセージ」(★)

2017-05-21 21:17:59 | 映画
監督 ドゥニ・ビルヌーブ 出演 エイミー・アダムス、ジェレミー・レナー、フォレスト・ウィテカー

 中国かぶれのアメリカ人が思いついたんだろうなあ。中国語には時制がない。現在、過去、未来は文脈から考える。漢字(表意文字)が時制を消し去っている。それから……中国人は墨で文字を書く。最後の墨は笑い話みたいだが、これが宇宙人をタコともイカともつかない姿にしている。墨を吐くところから、こんな姿になったのだろうなあ。
 時制に苦しんだ女の言語学者が、この時制のない世界を発見するというのがこの作品のテーマ。
 つまり。
 時制の言語を生きているアメリカ人が、中国語に時制がないということろから、もし時制がなかったならという「発想」で、この映画を作っている。
 で、一見、「哲学風」に見えるんだけれど。
 私はこういう頭でっかちの映画が大嫌い。

 ストーリーは、こんな具合。
 女はこどもを産む。こどもには遺伝的な(?)障害があり、長く生きられないことがわかっている。そのことをめぐって夫と対立し、離婚する。懸命にこどもを育てるが、やっぱり死んでしまう。そういうトラウマ(?)をもった女が主人公。
 これが異星人と出会う。言語学者の知識を動員して、異星人と対話する。異星人は声ではなく表意文字(何だか全坊主が描く円のようなもの、筆の勢いが線の細部をつくりだす)で「会話」していることを発見する。表意文字なので、時制がないということも発見する。
 「映画を見る」を中国語で何というか私は知らないが、「映画」と「見(あるいは観)」という文字が組み合わさったものだろう。「映画+見」。それだけでは「映画を見る」か「映画を見た」か「映画を見るだろう」かわからない。
 で、そういう時制のない世界に入り込むと、娘と暮らした過去が次々に思い出されてくる。過去のことなのに、現在として、いま、それを体験してしまう。そしてその体験がヒントになり、「未来」(知らない世界を解読する)ということが動き始める。
 その過程で「ことば(言語)」こそが人間の武器である、というようなテーマも語られるのだけれど。
 うわーっ、あほらしい。
 小説で読むなら、これはこれで説得力があるだろうけれど、映画でわけのわからない表意文字を見せられて、かってに「意味」をつけくわえられてもねえ。
 漢字の発生を知っている人なら、基本的な漢字は突然「表意文字」になったのではないということがわかる。「木」は木の形をなぞったもの。「人」は人間が助け合う姿。そういう「過程」を「円」のなかに組み込まないと説得力がないでしょう。「人間(ヒューマン)」というアルファベット(表音文字)を表意文字を生きているひとに見せたって、すぐに通じるわけがないでしょう。
 このあたりが、まるでむちゃくちゃ。表意文字を生きる人間が表音文字をどう理解するか、という「過程」を描かないと、「交流」にならないでしょ?
 で、さらに輪をかけてむちゃくちゃなのが、男が数学者であること。
 一方に「言語学者」がいて、それだけではサイエンスフィクションにならないから科学の基本である数学をもってくるというのは、まあ、「狡賢い知恵」なのだけれど、これがぜんぜん噛み合わない。最後の方で、「時」という「表意文字」を発見し、その配列から「1/12」という数字を出すところ、12の存在が協力する必要があるということを証明するという活躍(?)をするのだけれど、それが組み合わさったらどうなるか、というのを数学的に展開するわけじゃないからね。
 異星人とのコンタクトを描いたものでは、やっぱりスピルバーグの「未知との遭遇」が一番だなあ、とあらためて思い出す。山を越えて宇宙船がひっくりかえるところ(天地が逆になるところ)なんかは、椅子に座ったまま後ろへでんぐり返りしそうな感動があるし、なによりも「言語」を「音楽」と「光」で生み出しているのがすばらしい。「ことば」はどんなに考えてみたって最初は「音」。「文字」はあとから「記憶」を定着するために生み出したもの。「表意文字」をつかって「会話」するというのは、異質な存在の出会いとしては絶対に無理。
 ひさびさに、いやあな気分になる映画だった。

 あ、私はキャナルシティの6番スクリーンで見たのだが、スクリーン中央より、少し左にずれた部分にスクリーンに傷がある。かなりの大きさで、長方形(縦長)で、その部分が白っぽくなる。目の悪い私は気になってしようがなかった。
     (2017年05月21日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ・スクリーン6)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-21)

2017-05-21 09:44:19 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-21)(2017年05月21日)

41 架空な時間

永遠が瞬間のなかを通るたびに
一本の紅蝋燭の炎がゆれる

 繰り返し読んでしまう美しい二行だ。そして、繰り返し読んでいる内に「一本」ということばに気がつく。なぜ、「一本」なのだろうか。何本も蝋燭がある。そのなかの「一本」なのか。
 「だがMAKIは来た」という一行がある。MAKI、特定の女、ひとりの女。その「ひとり」と「一本」が重なる。MAKIこそが「永遠」なのだ。
 そうすると、「瞬間」とは嵯峨自身であり、「一本の蝋燭/炎」もまた嵯峨である。MAKIがやってくる。そうすると嵯峨のこころが炎のようにゆれる。
 あ、これではMAKIが「一本」と重なると書いたことと矛盾するか。
 形式的論理ではそうかもしれない。しかし「誤読の論理」では矛盾にならない。
 「一本」ということばのなかでMAKIと嵯峨が重なる。重なって融合し、その内部から新しい世界が広がる。「一本」はMAKIであるが、MAKIとは限定できない。別の次元が始まる。MAKIであるが、同時にMAKIによって存在が強化される嵯峨自身にもなる。

夜は--
どこから始めてもさいごはそこで終る夜だつた

 「夜」は「夜」に重なる。「ひとつ」になる。永遠は、この「ひとつ」の感覚のことだろう。「ひとつ」のなかに永遠がある。「ひとつになる」ことが永遠だ。

42 *(ある「時」の中に)

ある「時」の中に
さらに純粋な「他の時」がある
真夜中 ある頁の上にぽとりと一滴の涙を落した

 「時」「他の時」という二つが「一滴」の「一」になる。「ある頁」とは「ある一頁」のことである。「複数」と「一」が交錯し、さらに動く。

ぼくを残して 夜はそのまま過ぎていつた
ぼくは泣きながら しだいにぼくからそのぼくを頒つたのだ

 「一」の意識が「頒」ということばで複数に乱れていく。

嵯峨信之全詩集
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金子敦『音符』

2017-05-20 12:14:46 | 詩集
金子敦『音符』(ふらんす堂、2017年05月05日発行)

 俳句を読むのはむずかしい。現代詩でも小説でも、ことばは繰り返される。大事なこと、言いたいことを人間は繰り返すものである。繰り返しの中にある変化をたどると、何かが少しずつ結晶してくる。
 俳句には、この繰り返しがない。十七文字しかないから繰り返さない。だから、変化がたどりにくい。俳句は変化ではなく、一瞬を描くのかもしれない。

 金子敦『音符』。

俺元気といふ三文字の年賀状

 この句が、気に入った。どこか破れているところがあって、スムーズではない。言い換えると、美しくない。その美しく整っていないところが妙に印象に残る。他の書き方(詠み方)があるのかもしれないが、この一種の不格好が、「俺元気」という三文字が暴れているようで、楽しい。
 書かれていないが、「大きい」が隠されている。小さな文字ではなく、大きく「俺元気」と書いてある。もしかすると「俺元気」としか書いてないのかもしれない。新年の挨拶はなく、ただ乱暴に「俺元気」とはがきからはみ出すように書かれている。
 「大きさ」を思って、私はうれしくなった。

 現代は、なぜか「繊細」を「美しい」と定義しているように感じられる。古今以来の伝統かもしれない。金子の句にも「繊細」なものがある。そして、繊細なものの方が「高評価」されていると感じるが、もう一方の「大きい」の方が俳句を開いていくかもしれない。

太陽よりも大きく描かれチューリップ

 この句にも「大きい」があり、そこでは「太陽よりも」ということばがあるのだが、わたしは「太陽」を無視して、画用紙からはみ出して描かれるチューリップを思った。だって、「太陽」は遠くにあるので「小さく」見える。近くにあるチューリップの方が大きく見えるのが「肉眼」の世界。
 「チューリップよりも太陽が大きい」というのは「知識」。たとえばはじめて写生にでかけた幼稚園児はそんなことは知らない。だから太陽よりもチューリップが大きいのは「おかしい」と言われても、何を言われているかわからないだろう。
 金子の「大きい」には、何か、「知識」を否定する野蛮がある。この野蛮に、私は惹かれる。

歯磨きの大き塩粒夏に入る

噴水はまこと大きな感嘆符

太巻の玉子はみだし運動会

 「太巻」の句には「大きい」ではなく「太い」がつかわれている。「大きい」と「太い」は似ている。そしてそれは「はみ出す」という動詞になって動く。
 「歯磨き」の句は「はみ出す」とまではいかないのかもしれないが、一種の異物感が「大きい」ということばになっている。他の句はみんな「はみ出す」。「俺元気」は文字がはがきからはみ出し、「チューリップ」は画用紙からはみ出す。噴水は、水からはみ出す。そこにエネルギーがある。あふれる力がある。野蛮がある。これは、古今集以後の日本人(日本語)が失った力かもしれない。
 巻頭の、

大いなる果実のやうな初日の出

 このあいさつ句にも「大きい」がある。
 「大きい」は、ある意味で「平凡」である。意識しなくても目に入ってきてしまう。だが、この平凡を悠然と受け止める力は、けっして平凡とは言えないだろう。
 力がある。強さがある。

 「小さい」をつかった句と比較すると私の言いたいことが言いやすくなる。

ケーキから小さき聖樹そつと抜く

 これは、私にはつまらない。「小さき」と「そつと」がうるさいからかもしれないが、「繊細」へ目を向ける窮屈さが、どうもなじめない。
 思わず「×」をつけてしまったものに、

フェルメールの光を曳いてゆく蛍

 「わかる」けれど、その「わかる」が、いやあな気持ちにさせられる。「知識」が入ってきてしまう。「肉体」の自然が否定されている感じがする。
 で。
 フェルメールは日中の光を描いている。闇のなかの光(闇に揺れる光)ならレンブラントやラトゥールではないか、と意地悪を言いたくなる。

マネキンに涙描かれ冬の蝶

 これも、いやだなあ。フェルメールと同じように「繊細」が「通俗」になっている。「はみ出していく」ものがない。
 「実景」というよりも、「架空」。つくりもの。

 中間項(?)に、美しい句がある。

春惜しむ画鋲を深く刺し直し

菜箸は糸で繋がり星祭

 視線が自然に誘われる。「実景」の確かさがある。言い換えると、あ、これは「肉体」が覚えている。しかし、ことばにすることを忘れていた。そういうことを思い出させる句である。
 「菜箸」は目で見ただけでも詠むことができる句かもしれないが、実際につかったことがあるひとの句だ。手で箸を動かす。そのとき糸でつながっていることに、ちょっと不便と驚きを感じたその「肉体」の記憶。肉体のわずかな動き。
 「小さい」はつかわれていないが、ここには「小さい」が隠れている。
 「画鋲」も同じ。「深く刺し直す」の「深く」と「直す」に「小さい」動きがある。実際にそうしたことがある人だけが「わかる」ものがある。その「わかる」は肉体が覚えていることである。
 フェルメールの句は、肉体が覚えていることではなく、むしろ「頭」が覚えていることだ。「知識」の句だ。

盆踊果てて手足のただよへる

 この「ただよへる」もいいなあ。一生懸命踊ったあと。一生懸命を「我を忘れて」と言いなおすと「はみ出す」(大きい)に通じるかなあ。これも肉体が覚えていることだ。

春を待つとんとんとんと紙揃へ

凭れたる壁がべこんと海の家

 「とんとんとんと」と「べこんと」にも肉体がある。読みながら、思わず私自身の「肉体」も動いてしまう。肉体のなかで、そのときのことがくっきりと蘇る。 

 (2012年の句から感想を書いた。全体の五分の一である。おもしろい句があるので、ぜひ、買って読んでください。)
音符
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ふらんす堂
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-20)

2017-05-20 10:58:05 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-20)(2017年05月20日)

39 *(砂の上に文字を書いては消し)

書くことと 消すことのあいだをゆきかえるぼくの心は
いつまでぼくに残るか
もし ぼくから去つていくなら何処へたち去るか

 文字を書いては消す。そのたびにこころが動く。「ゆき、かえる」という往復の動詞でとらえているのだが、最後に「残る」「たち去る」という動詞に変わる。
 「去る」は「行く」か。
 「行く」は「帰る」と対になるが、対であることを拒絶するのが「去る」なのだろう。そして、「去る」は「残る」という対を要求する。
 あるいは逆か。「行く」「帰る」という果のない運動のなかで生まれる「不安」が「残る」を誘い出し、それがさらに「去る」を誘い出すのか。
 動詞が微妙に動いている。
 「残る」のは「心」をなくした「肉体」か、それとも「去っていった心」を思う「心」か。

40 白あじさい

深夜
白磁の壺の中に一茎の白あじさいの花がさしてある

 「白」が繰り返されることで、さらに「白く」なる。違ったものが、同じ何かによって、さらに強くなる。深くなる。
 「行く」「帰る」の往復運動と、「残る」「去る」の永遠を思う。
 いくつかのことばが動き、そのあと、

それらの言葉のなかを何かが過ぎていつた
言葉のあわただしい夜の上を

 このときの「言葉」は「白」そのもの。「白」のなかを別の「白」が過ぎてゆく。そうすることで、それぞれの「白」がさらに「白く」なる。
 「白」ではなく、「なる」という「動詞」がそこにある。あるいは、生まれてくるのか。「過ぎていつた」を「去つていつた」と読み替えたい。
 誤読したい。
 だが、どう「誤読」していいのか、明確なことばにならない。この瞬間「言葉のあわただしい夜」の「あわただしい」が生々しく迫ってくる。
 「あわただしい/あわただしく」しか、わからない。いや、「あわただしい/あわただしく」が「肉体」としてわかってしまう。
 「白」と「白」。繰り返されるとき、無数に生まれ、去っていく「白」がある。


嵯峨信之全詩集
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林嗣夫『林嗣夫詩集』(新・日本現代詩文庫)

2017-05-19 09:20:59 | 詩集
林嗣夫『林嗣夫詩集』(新・日本現代詩文庫)(土曜美術社出版販売、2017年04月20日発行)

 林嗣夫『林嗣夫詩集』。初期の林の作品を読んだことがなかったので、とても興味深かった。

いくつか消え残った街灯が
黄色い体液をためてふくらむ膀胱のように
とざされた闇の奥を照らす

 『むなしい仰角』(1965年)の「夜の遠足」のなかの三行。夜の街を歩いている。尿がしたくなる。尿がたまってくる。膀胱の圧力を感じる。この圧力は、何か「電気」のように肉体を刺戟する。その「電気」の感覚と、照明(電気)がつながる。あ、膀胱は肉体の奥の闇を照らしている、と思う。
 これは「誤読」かもしれない。林が書きたいと思っていることは違うかもしれない。しかし、私は、そう読んでしまう。
 そのとき、「夜の街」と「私の肉体」の区別がなくなる。夜の街を歩いているのか。私の「肉体」のなかをさまよっているのか。ああ、放尿したい、という思いが、路地のように次々に広がる。
 こういう「肉体感覚」が私は好きだ。

夜ふけの校舎の内部に
ひとりの少年が灯をともす
「汽車に乗りおくれたのです」
見知らぬ少年と水道の水を汲む
三階のはてまでどくどくとのぼってくる
燐のような水よ

 「ある残業」の一部分。職場(学校)で残業をしている。ぽつりと教室に灯がつく。行ってみると、汽車に乗り遅れた少年がひとり、ぽつりといる。その少年と水道の水を飲む。そのときの、「三階のはてまでどくどくとのぼってくる」がとても美しい。水道の水は三階まで上ってくるのか。実際は給水塔まで上り、そこから降りてくるのかもしれない。あるいは三階まで押し上げられるのかもしれない。しかし、そういう物理的「事実」はどうでもいいのだ。「客観的事実」はどうでもいいのだ。
 「主観」は「三階までのぼってくる」ととらえる。そのとき「どくどく」ということばがいっしょに動いている。この「どくどく」は鼓動の「どくどく」、つまり「血のどくどく」である。少年の「肉体」のなかで動いている「血」と水道の水が響きあっている。少年は、自分の「肉体」の中に流れる血にしたがって三階まで上ってきた。それが少年の「教室」だからだろう。三階まで上らなくても、他の教室で待つこともできる。けれど、少年はなじんでいる教室を選んだ。そして、それを林に発見された。この瞬間の、「どきどき」が重なる。「どくどく」と「どきどき」。それを静めるように、水を飲む。
 そんなことも思うのである。
 少年の肉体と学校全体が重なる。学校の建物が少年の肉体になる。「水道」と「血」が重なり、建物と肉体とをひとつにする。少年は林かもしれない。「ひとつ」のなかに、林ものみこまれていく。どっちがどっちの「譬喩」か。わからないが、このわからないという感覚の中に「主観的事実」がある。
 『教室』(1970年)のなかでは「樹」という作品が、とても気にいった。四階の教室から木を見下ろしている。

枝をもち上げ
葉という葉を原液のように震わせている樹
真上から見ていると
あの緑の光の渦に ふと飛びつき
抱きつき
手足を広げたまま
どこまでも沈んでいきたい衝動にかられる

 下から上へと上ってくる木の勢い。その勢いに逆らうように沈んで行く林。矛盾がある。衝突がある。それが上昇と沈下の運動をさらに強く感じさせる。沈みながら、上る。沈みながら、林は上へ上へと上る樹そのものになる。
 『むなしい仰角』のなかの「授業のかたみに」のなかに

わたし以前の分節されない重い沈黙に帰りたい

 という一行がある。「わたし以前の分節されない」の「分節されない」ということばが、さまざまに具体的に語られ、それが詩になっている。「原液」は「分節されないもの」の象徴だ。「未分節」と私は言っているのだが、「未分節」と「分節」を行き来するのが詩。それが「肉体」と重なって動くとき、私はとてもそのことばに惹かれる。

林嗣夫詩集 (新・日本現代詩文庫134)
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-19)

2017-05-19 08:06:22 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-19)(2017年05月19日)

37 サルビア

だが 無口な鳥たちは帰る
夕方 遠くの空を 鎖のようにつながつて

 書き出しの二行。「だが」は何に対して「だが」なのか説明されない。明らかにされない「過去」があるということだけが、明かされる。「秘密」が暗示される。読者はその「秘密」に誘い込まれながらことばを追いかける。
 「無口」は何のために無口なのか。もともと無口なのではなく、口を閉ざさなければならない理由があって無口になる。ここにも「過去」がある。「帰る」ということばにも、秘密の「過去」がある。そこまで行ったから「帰る」のである。
 一羽ではない。「鎖のようにつながつて」とあるのだから。
 しかし、私はここから「誤読」する。何羽かいるのだが、嵯峨が感じているのは「一羽」である、と。それぞれの「鳥」が同じような「過去」を持っている。「同じ過去」をもつものだけが、つらなる手をつなぐ。「連帯」である。そして、つながることで、より明確に「一羽」になる。つまり、「同じ過去」の「同じ」が深くなる。
 「夕方」が、その「深さ」を静かに感じさせる。

ぼくは小さな証(あかし)のなかで燃え尽きた

イヴ・ボンヌフオワの「サルビアの永遠の中に」とある
あるサルビアの小さな炎の中に

 イヴ・ボンヌフオワの「サルビアの永遠の中に」を知っていれば知っていていることにこしたことはない。しかし、その方が「理解」が深まるかどうか、私は疑問に感じている。知らない方がきっといい。それは「過去」なのだ。「過去の秘密」だ。「過去」というものは「秘密」を持っている、ということは誰もが知っている。そのことが重要なのだと思う。
 イヴ・ボンヌフオワの「サルビアの永遠の中に」を知ってしまうと、「過去の秘密」は「秘密」ではなくなる。そうすると「秘密」にこころがふるえるという詩の感覚が消えてしまう。
 私は、そう思っている。

38 MU山荘で

一つの<時>を他の時から分かとうと
ぼくにむかつてひたむきに顔をあげる女よ
遠くの方で
そのとき誰かが叫んでいる

 「誰か」とは「誰」か。女の中の、「あの時」の女か。あるいは、ぼくの中の「あの時」のぼくか。それとも、まったく別の人か。それはまったく別の人であっても、女であり、同時にぼくである。
 私たち「誤読」する。
 「他人」を「私」と思う。「私の感じていることと同じ」と思う。それが「誰か」という存在を気づかせるのである。



嵯峨信之全詩集
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法橋太郎『永遠の塔』

2017-05-18 08:53:44 | 詩集
法橋太郎『永遠の塔』(思潮社、2017年02月25日発行)

 法橋太郎『永遠の塔』は1行が20字で書かれた散文詩である。こういうことは「外形」の問題であって、詩とは関係がない、という見方があるかもしれない。しかし、私はそうは考えない。
 1行20字は昔の原稿用紙の感覚である。言い換えると「手書き」の感覚である。
 私はワープロで書いている。1行が40字の設定である。自然に文章が長くなる。1行20字という「枠」がなくなったせいではなく、手書きからワープロに変わったことが影響しているかもしれないが、原稿用紙ではなくなったということの方が大きく影響していると思う。見渡せる文字(ことば)の量が違う。ひとは、「肉体」でことばを書く。そのとき「目」が果している役割は大きい。

爪を切る。インクに滲んだ爪を切る。死ぬま
で爪を切りつづける。昏い過去と断ち切られ
た太い糸。孤独という病。疲れた足取りで石
段を登った。頂上の草原にたどり着いた。汗
が滴り落ちてきた。おれも民草のひとりに違
いない。

 巻頭の「風の記憶」の一連目。短いことばがつづく。しかし、「短い」という印象ではなく、「端切れがよい」という感じだ。リズムに乗せられる。ためしに1行40字にしてみる。

爪を切る。インクに滲んだ爪を切る。死ぬまで爪を切りつづける。昏い過去と断ち切られた太い糸。孤独という病。疲れた足取りで石段を登った。頂上の草原にたどり着いた。汗が滴り落ちてきた。おれも民草のひとりに違いない。

 どうだろう。ちょっと読みづらい。目が折り返すまでに切断が多すぎて、つまずく感じになる。もっとも、こういうことは「個人差」があって、一般論にはしにくいことがらなのだが。だから、「批評」にはならないのだが。

 あ、何を書こうとしていたのか。

 法橋の詩を読みながら、私は「手書きの感覚」を思い出したのである。「原稿用紙」を見渡しながら手で文字を書いていく感覚を思い出した。ことばと手の感覚、ことばと肉体の感覚は、昔はいまとは違っていた。
 70年代は、手書きだった。原稿用紙だった。80年代のいつごろからだろうか。ワープロにかわった。そのころから、ことばは変わったと思う。詩も変わったと思う。ことばのなかに「肉体」の感じが薄れてきた。「固体感」というのか、単語のひとつひとつが「肉体/孤立した存在」という感じが薄れてきた。このことばは誰それのもの、という感じが薄れてきた。70年代までは、ことばが「個人的な肉体」だった。その時代のことばの感覚を思い出すのである。手で(肉体で)、ことばをつかまえ、ことばをひとつひとつ組み立てていく、その手の感じを思い出させると言い換えてもいい。目で、右を見て左を見て、上からも下からも眺めて、全体の組み立てを確認する「肉体」を感じると言い換えてもいい。
 別のことばで言いなおすと。
 ことばと向き合っている法橋の「肉体」が見える。「個人」が見える。法橋には会ったことがないから、「肉体」が見えるというのは変な言い方になるのだが、この「肉体」というのは不思議な安心感でもある。「概念」がかってに動いているというのではなく、「肉体」がきちんとそこにあるという確かさ。いっしょに生きている感じ。

インクの臭いに記憶の蝶が群がった。忘れら
れたものの滅びは静かに行使されるが、それ
に逆らうおれの意志より浮かばせる活字たち。
缺けた鉛の活字たちが水中から重力に逆らっ
て浮かびあがった。湖の水面に言葉が記され
た。

 それは、こういう抽象的なことばが動いている部分でも同じである。
 「記憶の蝶」というのは「記憶している蝶」(思い出の蝶)と読むこともできるが、「記憶という名の蝶」とも読める。私は「記憶という名の蝶」、つまり「比喩」と読むのだが、それは「比喩」の方が、それにつづく「忘れられたものの滅び」という抽象になじみやすいからである。抽象を加速させるからである。
 で、この「抽象」というのは「肉体」の対極にあるものだが、1行20字の「原稿用紙(手書きのことば)」の感覚のなかでは、不思議に「肉体的」であり、リアルに迫ってくる。「記憶」が「蝶」になって死んでいく姿が見えてくる。その死んでいく蝶を見ている法橋の肉体(視線)が見えてくる。ことば(抽象)と拮抗している「肉体」が同時に見える。
 「活字(鉛の活字)」というのも、「原稿用紙」時代、「手書き」時代の美しさを思い出させる。いまの印刷には「活字の肉体」が完全に抜け落ちている。手触りがない。印刷そのものが「ざらざら」ではなく、「すべすべ」。
 「すべすべ」(つるつる)にならないようにしている「肉体」の抵抗が見えるといえばいいのかもしれない。
 これが、とても気持ちがいい。

 こんな感想ではなく、もっと「ことばの意味」に触れるべきなのかもしれないが、「意味」について書くよりも、「手書きの肉体感覚」の確かさを感じたと言いたいのである。「意味」とか「思想」とかは、まあ、他の詩人たちの「批評」にまかせたい。


永遠の塔
法橋 太郎
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-18)

2017-05-18 07:05:21 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-18)(2017年05月18日)

35 *(たれも横切らなかつた)

たれも横切らなかつた
その無人の庭を庭と知らずにふるえている小草の上を
鳥はするどく啼きかわしながら高い空をわたつていつた

 二行目の「知らずに」が詩である。「知る」というのは「理性」の動き。「草」には「理性」はない。けれども「理性」があるかのようにとらえる。「比喩」である。そして「比喩」は「人格化」であり、自己投影でもある。
 これは詩人による、自然の「誤読」、あるいは世界に対する「誤読」というものだが、「誤読」だからこそ、そこに引き込まれていく。
 「理性」を否定される魔力がある。知らなかったものが、「誤読」といっしょに動き、生き始めてくる。

なにもかも無意味だと知つたものはどこへも立ち去らず
死の庭でひとり死んだ
その死のなかに何が残つたか
いな 死は確実な死であるためには何も残さない

 「誤読」を「論理」と呼び変えてもいい。それまで存在しなかった「論理」が動き始める。この「論理」を詩に変えていくのは、詩人の「感性」である。

36 (ぼくは追い立てられる)

一枚のゆづり葉のなかの海
その暗緑の起源を知るものはいつかその海で溺れ死ぬだろう

 「ゆづり葉」のなかに「海」は存在しない。「海」は「比喩」であり、「比喩」は「誤読」である。
 「誤読」としての「海」を発見したものは、その「発見」の「論理」にしたがって、「海」に「溺れる」しかない。溺れ死ぬしかない。
 しかし、詩は不思議なものだ。「論理」を破壊するものが、突然、あらわれてくる。「論理」を破壊して、「いのち」を解放する。

それでもぼくは信じよう
おまえの脈搏の霙の中に
ぼくの生と死がたえず打たれつづけるのを

 ここに書かれていることの「意味」を正確につかみとろうとしても無駄である。いや、そういうことはすべきではない。「意味」を追い求めてはいけないのだ。「論理」は破壊され、いのちが解放されているという感じだけをつかみとればいい。
 「論理」の破壊が「それでも」という「論理的」なことばで始まるのは、嵯峨の詩の特徴である。「理性的」なのだ。



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ウッディ・アレン監督「カフェ・ソサエティ」(★★★★)

2017-05-17 20:35:18 | 映画
監督 ウッディ・アレン 出演 ジェシー・アイゼンバーグ、クリステン・スチュワート、ブレイク・ライブリー、スティーブ・カレル、ウッディ・アレン(ナレーター)

 私はこの映画の感想を書くのに向いていない。目が悪くて、映像の陰影をはっきり識別できないからだ。最近のウッディ・アレンの映画の特徴は映像の陰影である。それがはっきりと見えない。
 映画は二部にわかれている。前半はハリウッドが舞台。後半はニューヨーク。光が違う。その光の違いを「まぶしさ」に焦点を当てて描くのではなく、「陰影」に焦点を当てて描いている。
 ハリウッドの戸外の明るい光。そのなかで人が正面から光を浴びるシーンは少ない。逆光のなかで「輪郭」が光る。表情は「陰影」のなかにある。室内に入り込む陽光も窓や扉をくぐりぬけてくる「陰影」に富んだもの。そのなかで役者が演技をしている。
 テーマはストレートな感情ではなく、「陰影」に富んだ感情である。
 ジェシー・アイゼンバーグが娼婦を買うシーンすら、「欲望」ではなく「感情」がテーマ。ふたりの感情が揺らぐ。それを、笑いを誘うことばで隠しているが、描いているのは「感情」の陰影。「感情」がどう動くか、その「揺らぎ」を互いにどう読み取るか。
 これが、まあ、延々とつづく。
 互いにひかれているのに、だからといって結婚に結びつかないふたり。その感情の「陰影」を、三角関係の乱反射のなかでみせる。この三角関係は単なるストーリーとしておもしろいのではない。むしろ三角関係など、ストーリーにとっては「常套手段」である。つまらない展開である。(見え透いた展開である。)
 見なければならないのは、「陰影」である。ハリウッドの強い光は、単に影をつくるだけではない。強い光が「対象」以外のものを「反射光」として照らす。
 クリステン・スチュワートの「顔(感情)」を照らすのは太陽の物理的な光だけではない。スティーブ・カレルから反射してくる「光」が照らしだすものがある。ジェシー・アイゼンバーグは最初はその「反射光」がつくりだす「陰影」を識別することができないが、やがて知ってしまう。「陰影」の微妙さ、その美しさのなかに「他者からの反射光」が存在することを知ってしまう。つまり、それを読み取れるようになる。こういう「陰影」が可能なのは、ハリウッドの「戸外の光(自然光)」があまりにも強くて、「反射光」になっても強烈なままであるということと関係している。
 ニューヨークでも「陰影」がテーマ。ただし、ニューヨークは「陽光」ではなく室内の「人工の光」がつくりだす陰影が主役。あるいは、「陰影」には最初から「他者」が関係している。「他者」からの「反射光」が含まれている。ハリウッドのシーンが、もっぱら「恋人」がテーマだったのに、ニューヨークは「家族」がテーマである。家族のなかで動く「感情の陰影」。「恋人」が新しい関係だとすると、「家族」は古い関係。「恋人」は人を自分の外へ連れ出すのに対し、「家族」は人を自分のなかへ引き戻す。そのなかで、さまざまな「感情の陰影」が笑いをからめながら描かれる。これを「人間模様」と言いなおすと、簡便な「常套解説」になる。
 そのニューヨークで、一瞬だけ「戸外の光」は描かれる。セントラルパークから見るビルの稜線に反射する朝の光。日中の強い光ではない。このシーンは、ジェシー・アイゼンバーグとクリステン・スチュワートを「過去」をつれもどす大切なシーン。だからこそ、ハリウッドと同じ「戸外の光」を通して描かれるのだが、夜が終わり(夢が終わり)、新しい朝を知らせる光、逆戻りできないことを知らせる切ない光となっている。深い緑。水面に広がる遠い光。それが、ふたりの表情に、いままではなかった新しい「陰影」をつくりだしている。

 映画を見ながら、思い出とは何だろう。過去とは何だろう、と考えてしまう。思い出には光と陰がある。陰影がある。陰影には、自然のなかで個人がつくりだす陰影があり、他方に人間関係の乱反射がつくりだす陰影がある。入り乱れる陰影のなかで、ひとは生きていて、そのどちらの陰影も思い出であり、過去である。それは「一夜の夢」なのか、「一夜の夢」をどう抱きながら人間は生きていくのか。そういうことを思いながら、切なくなってしまうのである。
 まだ目が見えるときだったら、もう少し丁寧な感想がかけると思うが、どうにも書きようがない。もっと陰影を「身近」に見ることができれば、と半分悔しい思いをしながら見終わった。★5個の映画かもしれないが、私の視力では、5個をつけにくい。
                      (KBCシネマ2、2017年05月17日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-17)

2017-05-17 14:59:01 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-17)(2017年05月17日)

33 *(もう一度そこに立つことがあろうか)

もう一度そこに立つことがあろうか
誰も知らない頂上

 「頂上」は「場所」ではなく「時間」である。「瞬間」である。「時間」と「場所」は違う概念だが、人間は概念を混同する。どこかに「概念の肉体」というものがある。「人間の肉体(いのちの肉体)」が「ひとつ」であるように「概念の肉体」もひとつであり、切り離してしまっては「いのち」ではなくなるのかもしれない。

つかのまのうちに明るく輝いて消えてしまつた頂上
そこではなにもかも二倍も三倍も大きくなつた

 「頂上」は「輝き(光)」と言い換えられ、それが「大きくなる」という変化するものとして言い換えられていく。
 この「言い換えの変化」のなかに詩がある。
 「概念」の「仕切り」(いまはやりのことばで言えば「しきい」か)を超えていくことば。「しいき」を超えることができる「ことばの肉体」。
 さらに、嵯峨はそれを変化させるのだが。

たとえば掌ほどの希望が
壁いつぱいにかかつている大きな世界地図のように

 この「概念」から「比喩」への変化が、とてもおもしろい。
 「輝き(ひかり)」は「希望」ということばで言いなおされ、「二倍も三倍も大きくなつた」は「掌」から「世界地図」へと言いなおされる。
 「概念」が「もの」として見えてくる。
 この変化の中に、詩がある。

* 34(どこまで行つても)

どこまで行つても
辿りつかなかつた死の国では
噴水はふるえる影をその日よりさらに前方へひろげようとする

 「矛盾」の多いことばである。「矛盾」とは「論理的ではない」ということ。
 「死の国」へたどりついてしまったら、ことばは書かれない。書くということは、死んでいないということである。
 「ことばの肉体」は「論理」の「しきい」を超えてしまう。その「超え方」のなかに詩がある。

噴水はふるえる影をその日よりさらに前方へひろげようとする

 これは、「空想」である。「死の国」に辿り着いていないのだから、「死の国」の描写は不可能である。「空想」は嘘である。しかし、この一行を読んだとき、それを「嘘」と感じるか。感じない。
 「論理的ではない」という言い方には、何か、変なものがある。
 「論理的ではない」のに、あることばには「必然」を感じる。
 この「矛盾」した感覚の中に詩があるということなのか。


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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-16)

2017-05-16 11:06:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
31 *(走しつて 走しつて)

走しつて 走しつて 走しつても
一つの砦はさらに遠のくのだ

 嵯峨はときどき見慣れない「表記」をつかう。「走つて」が普通だと思うが「し」を付け加えている。晩年は「魂」も「魂しい」と書いていた。「し」という文字が好きなのかもしれない。漢字にぶらさがっている。はみ出しながら、なおもついていく。のみこまれるのでもなく、おちこぼれるのでもなく。
 この書き出しも、何かそういう感じ。
 「遠のく」と嘆きながらも、あきらめない。

誰にそのことを告げたいか
どんな言葉でそれを伝えることができるか

 そういう行をつづけたあと、

一生ただむやみに走りつづけたぼくを
呆うけたぼくの姿を誰がじつとさいごに見ているか

 「走しりつづけた」ではなく「走りつづけた」。誤植なのか、それとも書き分けているのか。判断がむずかしい。
 「走しる」が、ふいに、苦しい姿に見えてくる。

32 *(ぼくは多くの深みで愛されるだろう)

ぼくは多くの深みで愛されるだろう

 この「深み」は、「--ぼくを抱いて」の「裸麦の束を抱くように 両手を大きくひらいてぼくを深く抱く」の「深く」を思い出させる。嵯峨にとって愛とは「広さ」よりも「深さ」の感覚である。「多くの人」というよりも「一人の人」へ意識が集中している。
 「深さ」「深み」は「深める」なのだ。
 とはいいながら、詩の最後の三行。

その時ぼくはおもう
砂あらしが空を暗くとざしている沙漠のはてを
大風にあふられている天幕のなかへかけこむ一匹の白い小犬を

 イメージが、ふいに遠くへ飛ぶ。「深み」が内部からはじけ、ぱっと広がる。
 こういう「矛盾」のようなものが、きっと詩を支えている。人間を支えていると行った方がいいのかもしれない。






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ピカソ

2017-05-16 10:34:06 | その他(音楽、小説etc)


やっと見ることができたピカソの肖像画。

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憲法改正(その5)

2017-05-15 17:39:36 | 自民党憲法改正草案を読む
憲法改正(その5)
               自民党憲法改正草案を読む/番外76(情報の読み方)

 新聞を読む時間がなかったので「時差」のある感想になるのだが。
 2017年05月10日読売新聞(西部版・14版)の1面に、

改憲 自衛隊規定を優先/首相憲法審提出に意欲

 という見出しの記事がある。そのなかの、つぎの部分。見出しにはなっていないが、とても気になる。

 連舫氏は、首相が8日の衆院予算委で自身のインタビューが掲載された「読売新聞を熟読してほしい」と述べたことを「説明責任の放棄」と攻め、発言の撤回を求めた。首相は「憲法審査会で闊達な議論をいただきたいから、インタビューに党総裁として答えている」と反論した。

 この議論がその後どう展開したのか、読売新聞の記事ではわからないが、安倍を追いつめられなかった連舫を初めとする国会議員の「対話能力」のなさにあきれかえる。
 問題点はいくつもある。安倍は「インタビューに党総裁として答えている」と言っているが読売新聞は「首相インタビュー」であって「自民党総裁インタビュー」ではない。もし「首相インタビュー」ではなくて「自民党総裁インタビュー」だったのだとしたら、その「間違い(齟齬)」について安倍はどう対処したのだろうか。読売新聞は「自民党総裁インタビュー」だったと「訂正」を出したのだろうか。(新聞をざっと読んだが、経緯はわからなかった。)
 それ以上に問題なのは、新聞のインタビューに答えるということと、国会で議員の質問に答えるというのことは、まったく別問題である。それを安倍は理解していないし、連舫も理解していない。
 連舫は安倍の答弁に対して、どう反論したのだろうか。
 「国会議員は、選挙で投票してくれた国民を代表して質問している。国会議員が国会で質問したならば、それに答えるのが首相の責任である」と明確に指摘したのだろうか。「説明責任の放棄」というような抽象的なことばではなく、連舫に投票してくれた何万人の有権者の代表として質問している、民進党に投票してくれた何万人の有権者の代表として質問している、ときちんと迫るべきである。連舫にかわって、連舫に投票してくれた有権者に、安倍は「読売新聞を読め」と言うのか。読んで納得したかどうか、どうやって確認するのか、ということろまで安倍から「回答」を引き出すべきである。安倍は、そんなことをするはずがない。だから連舫は質問するのだ、と迫るべきなのだ。
 また、質問するときは、首相は「読売新聞を熟読してほしい」と8日に述べたが、この考えにいまもかわりはないか、というところから議論を始めるべきである。「かわりはない」という返事が返ってきたら、「かわりがない」というのは「読売新聞を熟読してほしい」ということか、念押しをする。首相が「そうだ」と答えたら、「そうだ、という抽象的な言い方ではなく、はっきり成文化して言いなおしてほしい」と求めるべきである。同じことばを何度でも引き出して、問題にすべきである。
 安倍は「同じ質問を繰り返すな」というかもしれない。そういうときは、「同じ質問をするのは、安倍がいつもうそをつくからだ。PTT絶対反対と言っておきながらPTTに賛成した。PTT反対と一度も言ったことはない、と言ったじゃないか。読売新聞を熟読してほしいと言ったことは一度もないと主張しないという保障はない。都合が悪くなれば言ったことを否定する。だから、質問する」と言いなおせばいい。
 この一点だけをテーマにして、首相が国家で国民の代表である議員に対して直接答えようとしないという問題だけを攻めればいい。首相が民主主義を否定している。そのことだけを質問に立つ野党議員全員が問題にすべきである。
 「一度言えばわかる」ではなく、「私に投票してくれた何万人の一人一人に私は首相を批判していることを知ってもらう必要がある。民意主主義によって選ばれた人間なのだから、その責任を果たす必要がある。だから、何度でも質問するのだ」と迫ればいい。「自分のことばで質問し、自分の耳で聞いたことを有権者に伝える責任がある。その責任を安倍はかわってくれない。だから、質問する。」
 安倍の「読売新聞を熟読してほしい」がどんなに問題であるか、もっともっと知らせるべきである。
 この問題は、

改憲 自衛隊規定を優先

 ということよりも重要な問題である。言い換えると憲法改正よりも重要な問題である。
 国会議員の質問に答えない、「自分の考えは読売新聞に書いてある」という安倍の答弁を一度許せば、今後の憲法改正論議はすべて読売新聞経由になる。首相は答えない。読売新聞に書いてあるから、それを読め、で押し切られてしまう。連舫とのやりとりを読むと、実際に、押し切られてしまっている。
 民主主義は死んだ。民主主義を、連舫は殺してしまった。安倍の主張を追及するチャンスだったのに、それができなかった。
 だいたい「読む」というのは「聞く(質問する)」ということは、根本的に違う。「聞く」というのは、一つ一つの問題点を深めていくことである。対話によって、ひとりだけで考えていたときにはわからなかったものを見つけ出し、考えを変えていくということの出発点が「聞く(質問する)」なのである。
 多数の意見をぶつけ合う。さまざまな疑問をぶつけあう。それが民主主義なのである。 

 「読め」は「聞くな」というのに等しい。安倍は「私は私の考えを変えない。私の考えをよく読んで、おまえたちが考え方を改めればいい。私の考えにあわせろ」と言っているのである。
 独裁である。
 独裁者が、独裁で憲法を変えようとしている。さらに独裁を強めるためである。

 新聞をゆっくり読む時間がなくて、どこに書いてあるのかわからなかったが、「そもそもは基本的という意味である、と閣議決定した」というニュースも聞いた。
 これは「ばかばかしい笑い話」のようだが、ここに「独裁」がくっきりとあらわれている。安倍が「そもそもは基本的という意味である」と発言し、批判された。それに反論するために、「そもそも」の「意味」を閣議決定した。
 これは、今後あらゆることに「適用」されるだろう。
 自衛隊が国外に侵攻して戦争が始まったとしても、それは自衛権の発動である。なぜなら、そのまま放置しておいては日本が攻撃されるからだ。攻撃される恐れがあるのに放置するのは自衛権の放棄である、という具合に「閣議決定」されてしまう。
 こんなふうに安倍批判を書くこと、あるいは連舫を書くことは「テロ予備罪にあたる、」と「閣議決定」することもできる。安倍批判をすることは、日本の政治状況を不安定にする。テロが起こりやすくなる。安倍批判をしてはならない、という具合に変化していく。

 安倍の「読売新聞を熟読してほしい」発言に、国会が「騒然とした」というニュースをネットで読んだときは、あ、国会解散、総選挙だと思ったが、日本はぜんぜん騒然としていない。国会の騒然を「社会現象」に拡大する方法(手段)を野党が見つけ出せずに、安倍の言いなりになっている。
 完全に独裁社会が、着実に築かれている。独裁社会になってしまっていると感じ、私は怖くなった。そして、怖いから、書いている。書かずにはいられない。
 憲法学者たちは、もっとこの問題をとりあげてほしい。あるゆる場所で発言してほしい。安倍の憲法改正草案(?)には「教育の無償化」が含まれているが、「教育の無償化」を利用しながら「学問の自由の制限」が始まる。安倍批判をする憲法学者は追放されるということは、すぐに始まる。(もう始まっているかもしれない。)
 「思想の自由」は、もうこの国にはない。
 国会でさえ、国会議員が質問を拒絶されている。

 「そもそもは基本的という意味である」という「閣議決定」という「独裁」に対して、ことばにかかわるひとは発言すべきだろう。ことばの「意味」は政府が決めるものではない。独裁者が「意味」を決め、国民がその「意味」にしたがってことばをつかうということになれば、思想は死ぬ。
 「閣議決定」をただ笑うだけではなく、批判しよう。批判しても、安倍は気にしないかもしれないが、批判のことばを積み重ねることでしか、独裁と戦う方法はない。

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-15)

2017-05-15 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-15)(2017年05月15日)

南ケ丘詩抄

29 *(--ぼくを抱いて)

--ぼくを抱いて
といえば
裸麦の束を抱くように 両手を大きくひらいてぼくを深く抱く

 「イヴの唄」の「藁」と同じように「裸麦」は嵯峨にとっては「現実」だった。「現実」だから、そのあとの「深く抱く」の「深く」が強い。嵯峨には「裸麦」を「抱いた」記憶がある。そのとき「深い」ものを感じたのだ。麦の熟れた匂いの深さのようなものを。だから、この「深く」は次の行で「豊熟」ということばにかわる。

その豊熟と荒廃のなかに
ぼくは死ぬ
そして蘇がえる
たえず昨日に

 何かを抱いたときに、逆に何かに抱き締められ、その内部の「深さ」を感じてしまう。「深さ」におぼれしてまう。「豊熟」におぼれてしまうのだ。
 矛盾しているかもしれない。でも、その矛盾のなかに何かがある。
 「豊熟」と「死(ぬ)」。これは「一粒の麦死なずば……」ということばを連想させる。「死ぬ」ことが「よみがえる」こと。
 最後の「昨日」がおもしろい。
 あした蘇るのではなく、「昨日」に蘇る。こういうことは「文法的」には正しくない。「文法的」に正しくないから、「感覚的」には正しい。「間違える」瞬間にしかとらえることのできない「正しい」ものがある。

30 * (ぼくには夕方ばかりあつた)

ぼくには夕方ばかりあつた

 というようなことは、「現実」にはありえない。朝から昼、夕方、夜へと時間は動いていく。「夕方ばかり」では時間が流れない。これは、「夕方」しか思い出せない、ということなのか。
 そうなのかもしれないけれど、それだけではない。
 二行目は、こうつづいている。

完全な一日はなかつた

 「夕方ばかりがある」というのは「不完全」と意識されている。この「不完全」は、しかし、「完全」よりも美しい。「不完全」と「破れ目」は違うかもしれないが、「完全ではない」という自覚が「完全」を超えるものを感じさせる。
 では、完全を超えるものって何?

いつものような夕方
春雷がすばらしいカーヴで灯のはいつた高層ビルを越えていつた

 「現実」だね。まだ「ことば」になっていない「現実」、瞬間的に姿をあらわしてしまった現実。
 これを詩と呼ぶ。

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