詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

今井義行への質問

2018-03-23 15:58:58 | 詩集
今井義行への質問

 03月19日に今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』(らんか社、2018年03月31日発行)の感想を書いた。
 フェイスブックに今井が、その感想のリンクを紹介し、こう書いている。

詩人・評論家を名乗る人が、作者の詩作へ込めた気持ちを、これほどに浅く、薄く、取り扱ってしまっているということに唖然とせざるを得ない。このような詩〈集〉に対する行ないは、もうこれ以上、続けてほしくない、とわたしは思います。あまりにも、幼過ぎる……詩人・評論家である。

 書き込み時間はわからないが、私は次のようにコメントした。(03月22日)

シェアと批判、ありがとうございます。
私は、詩は「作者の詩作へ込めた気持ち」を読み取るものとは思っていません。
「作者の詩作へ込めた気持ち」を中心にして読めば、どの詩も「作者の詩作へ込めた気持ち」をあらわしているという結論になってしまいませんか?

 これに今井が、コメントを追加している。(03月23日)

〈私は、詩は「作者の詩作へ込めた気持ち」を読み取るものとは思っていません。〉
どのようなスタンスで詩を読んでいただいても、基本構わないとはわたしは思います。それは、執筆者の自由です。
ただし、短時間で読み飛ばし、短時間で書き飛ばすような、粗雑な執筆態度には、まず対象に対する愛がごっそりと抜け落ちています。
そうであるものを、わざわざ俎上に上げる必要は無いとわたしは思います。もっと、こころを突き動かされた詩集に時間を使っていただきたい。
わたしは、このような取り扱いに対し、気持ちが動揺したりはしませんが、書き始めたばかりの若い詩人たちにとっては、可哀想な文言を突きつけられることとなるでしょう。

 フェイスブックで対話をつづければいいのかもしれないが、対話の出発の文章がここが書いたものなので、ここで書く。
 私がいちばん問題にしたのは「シャローム」ということばである。
 どんなふうに詩の中に登場するか。

「連続飲酒30歳代後半から 退院後 アルコールデイケア通所中
本来家に1人で居ることが好きでやりたいこともあるのでそれが
断酒に結びつくと考えているのですが入院していた病院から患者
がどのように生活していくかの指針として同じ病気を持つ人たち
のミーティングへの参加をつよく促されて 今回 参りました」

「シャローム。* はじめまして、“イマイ”!!」(参加者)
*シャローム/ヘブライ語で「平和」

 今井が自己紹介したのに対し、アルコール依存症のひとたちが歓迎のあいさつをしている。そこにはじめて「シャローム」が出てくる。
 このことばを、今井がどういう「気持ち」で受け止めたのか、私にはわからない。どこに「気持ち」が書いてあるのか、わからない。
 だから、今井の「気持ち」を考えずに、「シャローム」が、この詩(あるいは、この集会)でどのようにつかわれているかを考えた。読み取ろうとした。
 今井は、「*」をつかって「註釈」の形で「*シャローム/ヘブライ語で「平和」」と書いている。
 私はまず、ここに疑問を持つ。この「註釈」は「辞書に書かれている意味(定義)」ではないのか。そこに「気持ち」はあるのか。
 私は作者の「気持ち」は気にしないが、「ことばの気持ち」はとても気にする。
 あいさつのときの「シャローム」はほんとうに「平和」なのか。私はヘブライ語を話す人と会話したことがないから断定はできないが、それは「平和」という「名詞」としてつかみとるだけでいいのか。
 「あなたが平和でありますように、あなたに平和が訪れますように」かもしれない。また「世界が平和でありますように」。「あなたが平和でありますように」を短縮したものであるとして、その「平和」とは何だろう。戦争がないこと? 死に直面せずにすむこと? そうではなく精神的なこと?
 「*シャローム/ヘブライ語で「平和」」では、まったくわからない。

 逆な言い方をしてみよう。
 日本語なら(日本人なら)、こういうとき「こんにちは」とか「はじめまして」「ようこそ」と言うだろう。その「こんにちは」を、たとえば英語を母国語とする人が「「こんにち」は日本語でtoday 、「は」はテーマを指し示すことば」と説明したとする。辞書、あるいは文法的にはそうなのかもしれないけれど、変ではないだろうか。
 ことばは「辞書」に書かれている「定義」を超えてつかわれている。そこには、それこそ「気持ち」がふくまれている。
 今井はどうかは知らないが、私は「こんにちは」を「こんにちは(きょうは)、ごきげん(体調/仕事)はいかがですか?」というような「気持ち」でつかう。
 もちろん嫌いな人間には、ただ機械的に「こんにちは」というし、親しい友人でも喧嘩したあとなら冷淡に「こんにちは」という。そして、そこからまた、「なんだ、いまの言い方は」とけんかしたりもする。
 ことばはいつでも「気持ち」といっしょにある。

 今井の「*シャローム/ヘブライ語で「平和」」という言い方は(説明の仕方)は、今井のことばを借りて言えば、それこそ、「短時間で読み飛ばし、短時間で書き飛ばすような、粗雑な」、「対象(ことば)に対する愛がごっそりと抜け落ち」ている説明ではないだろうか。
 
 「シャローム」がテーマではない、と今井は言うかもしれない。
 何がテーマであるか(何を書きたいという気持ちであるか)ということを、私は気にしない。詩は「テーマ」ではなく、「書き方」だからである。
 「シャローム」ということばをはじめて聞いたとき、今井はどう感じたのか。それを受け入れたとき今井はどうかわったのか。その「変化」が一篇の詩の中で書かれているとは、私には感じられない。そのことばに出会うこと(そのことばを書くこと)によって、どんな新しい今井が顕れたのか、それが私にはわからない。
 そのことについて、私は疑問を書いた。

 私は目の都合もあり、どの感想も「短時間(40分)」で書いているのはそのとおりである。しかし、どこを「短時間で読み飛ばし」たのか、具体的な指摘がないのでわからない。
 「シャローム」ということばについて、今井は、どこに「時間をかけて、ていねいにせつめいをしているか」。その具体的なページと文言を教えていただきたい。

 今井は「こころを突き動かされた詩集に時間を使っていただきたい」とも書いている。私は「こころを突き動かされた」から書いた。
 「こころを突き動かす」には二種類ある。「不満(これはおもしろくない)」と「満足(これはいい)」である。
「シャローム」の語彙の説明の部分はぜんぜんおもしろくない。けれど、「Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)Part2」にはおもしろい部分がある。(64ページ)そのことははっきり書いている。今井は読みとばしたのかもしれないが、そこで展開されることばの運動と、他の作品のことばの運動との比較も書いている。

 また「このような取り扱いに対し、気持ちが動揺したりはしませんが、書き始めたばかりの若い詩人たちにとっては、可哀想な文言を突きつけられることとなるでしょう。」というのは、何を言いたいのか私にはまったく理解できない。
 今井の書いている「シャローム」ということばについて疑問をもつこと(疑問を書くこと)が、どうして「若い詩人たちにとっては、可哀想な文言を突きつけられることとなる」のだろうか。
 「若い詩人たち」とはだれを指しているのかわからないが、私の書いた感想が「若い詩人」に対して「可哀想な文言を突きつけ」ているのだとしたら、それは、私の書いたどの文章を指しているのだろうか。
 具体的に教えてもらいたい。
 


 フェイスブック以下のコメントがあったので、追加しておきます。私の書いた感想と、伊天井への質問に関する、大谷良太さんからのコメントです。

大谷 良太 外野から失礼致します。今井さん、荒らしてしまうようでごめんなさい。
谷内さん、
まず、依存性や自助グループについて、谷内さんご自身で調べてみる必要があったかと思います。詩集内に情報が全て明示される、という前提は、実はないのですから。
それから、日本人や日本語についても、似たようなことが言えるかと思います。詩集一冊で著者の背景を、一般的な日本人と決め付けている点や、日本語のみの使用を前提している点に、偏見、先入観が潜んでいるのではないかと感じました。
果たして、谷内さんがまっさらな心で今井さんの詩集を読めていたのでしょうか。私なら疑います。今井さんの怒る気持ちに、心から共感しました。

私は、以下の返信をコメントしました。

大谷さん、私は今井さんについて何も知りません。
(大谷さんについても同じです。)
大谷さんの文章から推測すると、今井さんはヘブライ語を日常語としてつかっているということなのですね。
それは、私の想像を超えています。思ってもみませんでした。
でも、それが「偏見、先入観」と言われると、とても厳しい。
大谷さんの書いている「まっさらな心」が何を指しているのかわかりませんが、私は今井さんがヘブライ語を日常語として話すと考えなかったことが、「まっさらな心」ではないといわれるのは、納得できません。
何も知らない(知識として、白紙、まっさら)だから、ヘブライ語の注釈に疑問をもったのです。
貴重な情報をありがとうございました。
「依存性や自助グループについて、谷内さんご自身で調べてみる必要があったかと思います。」ということですが、そういうことを調べれば「まっさらな心」で読むことになるのかどうか、私は疑問に思います。
私はどんな時でも、作者の個人情報は、そこに書かれている「背景」については調べません。
私は、「ことばの運動」を読みたいのであって、そこに書かれている「現実」と私との関係を考えたいわけではありません。



*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(39)

2018-03-23 10:48:12 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(39)(創元社、2018年02月10日発行)

 「音楽ふたたび」は「音楽」という詩を引き継いでいるのだろうか。

いつかどこかで
誰かがピアノを弾いた
時空を超えてその音がいまも
大気を震わせぼくの耳を愛撫する

 この詩でも「音楽」が具体的に何を指しているかはわからない。ピアノだけの曲なのか、ピアノを含んだ曲なのかもはっきりしない。
 詩の主題は「時空を超えて」だから、「音楽」はわきに置かれたのかもしれない。具体的な「音楽」そのものではなく、抽象的な「音楽というもの」と人間(ぼく)との関係が書かれていることになる。
 このとき、ここにとてもおもしろいことが起きている。
 「音楽」にはいろいろな要素がある。メロディーがある。テンポ(リズム)がある。楽器があり、声がある。「音色」がある。
 谷川は、この詩では、

その音が

 と書いている。「音」だけにしぼっている。もちろん、この「音」は「メロディー」と読み替えることも、「テンポ」と読み替えることもできる。「音色」と読み替えることもできる。
 でも、そうは言わずに「音」と言う。
 これは、「音楽」をさらに抽象的に言いなおしたものか。
 それとも「音楽」になる前の、一つの具体的な「音」へと帰っていくためのことばなのか。
 どちらとも読めるが、私は「単独の音」と読みたい。
 「音楽」はメロディー、テンポによって構成されているが、「構成された世界」になる前の「音」。「未生の音楽」の出発点としての「音」。孤独に震える音といってもいい。それが「ぼく」と「共鳴」する。メロディーでもテンポでもなく、「共鳴」が「音楽」を生み出していくのだと感じる。

時空を超えて

 が、それを強調する。もちろん「楽曲」が時空を超えてやってきてもいいのだけれど、完成された大きなものではなく、単独の小さなものが「時空を超えて」やってくる。「ぼく」に会いに来る。一個の星の光のように。
 きっと、そうなのだと思う。
 三連目に、こう書いてある。

初めての音はいつ生まれたのか
真空の宇宙のただ中に
なにものかからの暗号のように
ひそかに謎めいて

 一連目の「その音」は「初めての音」と言いなおされている。「初めて」なのだから、それは「一個」である。
 巨大な沈黙と拮抗する「一個の音」。
 それを思うと、宇宙の真ん中にほうりだされたような不安とよろこびを感じる。
 「ある」ことの不思議さに、不安とよろこびを感じる。

初めての音はいつ生まれたのか

 この「生まれる」もいいなあ。
 「生まれる」、そして「ある」。それが、何かに「なる」。何に「なる」のか、だれもわからない。




*


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河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(38)

2018-03-22 09:20:34 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(38)(創元社、2018年02月10日発行)

 「このカヴァティーナを」の前半部分。

このカヴァティーナを聴き続けたいと思う気持ちと
風の音を聞いていたいという気持ちがせめぎあっている

木々はトチやブナやクルミやニレで
終わりかけた夏の緑濃い葉の茂みが風にそよぎ
その白色雑音は何も告げずにぼくを愛撫する

そして楽器はヴァイオリンとヴィオラとチェロ
まるで奇跡のように人の愛憎を離れて
目では見ることの出来ない情景をぼくの心に出現させる

 詩は要約できないものだが、あえて要約すると「このカヴァティーナは目では見ることの出来ない情景をぼくの心に出現させる」になるかもしれない。「目では見ることの出来ない情景」を「出現させる」。それが「音楽」である、と。
 たしかに三連目の三行目は印象的なのだが、私は

木々はトチやブナやクルミやニレで

 この一行がこの詩の中でいちばん好きである。この一行は「主語」である。そして、そこには「動詞」がついているのだが。さらに言えば、私は「動詞」を出発点にして「ことば」を読むのが好きなのだが。
 この詩でも「そよぐ」「告げる」「愛撫する」という動詞を出発点にして読めば、それはそれで書きたいことが出てくるのだが、でもきょうは、そういうことをしたくない。
 まわりに「動詞」があふれすぎているせいかもしれない。
 「音(音楽)」と「白色雑音」、「愛憎」、「目に見える光景」と「目に見えない情景」、「静けさ」と「騒音」が「せめぎあっている」ことが、さまざまに言い換えられている。「せめぎあい」に「音楽」が生まれてくる瞬間をとらえているとも言える。
 でも、そういう「意味」ではなく、単にそこにある

トチやブナやクルミやニレ

 この「存在」(固有名詞)に感覚が、意識が、洗い清められる気がする。
 「意味」を気にしない。「動詞」によって何かになろうとはしない。ただ、そこに「ある」。それを谷川のことばは「描写」するが、描写しなくても、そこに「ある」。
 「意味」を拒絶しているわけではないが、「意味」と無関係にそこに「ある」。

 この感じは、ちょっと不思議である。
 私は、谷川がこんなふうに「木の名前」を具体的に列挙している作品を思い出す事が出来ない。いつもは「木」としか書いていないような気がする。「木」に限らず「草」も「花」もたいていは「木、草、花」と書いていないだろうか。「山」「海」「星」も同じだ。「固有名詞(?)」を書くときも、バラならバラと一種類の「花」ではないだろうか。そういう印象が強いために「トチやブナやクルミやニレ」が新鮮に迫ってくる。
 「存在」の強さが、「ある」という動詞を呼び覚ます。「意味」を拒絶して、ただ存在として「ある」。その「ある」が見える。

 そして、それが、この詩には書かれていない「沈黙」を呼び覚ます。(この詩には「静けさ」ということばはあるが、「音楽」と対になっている「沈黙」は登場しない。)
 「トチやブナやクルミやニレ」は「沈黙」として、音楽(カヴァティーナ)と向き合っていると感じる。ここでは「聞く」と「聴く」、「自然」と「人工」が向き合っている。「聴く」にとっては「沈黙」、「聞く」にとっては「ある」。切断と接続の接点として「沈黙がある」か、「あることの沈黙」が「ある」か。





*


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     *
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」

2018-03-21 20:24:38 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」(「交野が原」84、2018年04月01日発行)

 岩佐なを「のぞみ」。岩佐は、いつごろから、こういう詩を書くようになったのかなあ。思い出せない。昔はただただ「気持ち悪い詩」だったんだけれど。

テーブルに突っ伏して眠るこのごろ
湯呑みの湯はさめ
くすりは散らかって
湯をこぼさなかっただけが
この日のしあわせなことなんて
なんだかなあ
さじを投げるわけにはいかず
はしを立てるわけにはいかず

 「匙を投げる」は「あきらめる」という「意味」でつかわれるが、語源は医者が薬の調合のあきらめるということらしい。うろ覚えの記憶だが。だから、これは引用した部分の三行目とも通い合っているのだ。ことばが緊密に動いているのだ。
 こういう「ことばの肉体」の動き方は好きだなあ。
 でも、そのあとの「はしを立てる」は?
 「匙」から「箸」への動きは自然だけれど、ごはんに「箸を立てる」って、これ、仏前の供え物じゃない? 医者が匙を投げて、人が死ぬという「意味」のつながりがあるんだろうけれど、この「毒」が刺激的だなあ。
 「毒」をのみこんで、平然としている。
 最後の部分にも、おもしろいことばの「連絡」がある。

ふりむくと
突っ伏した自分の前で
コップが倒れて
冷めた液体がテーブルに
面積をひろげていた
窓の外に
気持ちよくやすらかな景色がひろがれば
身も心も流しこんでゆけるものを

 面積を「ひろげる」、景色が「ひろがる」。面積をひろげるは、水のことだから「流れる」にもつながる。それが「身も心も流しこむ」へとつながる。
 「連絡」の仕方が、ゆったりしている。
 不思議におもしろい。



 たかとう匡子「部屋の内外(うちそと)」。

わたしの時間が知らないうちにねずみにでも齧られていたのか
どこからともなく雨が激しくぶつかりながら侵入してくる
わたしは密室だから
こじあけられる心配なんて夢にもしていなかったのに

 「時間」と「密室」の関係がおもしろいなあ、と思って読んだ。「時間」がテーマ、「密室」はテーマを語るための「比喩」と思って読み始めた。
 しかし、最後はこの関係が逆転する。

溶けていく生の時間がぬれて落ちないようにと
かがみこんでうつつの密室に施錠している

 これが「密室」がぬれないように、「時間に施錠している」という展開ならいいのになあ、と残念に思った。

 



*


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長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(37)

2018-03-21 15:27:58 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(37)(創元社、2018年02月10日発行)

 「音楽」は「音楽」について書いているが、具体的にどの音楽、誰の曲、誰の演奏かはわからない。

穏やかに頷いて
アンダンテが終わる
二つの和音はつかの間の訪問者
意味の届かない遠方から来て
またそこへ帰って行く

 「二つの和音」は、二通りに読むことができる。「一つの和音」と「もう一つの和音」、つまり「二種類の和音」と読む読み方と、「一つの音」と「もう一つの音」によって構成される和音、つまり「二つの音による和音」と。
 私は「二つの音による和音」と読んだ。「一つの音」が「もう一つの音」と出会い、「和音」になる。
 そしてこのとき、それぞれの「一つの音」は、たとえばピアノの「ド」と「ミ」ではなく、一つはピアノ、もう一つは谷川の「肉体」のなかにある音と読んでみたい気持ちになる。たとえピアノの「ド」と「ミ」の「和音」であったとしても、「ド」と「ミ」のどちらから谷川の「肉体」に深くしみついている音、谷川の「肉体」にひそんでいる音と読みたい。誰の「肉体」にも何か「基本の音」がある。それが別の「音」と出会って、「和音」となって響く。そういうことがあると思う。
 そう読むと、つづく二行がとてもおもしろい。
 「意味の届かない遠方」というときの「遠方」も二通りに読むことができる。谷川の「意味の領域(圏域)」の彼方というのは、一つはたとえば「宇宙の彼方」のような「遠方」ととらえることができる。存在を知らなかった「未知の意味」「まったく新しい意味」と呼び変えてもいい。それとは別に「肉体」のなかにあって「意識されない意味」があり、それはやはり「遠方」と呼べないだろうか。それは「未生の意味」と言いなおすことができると思う。
 どこか谷川の「肉体」の外の「遠方」から「未知の意味」があらわれる。それは谷川の「肉体」のなかの「未生の意味」と出合い、それまで存在しなかった「意味」を生み出す。「和音」のように、出合いの瞬間に結晶し、「意味」になる。
 そして、これは、いまは便宜上、「肉体の外にある意味」を「新しい意味」、「肉体のうちにある意味」を「未生の意味」と区別したけれど、逆かもしれない。「新しい」と「未生」の関係は、出会った瞬間に決まることで、どちらがどらかとは言えない。
 「ド」の音に「ミ」の音が出会うのか、「ミ」の音に「ド」の音が出会うのか。区別がつかない。というよりも二つの音が出会ったとき、それぞれを「ド」「ミ」と認識し、同時に「和音」になるということが起きるのではないだろうか。一つ一つの音が「生まれ」、また「和音」が生まれる。二つの音が「和音」を生み出し、同時に「和音」が不つたの音を生み出す。そういうことが起きると思う。(こういう思いつきを書くと、絶対音感の持ち主からは、ドはドの音、ミはミの音と叱られそうだが。)

 こういうことは、長く書き続けられない。つまり「明確」に論理化できない。強引に書けば、どうしても「破綻」してしまう。瞬間的に感じる「錯覚」のようなものである。
 「意味」は、また「未生の意味」へ帰っていく。
 同じように「音(和音)」もどこか、それが生まれ来たところへ帰っていく。それは「遠方」なのか、「肉体の奥」なのか、わからない。区別ができない。




*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
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安倍の「点と線」

2018-03-21 00:12:39 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の「点と線」
             自民党憲法改正草案を読む/番外196(情報の読み方)

 いま「政治」の話題は「①森友学園文書改竄」と「②前川講演への文部省介入」でもちきりだが、裏では「③憲法改正」も動いている。三つは別々のことのように見えるが、「ひとつ」の線でつながっている。これに「④天皇制限退位」もつけくわえることができる。
 どうつながっているか。「沈黙作戦」である。安倍は、国民に議論させない。「民主主義」を否定し、独裁を狙っている。すべてが、これで説明できる。

 ①森友学園の文書改竄は、「議論」のもとになる「資料」を隠してしまうところから出発している。不都合な「事実」を隠蔽する。これでは議論ができない。議論が成り立たない。いちばんわかりやすい「点」である。

 ②は「教育への介入」なのだが、これは③と密接につながっている。自民党の改憲案は、最初は「教育費の無償化」を売り物にしていたが、いまは「教育環境を整える」である。この「教育環境を整える」というのは、だれもが教育を受けられるようにするというのではなく、独裁政治がしやすいような人間を育てる教育環境をつくるということである。安倍批判をしない学校(安倍をほめたたえた籠池の保育園)なら優遇し、金を出すが、安倍批判をする学校には金を出さない。圧力をかける。
 今回の「前川事件」には金はからんでいないが、「文部省からの質問」という形で圧力をかけている。その背後には自民党の議員がいた。
 「教育の無償化」について触れたとき、私は何度も「学問の自由は守れるか」「安倍政権を倒せという研究をするとき、そこに金は支払われるか」というようなことを書いたが、もう圧力がかけられている。
 自民党の改憲案は、先取りする形で実施されている。

 私の書いた「天皇の悲鳴」は2017年の3月末までのことを中心に書いている。そのため、

国民から批判力を奪う洗脳作戦は学校から始まろうとしている。

 という文章で終わるしかなかったのだが、安倍が「学校(教育)」を利用しようとしていることは明らかだ。
 「森友学園」も、いまは鎮静化している「加計学園」も学校が舞台である。その学校ではどういう教育がおこなわれるのか。森友学園は挫折した。加計学園の獣医学部は政治とは無関係の学部に見えるが、学校の基本は「考える力」を生徒に身につけさせることである。「考える教育」をしないなら、それは何を教えていようが独裁を支える要素になる。無批判の人間を育てることを安倍は狙っている。

 ④に移る。「天皇の悲鳴」で書いたことだが、「生前退位」は天皇に健康に配慮したものではない。ビデオメッセージで天皇は「天皇に国政に関する権能はない」と二度言わされている。安倍が言わせたのである。天皇は即位するとき「憲法を守る」と宣言している。こういう天皇がいては改憲は進まない。なんとしても天皇を沈黙させる必要があったのだ。「天皇に国政に関する権能はない」と、天皇自身に語らせる必要があった。
 それが成功した。
 天皇さえもが「沈黙」しているだから、国民は安倍を批判するな。安倍の決めたことに従え、というのである。(このことは「天皇の悲鳴」を参照してください。)

 このことに私が気づいたのは、これも「天皇の悲鳴」に書いたことだが、2016年の参院選のときである。「選挙報道」がとても静かになった。NHKは放送時間を減らしただけではなく、選挙前日の7月9日に「あす7月10日は、ナナとトウで納豆の日です」ということばで7時のニュースをしめくくった。参院選があることを知らせないようにした。そうすることで巨大政党に与した。
 議論を封じることで、少数意見を抹殺した。

 反対意見を言わせない。反対の「根拠」になる資料を隠す。あるいは、データを捏造して「反対の根拠」を否定する。
 自分にとって都合のいい「声」だけを他人におしつけ、支配する。
 ①の森友学園は、そういう「作戦」がとてもわかりやすい形で出ている。森友学園は安倍を支えている「日本会議」とつながっている。「安倍首相がんばれ」と園児にまで言わせている。安倍昭恵がそれに感動して「名誉校長」になっている。そうすることで、「森友学園」に便宜をはかれと「無言」で圧力をかけている。
 これにみんなが反応し、森友学園を優遇した。
 しかし、そのことが問題になると、籠池を詐欺師と断定し、さらに森友学園と安倍とのつながりを隠すために文書を改竄し、破棄させた。「反対」の意見を封じるためである。議論させないためである。

 民主主義の基本である「議論」。これを封じることで「独裁」を完成させる。その「線」ですべての「事件」、あるいは「できごと」はつながっている。そして、批判力を身につけさせないための「学校づくり」を、その根底においている。これが安倍のやっていることなのだ。憲法を変え、独裁者になるための下準備なのだ。







#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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どう指示するか、どう読み取るか

2018-03-20 12:22:57 | 自民党憲法改正草案を読む
どう指示するか、どう読み取るか
             自民党憲法改正草案を読む/番外195(情報の読み方)


 「森友学園文書改竄」に関する参院予算委。2018年3月20日の読売新聞
(西部版・14版)の一面では

森友書き換え/佐川氏「廃棄」答弁が契機/集中審議財務省側/証人喚問来週に

 という見出し。これは安倍側の描いた「構図」をそのまま述べたものだ。
 責任を財務省と佐川におしつけて収拾をはかろうとしている。
 大きくは取り上げられていないが、私が読んだかぎりでは、今回の審議のポイントは2点ある。いずれも太田財務省理財局長が関係してくる。

 (1)自民党の和田政宗が太田に対して、民主党政権時代に野田首相の秘書官を務めたことに触れたあと、

「(財務省は)増税派だから、安倍政権をおとしめるために、意図的に変な答弁をしているのではないか」と指摘した。(読売新聞4面)

 これは何としてでも財務省に責任をおしつけようとする意図を鮮明にあらわしている。安倍を擁護できれば、何でも言うといたぐいのものである。
 自民党議員を名乗って質問しているのだから、これは自民党の基本姿勢だといえる。読売新聞は小さくしか報道していない。こういう「暴論」は取り上げるに値しないと判断しているのかもしれないが、「ちいさなほころび」こそが、今回の事件のポイントである。
 こういう発言を自民党幹部が「容認」しているのは、自民党全体が、財務省にすべてを押しつけようとしているということである。
 これに対して麻生が何も反論していないのがひどい。財務省を管轄する大臣として、「財務省を侮辱することは許せない」と言うべきである。言わないのは、財務省の職員がどうなろうと知ったことではないと思っているからだろう。

(2)共産党の小池が、なぜ昭恵の名前が記述されていたのか、と問うたのに対して、太田は、

「それは基本的に総理夫人だということだ」

 と答えている。文書の改竄をしたといわれている佐川ではなく、太田がそう答えている。だとすれば、これは財務省の職員の多くに共有されている認識である。「総理夫人」が関係している案件であると認識していない担当者はいないとさえ言える。
 安倍は関与していないと主張しているが、財務省職員は「関与」と認識している。そして、その「証拠」が昭恵の名前である。安倍は「私の発言がきっかけとの仮説が事実なら、全ての削除された箇所に妻の記述がなければならない」と言うが、すべての削除箇所に昭恵の名前がないと、昭恵が関与しているかどうか財務省職員に認識されないと考える方がおかしい。「秘密」の共有は一回でいい。
 「回数」は関係ない。「一回」であるとしても、そこから「何を読み取るか」である。

 「昭恵」を総理夫人と読み取るなら、昭恵の秘書の谷の名前も総理夫人秘書と読み取るだろう。そういう「読み取り方」を「仕事」としているのが官僚なのではないのか。そういう「読み取り方」を指導しているのではないのか。
 これは官僚に限らない。どんなビジネスの世界でも、個人を個人としては見ない。「組織」というか「体系」を念頭において動いている。

 今回の事件の「黒幕」が誰なのか、わからない。それが、たとえば安倍の側近だとする。その側近の指示で佐川が動き、佐川がまただれかを動かす。こういうとき、「黒幕」の指示は、そのまま安倍の指示である。安倍が直接指示しているかどうかは問題ではない。指示を受けた人間は「安倍の指示」と受け止める。
 どんなことでも、指示する方と支持される方があり、指示される方がどう受け止めたかが「事件」を解明するカギになる。もし指示された方の「理解」が間違っていたのなら、間違いを誘うような指示をした方が悪い。「意図」が共有されないシステムがおかしいということになる。
 で、ふつうは、こういうときトップが責任をとる。
 いろいろなメーカーで、「資料(データ)の改竄」がおこなわれた。社長は「データを改竄しろ」とは指示していない。「もっと、もうけろ(利益を上げろ)」と指示しただけかもしれない。それを、下部組織がどう受け止めたか。データを改竄してでも利益を上げろと受け止めたのだとしたら、それは指示の出し方に問題があったということになる。だから辞任するのだ。



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松岡政則「ありがとう」

2018-03-20 11:21:51 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「ありがとう」(「交野が原」84、2018年04月01日発行)

 松岡政則「ありがとう」を読む。

つれあいの
髪を洗っている
一週間ぶりだという
たからの持ち腐れだとよくぼやいていた、
ちちふさのあたりをぬらさぬように
注意ぶかく洗っている
あーいいきもち
もっとつよくして
あっそこっ

 状況はいろいろ考えられる。「一週間ぶりだという」からは、「つれあい」が自分では髪を洗えない状況だと推測できる。病院か、どこかの施設か。そういうところにいるのかもしれない。「たからの持ち腐れだとよくぼやいていた、/ちちふさ」から、乳房に関係する病気とも想像する。でも、深くは考えない。
 つれあいが「いいきもち」と言った。そのことを松岡はしっかりおぼえている。短いことばだが、「もっとつよくして/あっそこっ」とつながっていく。「実感」をいっしょに共有している。
 少し省略するが、この「きもちがいい」がかわっていくところがとてもいい。

つれあいの髪を洗っている
九浅一深のリズムで
いのりのような純一で
どこかでおんなの髪を洗ったことがあるのだろうという
だまってないでなんとかいえという
お國はこわれているのに
わたしはしんそこうれしくて
のどのあたりがいっぱいになる
もう返事すらできないでいる
(うごくと、ぬれるよ

 髪の洗い方があまりにもうまいので、つれあいは松岡のことを疑い始める。「どこかでおんなの髪を洗ったことがあるのだろう」と。さらに「だまってないでなんとかいえ」と追い打ちをかける。
 松岡はいわば叱られているのだが、それがうれしい。叱るくらいに女は元気になっている。それがわかる。「きもちいい」だけではなく、「きもちいい」と感じ、そこからこころを開いている。思っていることを言い始めている。
 ひとは思っていても言わないことがある。
 無防備に「あーきもちいい」と言ったことが引き金になって、こころが無防備に開いたのだ。こんなことを言えば喧嘩になる、というような心配などふっとばして、思っていることを思っているままに言う。
 いま女(つれあい)は「あるがまま」を生きている。
 それが松岡には「しんそこ」うれしい。「しんそこ」から込み上げてくるものがある。こういうことを「しんそこ」とか「うれしい」ということばをつかわずに書くのが詩なのかもしれないが、女の無防備なことばに突き動かされて、松岡のことばも無防備になっている。
 「ありがとう」はタイトルにしか書かれていないが、いまふたりは「あるがまま」に生きている。そのことに「ありがとう」と言っている。女に「ありがとう」といっているだけではない。




*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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艸の、息
松岡政則
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(36)

2018-03-20 10:03:27 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(36)(創元社、2018年02月10日発行)

 「武満は好きな絵を仕事場は置かなかったそうだ。」で始まる文章に、こういう一段落がある。

 武満が浅香さんをなぐったのを、私はただ一度だけ目の前で見た
ことがある。彼が音楽をつけたある芝居を、浅香さんが私たち夫婦
に同調して批判したのが理由だった。そのとき私はおろおろするば
かりだったが、いまはそれが愛情からだったということがよく分か
る、妻への、音楽への、そして生きることへの。

 わかるようで、わからない。つまり考えさせられる。いや、考えさせられるではないなあ。ここから「何か」を感じてしまう。
 こういうことは「感じた」ままにしておくのがいいと思う。
 この文章を書いている谷川は、もう「おろおろ」していないかもしれない。
 でも、私は「おろおろする」。そして、おろおろしたままにしておく。

 かわりに、私の武満徹への思い出を書いておく。
 ある日、FM放送を聴いていたら「海へ」という曲が聴こえてきた。武満の曲である。曲に刺戟されて「海へ」という詩を書いた。詩を書いたあと、もう一度聴きたいと思ったが、レコードがわからない。
 どうやって調べたのか忘れたが、私は武満に手紙を書いた。「あの曲をもう一度聴きたい、レコードは出ていないだろうか」。書いたばかりの詩を同封したかもしれない。
 武満から返事が来た。北欧の音楽祭へ行く途中の羽田空港(あるいは成田だったろうか)から書いているという。演奏者とレーベルの名前が書いてあった。FMで聴いたのはフルートとギターだったか、フルートとピアノだったか、あるいはバイオリンだったか。その奏者(また楽器の構成)とは違うのだが、という断り書きがあった。
 そのときのはがきも、レコードも、そして私の書いた詩も、なくなってしまった。
 覚えているのは、出国する寸前のあわただしい時間を割いて、武満がはがきをくれたということだけだ。それが忘れられないのは、そこに武満の「人間性」を感じたからだ。見ず知らずの私の質問に、きちんと答えてくれる。そこには、谷川のことばを借りて言えば「愛情」がある。音楽への、生きることへの。




*


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キーワードの分析

2018-03-20 00:45:28 | 自民党憲法改正草案を読む
キーワードの分析
             自民党憲法改正草案を読む/番外193(情報の読み方)

 インターネットで、おもしろい記事を読んだ。

[東京 19日 ロイター] -安倍晋三首相は19日午後、森友学園への国有地売却問題に関する参院予算委員会の集中審議で、決裁文書書き換えは、自身と妻がこの問題に関与していれば首相も国会議員も辞めるとの首相発言がきっかけでは、との質問に「私の発言がきっかけとの仮説が事実なら、全ての削除された箇所に妻の記述がなければならない」と述べた。


一か所あれば十分。
「選挙の連呼」ではないのだから、すべての箇所に「昭恵、昭恵、昭恵、昭恵」と書くわけがない。

というか。

たった一か所なのに「まずい」と思って削除したということだ。
一か所くらいあっても、そんなのは無関係、と言えるなら、それはそのまま残っているだろう。

どんなときでも「キーワード」は一回しか出てこない。
そのことばを省略しても通じるのだが、どうしてもそのことばを書くしかないときがある。
それが「キーワード」の特質なのだ。
本質に深く深くくいこんでいることばは、言う必要がない。
言わなくても、「本人」(関係者)には自明のことだから、書かない。

これは、私が詩を読むときの「方法論」だが、あらゆることに通じる「方法論」でもある。
頻繁につかうことばは「キーワード」ではない。

これはもう、完全に「墓穴を掘っている」答弁だ。

「昭恵」を消したから、少しでも「昭恵」に関係する部分は全部改竄し、削除しなければならなくなったのだ。
値引き交渉の背後に「昭恵」がいたから、交渉が進んだ。
「昭恵」がいなかったら、すすまなかった。
「昭恵」の存在が、すべての「特殊」要因なのだ。

むかし刑事が殺人者の映画があったなあ。
殺人現場にゆき、指紋をみんながみている目の前でどんどん残す。
現場からどんどん刑事の指紋が出てくるが、犯行時の指紋かどうかわからなくさせる、という作戦だ。

その逆だね。
逆も、命取り。
だれもが知っているのに、どこにも「昭恵」の名前がない、影響力がないように「工作」している。
それが「犯人」である証拠。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』

2018-03-19 09:34:20 | 詩集
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』(らんか社、2018年03月31日発行)

 今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』は横書きである。私は横書きの本が苦手である。左目が悪く、左から右へことばを追うとき文字がつかみきれない。焦点をあわせにくい。また「たましい(魂)」ということばも苦手である。多くのひとは「魂」ということばをつかうが、私は自分からはつかわない。なじめない。私の家では、だれも「魂」ということばをつかわなかった、ということもひとつの理由だと思う。
 だから、あまり親身(?)には読むことができない。私は、私が聴きなじんだことば以外は信じない人間である。
 「Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)」はアルコール依存症の人たちの集いに参加したときのことを書いている。実際の体験を書いているのか、創作なのか、判断はできない。「事実」であるか、「虚構」であるかは別問題として、私は、

「シャローム。はじめまして、“イマイ”!!」

 というような「呼びかけ」がおこなわれるような集いには加わりたくないと思う。ぞっとする。「シャローム」はヘブライ語で「平和」という意味らしい。註釈がついている。この註釈は、ここに書かれている集いが「ヘブライ語」を話す共同体ではじまったということをあらわしていると思うが、日本にいるのに、日本語であいさつしないで、いったいどうするのだろうか。この集いで依存症から抜け出すことができたとして、それはほんものの自分なのか。「シャローム」というあいさつが「仲間うち」でしか通じないのだとしたら、今度は「集い依存症」になるだけだろう。
 それは結局、「たましい」が「ある集団」でしか存在しないということにもなるだろう。「し」も「しあわせ」も。こういうことは、「不満」を書いてもしようがないのかもしれないが、嫌いなものは嫌いと書かないと、次にすすめない。

 「Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)Part2」にこんな行が出てくる。(64ページ)

「コップ」が「薄ら陽」と遭って「風鈴」という言葉になった
「風鈴」に「ミルク」を注ぐと「乳白色の夏」へと変った
「ロールパン」に「バター」を塗ると「萌黄の綿」へと変った
「ヨーグルト」に「種無しプルーン」を載せると、
「すこしだけ職なしのおとこ」へと変わった

 この五行はおもしろいと思う。「存在」が「存在」ではなく「ことば(比喩)」として動く。「比喩」はさらに「比喩」を誘い出す。どこまでも「比喩」が拡大していくとみせかけて、「現実」にもどってくる。「認識」というものが、ふいに、洗われる。洗われて、新しく現われる。
 そういえば、巻頭の「汚れた言葉と奇麗ごと」は、こうはじまっていたな。

手垢にまみれた「愛」「平和」
そんな言葉はまだ
世界にさらされてよいのか
はい よいのです
いかに汚れた「愛」「平和」でも
汚れているのは
表面だけなので
それらの汚れは
わたしたちそれぞれのこころで
洗い落とせば綺麗ごとになる

 「洗い落とす」という動詞。
 「比喩」が「比喩」とぶつかり、「比喩」として増えていくとき、「存在」の「名前」が「洗い落とされ」、「名前」以前の「存在」が現われる。これは「顕れる」かもしれない。隠れていたものが「露顕する」、あるいは「顕現する」。
 ことばに、そういう「洗い落とす」(顕現させる)力があるのだとしたら、そしてその力を解放するのが詩だとしたら、やっぱり、

シャローム

 というような、日常はつかわないことばを頼りにしてはいけないと思う。
 自分がいつもつかっていることばを、自分のつかっていることばで突き破っていかないと、ほんとうに何かが「顕れた」ということにはならないのではないか。




*


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小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(35)

2018-03-19 08:19:19 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(35)(創元社、2018年02月10日発行)

 「「音の河」武満徹に」には、

音楽はいつまでたっても思い出にならない

 という強い一行がある。読んでいて、思わず傍線を引いてしまう。なぜ、思い出にならないか。谷川は、

この今を未来へと谺させるから

 とつづけている。「谺させる」が不思議だ。「谺」は「させる」ものではなく「する」もの、と私は思っているので、不思議に感じる。この「谺させる」という不思議な言い方が、「思い出にならない」の「ならない」と通い合う。ふつうはどんなことでも「思い出になる」。それが否定されている。そして、それは単なる否定ではなく「思い出にさせない」という具合にも読むことができる。「谺させる」の使役の言い回しと、何かが似ている。使役といっても、人が働きかけるのではなく、「もの」自体がもっている力がおのずと「使役」に動く感じだ。
 「音楽」のもっている力が動き、思い出になることを拒む。生きていく。
 「谺」というのは「反響」だが、「反響」の前の、もとの「音」が「反響」を一回で終わらせない。生きていく、という感じだ。

 最終連も大好きだ。

言葉の秩序は少しずつ背景に退いてゆき
世界の矛盾に満ちた暖かい吐息を
ぼくらは耳元に感じる

 「音楽」の前では「言葉」は無力である。「言葉」は「意味(秩序)」に縛られるのに対して、「音楽」は「意味」とは無関係な力を生きるからだろうか。
 こういうことは、あまり考えてはいけない。
 わかっているつもりだが、私は考える。
 「言葉」の「意味」が消えていく(前面から背景へと退いていく)と、「世界の秩序」も消えていく。その結果「矛盾」に満ちてくる。この「矛盾」は「混沌」というものに近いかもしれない。「未生の言葉」が生きている世界だ。
 そう読み取った上で、私は「世界の矛盾に満ちた暖かい吐息を」をさらに解きほぐしていく。「世界の矛盾に満ちた暖かい吐息を/ぼくらは耳元に感じる」で「ひとつ」の文章なのだが、これを解きほぐす。
 「未生の言葉」が生きている「世界」を「主語」にして読み直す。

世界は矛盾に満ちた暖かい吐息を吐く

 さらに、

世界は吐息を吐く。矛盾した吐息を吐く。それは、熱い。

 世界は矛盾に満ちている(矛盾している)、矛盾のなかで世界は熱くなり、吐息を吐く。吐息は熱い。「耳元に感じる」のは「吐息」ではなく「熱さ」そのものである、と。
 「熱さ」とは「熱」。「熱」とは「エネルギー」。
 「世界は矛盾する」、つまり「対立する」。「秩序をなくす」、あるいは「混沌」とする。「未生の世界」へ帰っていく。

 音楽も詩も、形のない「熱」に形を与える。秩序を与えることで「未生」から「生まれる」にかわる。かわるけれど、そこでおしまいではない。生み出されたものがさらに「未生のもの」として動き、新しいいのちを生みつづける。
 その可能性を谷川は「耳」でつかみ取っている。
 そして、これが武満の音楽だと言っている。





*


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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(34)

2018-03-18 20:35:14 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(34)(創元社、2018年02月10日発行)

 「聴く」は「ベートーヴェンの家」を訪問したときのことから書き出している。「雑音」と「音楽」の関係についての思いめぐらし。
 本筋(?)ではなくて、「起承転結」の「転」の部分に、こういう文がある。

 詩の中にときおり〈おお〉とか〈ああ〉とかの感嘆詞を読むこと
がある。それらを私は読んでいるのか聴いているのか。

 私は、「読む」ではなく「聴く」。「読んでいる」と感じたことはない。
 私は、知っていることばは、すべて「読む」ではなく「聴く」感覚である。「文字」ではことばが覚えられない。私が文字を覚えたのが遅かったせいかもしれない。私は小学校に入学するまで「文字」を知らなかった。正確に言うと、入学式の前日、「名前くらいかけないといかんなあ」と言われて、自分の名前の「ひらがな」だけ教えてもらった。それまでは「声」でしかことばというものを知らなかったからかもしれない。
 そのせいか、いまでも「聴いたことのないことば」というのは読めない。聴いたことがあることばなら「文脈」から「これかなあ」と思うことがある。
 安倍や麻生が「云々」「未曾有」が読めなくて話題になったが、あれは文字が読めないというよりも、「うんぬん」「みぞう」という「音」を聴いたことがないのだろう。言い換えると、他人と会話したことがない。「声」に出したことがないせいだろうと思う。
 あ、これは私に引きつけすぎた「感想」かもしれない。
 知らない漢字は、私は、いまでも読みとばす。読める部分だけ読む。これは「聞こえる」ことばだけ読むということだ。
 「おお」「ああ」は確実に読むことができるから、「聴いている」としか感じたことがない。
 さらにいうと、そのときの「音(声)」というのは、自分の「声」である。私は「音読」はしないが、本を読んだあと、喉がつかれる。目ももちろん疲れるが、喉がつかれる。無意識に「声」を出しているのだと思う。
 で、少し脱線すると。
 私は「黙読」しかしないが、「語学」はさすがに黙読というのはめんどうくさい。それで「声」を出すのだが、そうすると「声」がきちんと出るようになってくると目が疲れない。「声」に出せない間は、とても目が疲れる。ここからも、私は「読む」というのは「声」を出そうが出すまいが、喉をつかっていると思う。もちろん舌も、唇も。「声」を出して読むと、「肉体」全体が解放されて、目の負担が軽くなるのかも、と自分勝手に考えている。

 谷川の書いていることに戻る。こうつづいている。

                         前後の文脈
に従って私は無意識のうちに、それらにある声を与えてはいるけれ
ど、本当の声は文字の中に閉じこめられている。黙読ということに
は、どこかうさんくさいところがある。

 うーん、「うさんくさい」か。黙読派の私には、これは厳しい指摘である。
 しかし、たしかにそう思う。
 先に書いたけれど、「黙読」というのはなんといっても「読みとばし」ができる。「音読」は「読みとばし」ができないからね。
 でも、こんなことも考える。
 では「音読(朗読)」ではなく、それを「聴いている」ときは、どうなんだろう。「おお」とか「ああ」とかということばを聴いているとき、私は「意味」を受け止めているのか、「音(声)」を受け止めているのか。
 これはさらに「書く」という行為とも関係づけて見る必要がある。「書く」とき、それは「意味」を書いているのか、「音」を書いているか。私はワープロで書いているが、手書きに比べて喉がつかれる。手書きに比べて早く書けるから、それだけ喉が忙しい。私は書くときも無意識に「声」を出しているようだ。
 で、そのときの「声」は「音」、それとも「意味」?
 実際に「声」を出すわけではないから、「書く」もの「うさんくさい」?

 それとも「読む」と「書く」は、わけて考えるべきなのかなあ。

 「朗読」にもどる。
 私は、実は「朗読」を聴くというのがとても苦手だ。「声」がもっている「意味」以外のものが多すぎる。「感情」と簡単に言ってしまうといけないんだろうけれど、私は他人の感情なんか知りたくない。他人の「意味」も実は知りたくない。自分の「意味」と「感情」で手一杯である。もちきれない。「ことば」は自分のペースで(つまり、声で)読みたい。「意味」と「音」は密接なので、よけい、他人の朗読が納得できないのかもしれない。

 「結」の部分は、こう書かれている。

 苦しみのあまり、また哀しみのあまり人が呻くとき、その声は表
記できない。〈おお〉でも〈ああ〉でもない呻きを聴くとき、私たち
の心身にうごめくもの、そこに言葉の本来のボディがあり、それを
聴きとることは風の音、波の音、星々の音を聴きとることにつなが
る。どんな雑音のうちにも信号がかくれている、どんな信号のうち
にも楽音がかくれている。

 「雑音→信号、信号→楽音」という「運動の構造」が文をつくっている。「信号」を中間項にはさみ、「雑音」が「楽音」にかわっていく。このとき「信号」とは何だろうか。「信号」を「意味」に限定すると、たぶん、「超合理主義(経済主義)」の何かになってしまうなあ。「意味」がすべてを支配(統一)してしまう。
 それでは「芸術」なんて、なくなってしまう。
 「意味」そのものではなく、「意味」になる前の「未生の意味」ということだろうか。「雑音」のなかにかくれている「未生の意味」が、「雑音」を「楽音」に変えていく。「既成の意味」ではなく「未生の意味」だから、それがどんなものか「わからない」。つまり、まったく「新しい何か」(独自の何か)かもしれない。
 でも、その「未生の意味」は、どうして人間にわかるのだろう。「かくれている」とどうしてわかるのだろう。
 ひとが呻く。それは「声」を聴くだけではなく、たいていの場合「肉体」そのものをも見る。そして、肉体を見て、呻きを聴くと、自分がおなじカッコウで呻いていたことを思い出す。それで「痛い」とか「悲しい」とか「悔しい」とか、「呻きの意味」を「ことば」を媒介にせずに、わかってしまう。この「わかる」は「未生のことば」を肉体で反芻するということだろうなあ。
 どんなことばも、そういう「領域」をとおって生まれてくると思う。「言葉のボディ」についての谷川の定義はわからないけれど、私は「ことばの肉体」と「人間の肉体」はつながっていると思う。
 
 とりとめもなく、ここまでことばを動かしてきて、ぱたっと止まった。どこかで何かを間違えているのかもしれない。






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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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安倍を分析する

2018-03-18 18:22:22 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍を分析する
             自民党憲法改正草案を読む/番外192(情報の読み方)

 森友学園文書改竄を、少し違う角度から見てみる。安倍はしきりに「私が最高責任者」という。憲法に自衛隊を書き加えたいのも、自衛隊を「違憲ではなくす」というよりも、内閣総理大臣が最高指揮官という文言を憲法に書き加えたいからである。内閣総理大臣が「最高」責任者、「最高」指揮官というようなことばは、どこにもないからね。
 現行憲法には、72条にこう書いてあるだけ。

第七十二条 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。

 これが自民党改憲案(2012年)では、こうなっている。

第七十二条 内閣総理大臣は、行政各部を指揮監督し、その総合調整を行う。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して、議案を国会に提出し、並びに一般国務及び外交関係について国会に報告する。
3 内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する。

 「最高指揮官」ということばが入っている。この「最高」を安倍は先取りして「実施」しようとしている。
 2012年の「改正案」では、この「最高指揮官」というこばは72条にならないと出てこないが、いま自民党がもくろんでいる改正案では、9条に出てくる。「天皇」「戦争の放棄」「国民の権利及び義務」という順序の現行憲法で「国民」よりも先に出てきて、しかも「最高指揮官」と定義する。
 ここから「自衛隊」を指揮するだけではなく、国民全体を指揮する(監督する)という方向へ「権力構造」を広げていく。
 安倍の「最高責任者」という発言は、「憲法改正」を先取りしているのである。

 で、この「最高責任者」ということばと、安倍がやっていることを結びつけながらみていく。
 最高責任者の「位置」というのは「三角形(あるいはピラミッド)」の頂点である。そこから全体を指揮(監督)する。このとき、安倍の視野には「三角形」の全部が入っている。国家全体を見れば、国民がいなければ「三角形」は成り立たない。行政においては、下部機関(省庁)がなければ「三角形」は成り立たない。
 「最高責任者(監督者)」ということばが「意味」をもつのは「三角形」が成り立つときだけである。
 ところが一方で、安倍は、17年の都議選の「応援演説」が象徴的だが、安倍を批判する人間を「こんな人たち」と呼んで排除する。「こんな人たち」を「国民」とは見なさない。「三角形」は成り立たない。「三角形」が崩れてしまえば、その頂点としての「総理大臣」も頂点とは言えなくなるのだが、こういうことを安倍は平気で言う。
 だから、安倍はこのとき「最高責任者(監督者)」という「意味」を捨てていることになる。「国」がどんな形かを無視して、「頂点」という「存在」として「自己規定」していることになる。
 安倍は「意味」と「存在」をつかいわけているのである。
 「意味領域」と「存在領域」と言い換えてもいいが、こんなことは、普通はだれも考えない。「意味」と「存在」は同じものだと思う。
 だから、安倍にだまされる。

 森友学園問題でも、同じことをしている。
 内閣総理大臣は行政の全体の最高責任者(監督者)である。こういうとき、安倍は「三角形」の全体を国民に「意味」として提示している。もし、その「意味」を守ろうとすると、その「三角形」の内部で問題が起きたとき(文書の改竄が起きたとき)、改竄行為の責任は内閣総理大臣にある。安倍にある。改竄が財務省でおこなわれたのなら、麻生も責任がある。
 ところが安倍は、改竄は自分がしたのではない。指揮していないと、「三角形」を離れて、「頂点」という「存在」に引きこもる。「三角形」を切り捨てる。都議選で「あんな人たち」と言ったのとおなじである。「あんな省」「あんな人(佐川)」がやっていることで、自分には関係がない。「指揮、監督する」という「意味」を捨てて、開き直るのである。
 改竄をした人間は「三角形の頂点」を守るために「三角形」であろうとしている。「底辺」を維持しようとしている。「底辺」でできることは何なのか、「意味」考えて行動している。これを安倍は「意味」のつながりを無視して、単なる「存在」として切り捨てる。「存在」は「補充」がきくからだ。
 安倍も麻生も、財務省や佐川に責任をなすりつけて平気なのは、財務省、佐川を「あんな人たち」とみているからである。自分には関係がない。守る必要など、ない、と思っている。

 ひとの考えていること(思っていること)は、いろいろな「ことば」になってあらわれる。
 安倍は誰に対しても「あんな人たち」という。そういうことが平気でできる人間である。この人間性を、佐川や財務省はつかみきれなかった。籠池もおなじだろう。安倍昭恵が「名誉校長」まで引き受けるなら、信じてしまう。まさか、問題が起きると「あんな人」と切り捨てられるとは思わなかっただろう。逮捕こそされたが、裁判で判決が出ていないのに、安倍は、詐欺師と呼んで切り捨てている。
 不都合な人間は、どんどん切り捨てる。自分は何もしていない、と言い張る。「三角形(意味)」と「頂点(存在)」をつかいわける「行動パターン」はおなじである。
 このことからも、今回の「森友学園事件」は、安倍の引き起こしたものだと言える。安倍以外の人間が首相なら、こんなことは起きなかった。安倍の「存在」が引き起こした事件である。

 で、こんなことも考えておきたい。
 戦争が起きる。みんな逃げまどう。国民が殺され、死んで行く。安倍とそのとき、どういうだろうか。「私は自衛隊の最高責任者であり、国民のすべてを指揮するわけではない。避難誘導を間違った知事や市長の責任である」と言うに違いない。
 安倍が「三角形」としての「最高責任者」を持ち出すのは、「独裁」を遂行するときだけである。批判を浴びたら、「頂点」として「存在」しているのであって、「三角形」の細部(面積)に責任があるのは別の人間だと言い逃れる。
 こんな人間が「最高責任者」のままでは、国民は「皆殺し」にあう。すでに財務省では自殺者が出ている。「自殺」は自分でするもの、安倍は何もしていない、というだろう。「何もしていない」を別な角度からとらえ直し、「何もしなかったから自殺者が出たのだ」と問い詰めなければならない。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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坂口簾『鈴と桔梗』

2018-03-18 09:24:34 | 詩集
坂口簾『鈴と桔梗』(書肆山田、2018年01月30日発行)

 坂口簾『鈴と桔梗』には細田傳造の詩とは違って「他人」がでてこない。ひとは出てくるが「他人」としては登場しない。「批評」が人に対してつけくわえられていない。これは別な意味で言えば、ことばに対して「批評」がおこなわれていない。
 「廃園」という作品。

目覚めの遅い廃園に来てみると
熟成した時間の露を縫いながら
今日の最初のひかりが
不揃いな模様を描きかけているところだった

たとえば
かつて少年がハモニカを吹きに来た檪の幹
熊笹におおわれていまは寄りかかることさえ出来ない
そこから見えた砂場
仙翁の朱の乱れるあたり
ブリキの如露が錆びた首を突き出していた

 ことばは互いに「呼び掛け合っている」。「廃園」はすたれた庭園。動き始めるものがない。これを「目覚めが遅い」ということばで強調している。「廃園は目覚めが遅い」と「主語+述語」の形で書かずに、「目覚めが遅い」と「認識」から語り始める。「認識が」全体のことばを統一している。したがって、ここには「批評」が入り込む余地がない。「熟成した時間」もおなじ。「廃園」にきて、その庭園の中にある「時間が熟成している」と気づくのではなく、あらかじめ「熟成した」という「認識」があり、それが「時間」ということばを修飾する。修飾は規定でもある。断定と言い換えてもいい。断定によって、「認識」を確固なものにする。これは「批評」というよりも「認識」の拡張である。「批評」は、他人とのぶつかりあいを誘い出すものだが、坂口のことばはそうした方向へは動かない。
 「認識」によってことばを統一する。強い力が「世界」を静かに整える。「不揃い」ということさえ、動くことをやめししまう。「ひかり」が射して影ができる。その模様が「不揃いになる」というのが実際に起きることだが、「不揃いな模様」が最初からあり、その「不揃い」のなかに「描く」という動詞まで引き込んでしまう。
 この「静謐」を破って、ことばが独自に動くというのはむずかしい。「認識」の「静謐」のなかで、ことばは整えられていく。
 「少年」と「ハモニカ」、「ブリキの如露」と「錆」。ここには「新しい組み合わせ」がない。だから、何が起きるのだろうという「不安」にかりたてられることはない。
 しかし、これはこれで、ひとつの「詩のスタイル」である。
 「鳥の伝説」の一連目。

鳥は
枝に来て
羽をたたむと
ふり向いて
おのれの飛跡をたしかめる

 ここに書かれた「鳥」を「私」と読み、「ことば」と読み替えてみる。「私のことば」の方がいいかなあ。
 「詩(私のことば)」は、書き終わると(完成すると)、ペンを置いて「ことば」を振り返る。そこに「私の軌跡(認識)」が見える。それを確かめる。その「軌跡」は「私の軌跡(認識)」であるが、またそこには「ことば(文学)としての認識(伝統)」も見える。そして、この「文学の伝統としてのことば」が、あらかじめの「認識」として働き、坂口に働きかけているということもわかる。その動き方に乱れはない。つまり完成されている。
 坂口は「他人」と交渉するかわりに、「文学」と交渉している。
 この「交渉」を坂口は「たしかめる」という動詞で語っている。「たしかめる」は「確固にする」でもある。

 「批評」のことばは「たしかめる」ことばではない。「批評」のことばは、「ある」ものを叩きこわしていくことばである。
 と、ここから細田の詩を振り返ってみたりする。






*


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樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

鈴と桔梗
クリエーター情報なし
書肆山田
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