詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「警察国家」

2020-10-15 15:54:15 | 自民党憲法改正草案を読む
「警察国家」

   自民党憲法改正草案を読む/番外406(情報の読み方)

 日本学術会議の新会員任命を巡って、突然(でもないのかもしれないが)、杉田という人物が浮上してきた。「元公安」の人物らしい。
 ここで思い出すことがひとつある。
 平成の天皇が「生前退位の意向」というニュースが2016年の参院選直後にNHKから放送された。NHKのスクープである。「情報源」はまだ明らかにされていない。私は、これを安倍の「リーク」だと思っているのだが、安倍は「宮内庁」側に情報源があるという見立てから、宮内庁長官の風岡を更迭し、内閣危機管理監だった西村を宮内庁次長に送り込んだ。「報復人事」だと言われた。私は、この「報復人事」というのは、一種の「やらせ」だと思っている。宮内庁というか、「天皇(一家)」の動きをより拘束するために仕組んだものと思っている。西村を宮内庁にいれるために仕組んだ「壮大な罠」だと思っている。
 杉田の浮上で、ふいに、それを思い出した。
 私が「天皇退位意向」情報が「宮内庁ではない」と確信している理由は、非常に細かいできごとにある。
 天皇の関係する行事に「園遊会」というのがある。毎年、園遊会の前に「招待者名簿」が発表される。この「招待者名簿」というのは宮内庁が発表し、各新聞社に事前に知らされる。「掲載日(解禁日)」は指定されている。ある新聞(の、ある県版)に、これが間違って指定の掲載日前に掲載されてしまった。こんなことは一般国民から見れば単なるミスである。間違いを発表したわけでもなく、たまたま発表がほかの新聞(テレビ)よりも早くなったというだけである。そのことで「招待者」が迷惑を受けたとか、天皇に何かが起きたということでもない。しかし、宮内庁は激怒し、その新聞社を「記者クラブ」から一時的に追放した。
 こんなに「情報管理」の厳しい宮内庁側から「天皇退位の意向」というニュースが「リーク」されるはずがない。
 それに天皇が「退位したい」という意向を持っているという情報は、だいたい、それ以前から新聞社などでは共有されていた。天皇は「退位」の意向を持っているが、安倍が選挙の都合があるので、天皇が「天皇誕生日の会見」などで発表することをおさえてきた。そういうことは、「事後」に読売新聞などに詳しく書かれている。
 つまり、宮内庁を取材している人、安倍の周辺を取材している人ならだれもが知っているが、それは発表をおさえられてきたのである。「これは、書いてはいけない」と宮内庁なり、安倍の方から「指示」があったはずなのである。
 それがなぜ「スクープ」という形で表面化したか。
 理由は2016年の参院選の自民の大勝にある。安倍は、いまなら「改憲」ができると踏んだのだ。そして、改憲を推し進めるためには、平成の天皇、護憲派といわれている天皇が邪魔だったのだ。口封じをしたかった。だから「生前退位意向」というニュースを流させたのだ。(当時のNHKは「政府の言うがまま」の籾井であった。)そして、実際に、退位に追い込んだのである。
 このスクープの「生前退位」ということばからも、これがこの情報が「宮内庁」から漏れたものではないということが推測できる。皇后は、その後の誕生日の会見で「生前退位」ということばは聞いたことがない、胸を痛めたと語った。(宮内庁で語られるとしたら「譲位」だろう。)すると、大あわててマスコミから「生前退位」ということばが消えた。「生前退位」という表現をつかっているかぎり、スクープの情報源が宮内庁ではないとわかるからだ。真っ先に「生前退位」という表現をやめたのは読売新聞であり、「退位」だけで意味が通じるから、という「ことわり」を掲載していた。新聞を読んでいる人間ならだれでもわかるが、新聞というのはなるべく「短く」表現する。「生前退位」という表現は最初につかえば、あとは「退位」だけで通じるのに、マスコミは皇后が批判するまで「生前退位」をつかいつづけた。それは、ある意味では、マスコミ主導のことばではなく、別の機関から「生前退位」ということばがリークされたという証拠でもある。
 この「生前退位」報道のあと、天皇はビデオメッセージで国民に語りかけている。そのなかで、天皇は「天皇に国政に関する権能はない」と2度言っている。一度言えば十分なのに、2度言っている。これは「言わせられている」と見る方が自然だろう。メッセージは、政府の「検閲」なしに放送されたのではない。放送前に、文言の調整がおこなわれている。天皇のことばは、政府の責任だからである。
 そういうことのあとで「報復人事」名目で西村が宮内庁に送りこまれたのだが、これは宮内庁から他の情報がリークされるのを防ぐというよりも、天皇をより厳しく監視するためということだろう。先にも書いたが、宮内庁は「園遊会の名簿」が指定日以前に公表されたことに怒り、その新聞社を記者クラブから締め出すくらいである。もし「生前退位」の報道が「特ダネ(どこも報道していないもの)」なら、そういう報道をしたNHKを記者クラブから締め出すと同時に、あらゆる取材を拒否しただろう。しかし、そういうことは起きていないのではないか。(私はNHKが宮内庁からどういう処分を受けたのかしらないのだが、きっと処分など受けていないと思う。もし、受けているなら、そのことは報道されただろう。「園遊会名簿」のフライング発表とはニュースの規模がちがう。)
 その後なのか、その前なのか、皇室に関心がない私にはよくわからないが、秋篠の長女の「婚約騒動」が起きている。相手の「素性」に問題がある。こんなことは、杉田あたりが(言い換えれば西村あたりが)ちょっと手配すれば事前にわかり、助言できることである。しかし、それは、たぶん知っていて助言しなかったのだ。わざと「騒動」を引き起し、こういうことがふたたび起きた内容にするためには「警察」が皇族の周辺もしっかり監視するという体制を確立するための「方便」に利用したのだ。私がかってに想像するのだが、皇族と接触のある人は以前よりも厳しく調査されていると思う。そして、そのことは皇室に「婉曲的」に影響していると思う。(あくまで、推測。何のニュースも報道されないからね。)
 あ、どんどん話がずれてしまうが。
 今回の「6人任命拒否」でわかったことは、杉田は6人の「学術的評価」をしたのではないということ。素行調査をしたかどうかはわからないが(きっとしているだろうが)、除外の「根拠」を政府の方針に従わない(政府の方針を批判したことがある)に置いたと考えられることである。(それ以外には考えられない。)
 で。
 なぜ、平成の天皇の「生前退位」が、2016年の参院選自民大勝の直後に「リーク」されたかである。くりかえすが、あのときのいちばんのポイントは天皇のビデオメッセージであり、そのビデオメッセージで天皇が「天皇には国政に関する権能がない」と2度言ったことなのだ。そんなことは言わなくても憲法に書いてある。言うにしろ、1回で十分なのに2回言った。これは「言わせられた」としか言いようがない。天皇は「天皇には国政に関する権能がない」ということを強調するために利用されたのである。
 政府が天皇を支配しているということを知らせるために利用された。そして、それは天皇でさえ政府の方針にしたがっている。批判せず、だまっている。天皇さえそうなのだから、国民は、もっと黙っていろ、政府にしたがっていろ、といいたいのである。
 したがわなかったら(批判したら)、どうする?
 警察の力で身辺を調査し、いつでも社会から抹殺するぞ、そう言っているのである。
 その「手始め」が「学者」だった。(あ、前に前川問題があったか。)「学者」はふつうの国民からは遠い存在。何をしているかわからない。その何をしているかわからない人が、学術会議の新会員に選ばれようが選ばれまいが、それがどう自分の生活に影響してくるのか、さっぱりわからない。「学問の自由」なんて、自分で好きなことを勉強するだけだから、べつに「新会員」に選ばれなくたってできるはず、と思ってしまう。(前川問題で言えば、文部省の次官も、普通の国民には何をしているかわからない。けれど、「風俗店通い」は普通の国民にもわかる。不謹慎。排除されてもぜんぜん問題がない、排除すべきだ、と普通は考えてしまう。)
 分かりにくいところ、見えにくいところから手をつける。(前川が実際に何をしていたかは、読売新聞の報道とはかけはなれていた。「善行」といえるものだったが、そんなことは実際に「善意」を受けたひとしかわからない。「善行」は見えにくい。だから見えやすい「風俗店通い」に焦点を絞る。)
 これは、ほら、そのまま「皇室」にあてはまるでしょ? 「皇室」で何が起きているのか、天皇や皇后が「自由」に活動しているのか、「不自由」な生活をしているのか、何に「自由」を感じ、何に「不自由」を感じているか、わからないでしょ? 天皇が何を考えている、もちろんわからない。だからこそ、「天皇、生前退位の意向」ということが「スクープ」にもなるのだ。なったのだ。
 西村がいま宮内庁長官のようだ。長官と次長では、どれくらい仕事内容がちがうのかしらないが、どこもかしこも「警察」よって監視されていることだけは確かだろう。
 (余談だが。
 私は安倍の改憲に反対する映画の上映会の準備をしていたとき、横断歩道を自転車に乗ったまま走行し、歩行者に危険を与えたということで、警察の摘発を受けた。歩行者のだれかが「危ない」と抗議してきたわけではない。みんな知らん顔をして歩いていた。そのとき、顔写真付きの身分証明書を持っていなかった(たまたま保険証を持っていたが写真月ではないので、盗んだものである可能性がある)との理由で、警察に「公的機関の発行した郵便物と顔写真入りの証明書」を持ってくるようにと呼び出され、のちに地検にも呼び出されたことがある。)

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糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(4)

2020-10-15 10:52:09 | 詩集


糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(4)(書肆山田、2020年09月30日発行)

 同じことを書いてしまうことになるが、もう少し糸井の詩について書いておく。77ページ。

腐敗、成熟、珠、観念の、抽象の、完成、と中断、ふたたび珠、希
求するもの、大なる白紙の、迂回、断念、不眠、と安堵、さらに墜
落、不意の歪みの、つめたい、そしていつもの捻れ、と訪れ、ずれ

 「ちがう」をそれぞれのことばの間にさしはさむことができる、とすでに書いた。ほかにも「ちがう」と同様につかわれることばがある。
 「ふたたび」「さらに」「そして」。
 これは「ちがう」のように明確に前に存在するものを否定するわけではない。
 それなのに、なぜ「ちがう」と「おなじ」なのか。
 ともに「ことば(論理)」を前に動かすからである。「ふたたび」は「もどる」ということを意味するが、「方向性」を無視すれば、ともにことばを動かすために存在する。ことばを動かすために「ふたたび」「さらに」「そして」を糸井はつかっている。副詞や接続詞は、糸井にとっては動詞に分類されない動詞であり、それは動詞以上に動詞であるとさえいえるだろう。
 そして、それがたどりつくのは「いつも」である。普遍。永遠。奇妙なことだが、どれだけ動いても、それは動いたことにならないのだ。だからこそ、ひたすら「動詞」になろうとする。
 「ずれ」を、いま、ここに出現させようとする。
 「ずれ」によって、存在がより明確になる。「ずれ」は何かをあいまいにするのではなく、むしろ「繊細な違い」を明確に意識させるための「方法(文体/コンテキスト)」なのだ。
 111 から112 ページ。「メモ 空腹でみじめにすうすうする寝床で」

野生のルッコラと無花果とカテージチーズのサラダ(塩はふらずに
ブラックペパーの粗挽きとオリーブオイルで。柿と春菊でも)

ツナのリエット(自家製。他のもろもろももちろん自家製)

野兎のマスタード焼き(トマト味にするかクリーム味にするか。裏
山に仕掛けた罠にかかるまで)

くたくたに煮た莢隠元(冷めたとき薄茶色になるまで煮込む。筋は
しっかり取ること)

タルトタタン(ホールで焼くなら小ぶりのリンゴ十個分)

バニラアイスに濃いエスプレッソをかけて

 「献立」である。最後の一行にだけ括弧入りの補足がない。私は、ここに、とても注目してしまった。ここには「ずれ」というと大げさだが、意識の「分裂」がないのだ。集中している。
 あ、そうか。
 糸井にも「絶対」というものがあるのだ。私は、この行に出会うまで、糸井に「絶対」というものがあるとすれば、「ずれ(ちがう、という主張)」、その「ずれ」をつくりだしていく動詞の動き(動詞になること)だと思って読んできた。そして、こういう運動では結局「虚無」が「永遠」になってしまうぞと考えたが、どこかで糸井は踏みとどまっている。それがどこか、ぱっと詩集を読んできただけではわからない。でも、そうした何かが「ある」はずだと、この一行から、私は感じた。
 それを探して提出するのが「批評(あるいは研究)」というものなのだろうけれど、私は「批評/研究」をめざしているわけではないので、そのままにしておく。気が向いたら、そのとき探してみるかもしれない。
 思うのは。
 「バニラアイスに濃いエスプレッソをかけて」というのが「日本発祥(?)のデザート」ではないということ。メインが日本料理ではないから当然なのだが、この「日本発祥ではない」ということは、糸井のことばにとっては重要なことなのだと思う。
 いままで比較してきた高貝にかこつけていうと、高貝はこういう「外国発祥」のもの、ことばをつかって高貝の肉体(つまり、思想/ことば)を動かしてはいない。糸井は、高貝のように、日本文学の古典に通じるようなことばの深みへ降りていこうとはしない。高貝も糸井も「繊細」なのだが、その「繊細」には絶対に相いれないものがある。

 だからね。(というのは補足だが。)
 ある詩集(詩)を「繊細」だとか「精緻」だとかというだけで「批評」にしてしまってはいけないのだ。「繊細だけれど、強靱さを感じる」「精緻だけれど、それを支えるしなやかな強さがある」というようなことは、実は、詩集や詩を読まずに書ける「ことば」なのだ。そして、そういうことばのいいかげんさをごまかすために、はやりの「西洋思想のことば」をくっつけるのも、やはり何も読まずにも書けることだろうと私は感じている。「論理」というのはいつでも「後出しじゃんけん」で逃げきることができる「嘘」だからである。
 と書いているこの私のことばも、もちろん「嘘」である。
 だから、私は「嘘」を叩き壊すために、明日はまた別のことを書く。




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「庶民目線」って、何?

2020-10-14 16:04:44 | 自民党憲法改正草案を読む
「庶民目線」って、何?

   自民党憲法改正草案を読む/番外405(情報の読み方)

 読売新聞が奇妙な連載を始めた。2020年10月14日の読売新聞(西部版・14版)は1面に「菅流政治 始動」というカットの記事がある。見出しは、

早期の実績作り優先

 とあるが、実際に何をやるのか。

 たたき上げの政治家である菅がこだわってきたのは、「庶民目線」だ。読売新聞の連載「人生案内」を愛読し、官房長官時代には、雑誌「プレジデント」で人生相談のコーナーを持った。菅が掲げる携帯電話料金引き下げなどは、庶民目線に立った政策だ。

 ここで強調されているのは「庶民目線」である。しかし「携帯電話料金引き下げ」は「政策」なのか。単なる電話会社への「圧力」だろう。もし政治にやることがあるとすれば、電話会社に値下げを迫ることではなく、「5G通信網の確立のための整備」というような基礎の部分だろう。電話会社にまかせるのではなく、設備投資は政府でやる、というようなことだろう。
 「庶民にわかりやすい」が「庶民目線」とは言えないだろう。
 「庶民」にわかりやすいだけなら「消費税の値下げ(あるいは廃止)」というものがあるが(一部の政党が主張しているが)、これはやってしまうと「国家財政」に影響してくるからやらない。電話料金の値下げは、電話会社の「収支」には影響するが「国家財政」には影響しない(電話会社からの法人税の収入が減るという問題があるかもしれないが)から、ひたすら電話会社に値下げを迫る、というだけのことだ。
 この「庶民目線」は、一面では「人生相談」という形で書かれている(読売新聞の宣伝を含む)が、1面の記事は4面「携帯料金下げへ速攻/政策推進信念と覚悟」という見出しの記事につづている。そして、その「信念」とは、記事にはこんな具合に具体的に書かれている。

 批判もいとわない姿は、昔から変わらない。同級生らは、菅を「信念を貫く力がある」と評する。
 故郷・秋田での中学生時代、菅は指導者から野球の打撃フォームの変更を助言されたが、「この方が打ちやすい」とかたくなに拒否したという。高校卒業後、工場勤務を経て2年遅れで入学した法政大では空手サークルに入った。サークルの同期は「アルバイトをしながら練習は一日も休まなかった。当時から芯が通っていて、今と一緒だった」と振り返る。

 いわば「ひとがら(?)」の紹介だが、ここに書かれている「信念(芯が通っている)」に何の意味があるのだろう。
 打撃フォームで言えば、イチローが独特だった。そして、イチローはそのフォームで実績を上げた。打撃ではないが、投球フォームでは野茂が独特だ。そして実績を上げた。菅は、たとえばそのフォームを貫くことで甲子園優勝に貢献したとか、ドラフトに指名されたとかということがあったか。実際に、そのフォームで実績がないなら、「信念」というようなものには値しない。他人の助言を聞き入れる能力も、自己変革の能力もなかっただけである。
 「アルバイトをしながら練習は一日も休まなかった」というのは、どんなアルバイトか、どんな練習かということと合わせてみていかないと、それがたいへんなことなのかどうかわからない。練習は休まなかったがバイトは休んだということがあるかもしれない。つまり、バイトをしないと学生生活が送れないということではなかったかもしれない。さらにバイトが、夜の9時から12時までの駐車場料金所の係員というようなものならば、練習と時間が重なるというとはないだろうから、こなせるだろう。「芯が通って」いたという「証明」にはならないだろう。
 問題は。
 菅にはこんなエピソードしか「庶民視点」につながるものを持っていないということと、読売新聞はこうしたエピソードを書けば「信念を持った庶民(芯のある庶民)」像として読者を説得できると考えること。
 私は、あきれてしまった。
 「苦学」の証拠のようにして言われる「工場勤務を経て2年遅れで法政大学に入学した」ということも書かれているが、すでに合格していたが学費がないので2年間は学費を貯めるために工場で働き、その間休学した、ということなのか。合格できなかったので、受験勉強をしながら工場で働いたということなのか。工場で働いていたときは、受験勉強をしなかったのか、勉強しながら工場でフルタイムで働いたのか。よくわからないが、工場で2年働くと、その後4年間の学資は貯蓄できるのだろうか。工場で働いているときでも、「生活費」はいる。大学生のときも、学資(授業料)以外に「生活費」は必要だ。4年分の「生活費」を2年間で貯める(大学生のときもバイトをしたというが)ということは可能なのか。高校卒業して間もないとき、「給料」はいくらなのか。
 私は自分の家が貧乏だったせいか、こういう話は、にわかには信じられない。私もバイトはしたが、父は老いていたが日雇い労働で金を稼ぎ仕送りをしてくれた。仕送りのためには、毎日、働くしかなかった。我が家には貯金などなかった。そういうことを知っているから、どうしても具体的に考えてしまう。菅の工場で働いていたときの給料はいくら? そこから月々いくら貯金した? 2年間でいくら貯まった? そういう「証拠」というか「証言」がないと、ほんとうに菅が何をしてきたのかがわからない。
 だれの「証言」かわからないけれど、打撃フォームを変えなかったとか、バイトと空手の練習(部活動)を両立させたとかという話しだけでは「庶民」とも、「信念がある」とも思わない。

 それにさあ。
 もし、菅が「信念の人」「芯がある人」ならば、ひとつの学問に精通している人こそ「信念の人」「芯のある人」だと認識し、尊重すべきではないのかなあ。「信念の人」は「信念の人」を自然と尊重するものだと思う。「この人の信念は私の考えていることとに反するから、排除する」というのは、実際に、信念と信念がぶつかりあい、討論の果てに、どうすることもできなくなっておきることだろう。なんにもないうちから「目障りになりそう」というので「排除」するのは、「信念」というよりも「自分を応援してくれる仲良し優先」の考え方だね。





*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

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「安倍(の犯罪)隠し」がまだつづいている。

2020-10-14 14:29:29 | 自民党憲法改正草案を読む
「学術会議」問題。
あまりに情報が、ごちゃごちゃしている。
私なりに整理してみると。
①学術会議が「候補者名簿」を提出したときは、菅はまだ官房長官。安倍が首相。
②安倍が、「候補者名簿」のなかに気に入らない学者がいることに気づき(側近が、かもしれないが)、排除を画策。
③杉田が6人排除を安倍に報告。菅「官房長官」はこれを知っている。
④6人排除後の名簿が菅「首相」に提出され、菅は印鑑を押した。
⑤赤旗が「6人任命せず」を特報。
⑥なぜ任命されないのか、と質問されたとき、菅は、「官房長官」時代のように、「総合的、俯瞰的観点から判断した」とテキトウなことを言った。自分が判断したわけではなく、安倍-杉田が決定したこと、他人がやったことなので、「官房長官」時代の記者会見の「癖」がそのまま出てしまった。まさか、自分の責任が問われるとは思わなかった。
⑦そのため、「発言」が右往左往する。
⑧加藤も、状況が正確に把握できないのでテキトウなことを言ってしまう。(菅が基準みたいなものを示し、それが共有された、という発言は、責任は菅にあると言うようなもの。)
菅の「決裁日」ではなく、学術会議が「候補者名簿」を提出した日にまで遡って、事実を点検しなおす必要がある。
一度記者会見で、「安倍の指示か」という質問が出ていたが、たぶん、そこが「核心」。
安倍とか、麻生とか、二階とか、みんな「沈黙」を守っていることが、その「証拠」になるかもしれない。
なんといえばいいのか。
「安倍隠し」は、いまもつづいている、と見るべきなのだろう。
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糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(3)

2020-10-14 10:19:39 | 詩集



糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(3)(書肆山田、2020年09月30日発行)

 45ページに、突然、こんな文字が並ぶ。

そのとききみは夢の水を払いのけて、

       フリオ・コルターサル『石蹴けり遊び』土岐恒二訳

 これは糸井のことばではない。引用と注釈である。
 75ページに類似のことが起きる。

私たちが稲妻に住まうとしたら、それこそは永遠の核心
                       
                       ルネ・シャール

 ことばは、「署名」があってもなくても、ことばである。「署名」がなくても、それはだれかのことばかもしれない。
 高貝は、「署名」を「日本語の肉体(古典)」に返している。糸井は外国語経由でも存在する「文体」にことばを返している、ということかもしれない。別なことばで言い直すと、高貝はかすかな「ちがい」に密着することで、「おなじ」を遠いところから呼び戻すようにしてことばを動かす。糸井は「ちがう」を意識しながら、その「ちがい」のなかに存在する「おなじ」を追い求める。糸井が「ちがう」ということばを多く用いるのは、そのためである。
 43ページの作品。

しろのふ、と書いて、シロノフという国を想い、雪の荒野に果てし
なく続く線路と白樺の林を想像するが、シロノフは人の、男の人の
名であるかもしれない。しろのふ、と書いて今、眠れないこの夜に
綴る白の譜を始めようとする。雪、紙、羽、花、雲、息、石、骨。
それぞれの固さと柔らかさが、夜の意識のただなかを浮遊しながら
落下し、それぞれの位置をきめようとすると、白と白の放つ強烈な
光りに私の譜はばらばらにほどける。シロノフの雪原を白い息を吐
いて行く人がいる。

 ここには書かれていない「ちがう」がある。簡単に言い直せば、たとえば、「雪、紙、羽、花、雲、息、石、骨。」は「雪、ちがう、紙、ちがう、羽、ちがう、花、ちがう、雲、ちがう、息、ちがう、石、ちがう、骨。」なのである。そこに「共通するもの(おなじ)」があるとすれば、それは「白」というよりも「ちがう」という意識。「ちがう」とどれだけ否定しても「おなじ」何かを呼び寄せてしまう意識というものである。
 それは、いったい、だれの「意識」か。だれの「肉体」か。つまり、だれが発したことば、だれの息を通り、声になったことばなのか。
 これは特定することはできない。
 いま、糸井がそのことばを発すれば、その瞬間「署名」は上書き更新されてしまう。詩は、そういうことを受け入れることばなのである。必要な人がいれば、その人のためにあることば。
 フリオ・コルターサルもルネ・シャールも、糸井の「文体」をとおって動くならば、糸井のことばである。
 引用した詩では、「しろのふ」は「シロノフ」という男になり、最後は「シロノフの雪原を白い息を吐いて行く人」になる。そのとき、その人(男)には「署名」すべき名前がない。もちろん、この断定は「ちがう」。否定するための「署名」を最後に登場する「人」はもっている。それはけっして書かれることはないことによって、「永遠」になる。
 46ページ。

不穏な睡蓮の池をまえに、みずたまり、と言うと、泥のような、と
応え、地下茎はのびにのびて私たちの足元を掬う。水面に倒立する
まぼろしの像。反転して水に映るその淫らな内部。誰と回遊したか
忘れた池の、遠い夏の日。      

 43ページでは「書く」という行為が「ちがう」を呼び覚ましていた。ここでは「言う」という動詞が「ちがう」を呼び覚ます。「書く」も「言う」もテーマは「ことば」である。むしろ、ことばが「主語」であると言った方がいいだろう。「私(糸井)」が書く、言うのではなく、「ことば」そのものが「書き」「言う」のである。何を「書き」、何を「言う」か。
 「ちがう」
 そのひとことを「書き」「言う」のである。その「ちがう」という運動は糸井の「肉体/思想」になってしまっている。だから、しばしはそれは無意識に省略されてしまう。書かれていない「ちがう」の方が、書かれている「ちがう」よりも、もっと強いのだ。
 この作品では「ちがう」は「応える」という動詞になって動き、それは「足元を掬う」。つまり、「私」を不安定にさせ、そこから「倒立する/反転する」という動きがはじまる。そして、それは「のびる」という運動、回遊するという運動であり、そのすべては「映る」ということもできる。
 「雪、紙、羽、花、雲、息、石、骨。」は「ちがう」ということばではなく、43ページの動詞をつかって「雪は紙と言い、紙は羽と応え、羽は花へのび……」という具合に。それは固定されない。それは「もの」というよりも「像」そのものとして軽やかに動くのである。
 その「像」は「誰」と回遊したか、「誰」が同伴者であったか。特定は「意味」がない。「誰」という「署名」も瞬間瞬間に「ちがう」と否定され、「無名」とし上書き更新される。








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頭がくらくらしてきた。

2020-10-13 21:25:40 | 自民党憲法改正草案を読む
毎日新聞には、こんな記事。

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%89%8d%e5%b7%9d%e5%85%83%e6%96%87%e7%a7%91%e6%ac%a1%e5%ae%98-%e6%9d%89%e7%94%b0%e5%89%af%e9%95%b7%e5%ae%98%e3%81%8c%e4%b8%80%e6%ac%a1%e7%9a%84%e3%81%ab%e5%88%a4%e6%96%ad-%e3%81%a8%e6%8e%a8%e6%b8%ac-%e5%ad%a6%e8%a1%93%e4%bc%9a%e8%ad%b0%e4%bc%9a%e5%93%a1%e4%bb%bb%e5%91%bd%e8%a6%8b%e9%80%81%e3%82%8a%e3%81%a7%e9%87%8e%e5%85%9a%e4%bc%9a%e5%90%88%e5%87%ba%e5%b8%ad/ar-BB19Y0dZ?ocid=LENOVODHP17&fbclid=IwAR2kC0MXkAlKksLsrA_Eh6Jf_D6O_e-u73oyAm-6lH4IZ2KQa7go9Q-8Eq0

「杉田氏の一存で決めるはずがない」とも強調。「学術会議が推薦する新会員候補105人の名簿を受け取った杉田氏が、警察か内閣情報調査室に身辺調査を指示し、政府批判の言動が判明した6人の任命拒否を一次的に判断。その報告を受けた官房長官が了解を得た。当時は自民党総裁選前で、長官は菅氏ではないかと想像する」-という見立てを披露した。
↑↑↑↑
首相になる前から、知っていた。
きっと、このことが明確になると、菅は「私はそのときは首相ではない。この案件は、『菅首相案件』ではない。首相の私の責任(問題)ではない」という詭弁へ逃げ込むのかなあ。
「菅」という人物は共通するが「官房長官」「首相」と肩書がちがうから、「官房長官」のときのことは「首相」の責任ではない、「菅官房長官は熟知しているかもしれないが、菅首相はぜんぜん知らない」と。

頭がくらくらするぞ。
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もう、むちゃくちゃ。

2020-10-13 16:30:58 | 自民党憲法改正草案を読む
「日本学術会議新会員」の「6人任命拒否」問題の「続報」がネットに次々に報道されている。
「出典」を明記すべきなのかもしれないが、ちょっとややこしい。あまりに多くて、書き切れない。
フェイスブックに書いたことを転写しておく。(フェイスブックの「タイムライン」の書き込みは、すぐに行方不明になる。)

東京新聞
https://www.tokyo-np.co.jp/article/61394?fbclid=IwAR2glIqTXE9ZuZweMN3GsjxFyxZyeBBzju1K37wTzocdgoiINB2xo4nP4bo
「杉田和博官房副長官が内閣府の提案に基づき、任命できない人が複数いると、菅義偉首相に口頭で報告していた」
↑↑↑↑
この「内閣府の提案」というのは、いったいどういう意味だろう。
「内閣府」は人間ではない。「内閣府」が提案できるわけがない。誰かが提案している。
先日見た「シカゴ7裁判」という映画では、主人公が「所有形(たとえば、われわれが、our)」をつかってしまうことが問題になっていたが、日本語は、こういうあいまいな言い方でことをすませてしまうことが多い。
こういう表現を許してはならない。
ジャーナリズムは「ことば」を生きているのだから、ことばの問題をもっと追及すべきだ。
杉田がこう言っているから、それをそのまま伝えるでは、テープレコーダー(もう、言わないか・・・・)、あるいは広報にすぎない。
しっかりしろよ。

情報速報ドットコム
https://johosokuhou.com/2020/10/13/38269/?fbclid=IwAR2tCB1pGoEgad0PxMLUNe2p4DwFvXU_t20IYJNVL_M_2n8RH6Fl408O6Ck
杉田副長官も元公安トップであり、そのような人が学者を選別したという事実に批判の声が強まっているところです。
↑↑↑↑
こういう表現は、まだるっこしい。
「批判の声が強まっている」ではなくて、ジャーナリストとしてこの問題をどうとらえていくか、それをきちんと書かないいけない。
上のような書き方では「批判の声は高まっている」が情報速報ドットコムはそうは思わない、と主張しているとも受け取ることができる。
いま問われているのは、「学問の自由」に対して、あらゆる言論がどのような態度をとるか、である。
「学問の自由」が侵害されれば、「言論の自由」も「思想の自由」も侵害される。
それも「公安トップ」(杉田は「元」であると主張するだろうが)が関与している。
戦前の思想統制がはじまっている。
そしてそれは「2012年の自民党改憲草案」の先取りといえる。
学者が国の政策に反対意見を言うのは「緊急事態」にあたると定義して、学者を逮捕するということが起きるのだ。
しかもその全てが「法解釈を見直した/変更した」というだけの説明でおこなわれるのだ。

朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASNBF0F3XNBDUTFK011.html?fbclid=IwAR3UKIbr--wEdeF4_UTPYx03OvSU541NLWZ2cRX1tz7owFcrt0_5oB7cV8Q
杉田和博官房副長官が事前に首相に対し、「任命できない候補者がいる」という趣旨の報告を行った。
↑↑↑↑↑
そうだとすると、管は、杉田の判断に基づいて99人を任命したことになる。「任命できない候補者」を管が選んだわけではない。
管が選んだとしても問題があるが(最初の批判は、そういうものだった)、管が選んだのではないとしたら、それはもう「内閣総理大臣が任命」ではない。
「日本学術会議法」は、こう規定している
第七条 日本学術会議は、二百十人の日本学術会議会員(以下「会員」という。)をもつて、これを組織する。
2 会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。
完全に「違法行為」にあたる。
弁解(?)すればするほど、「墓穴」が大きくなる。
はたして「杉田が独断でやった」と杉田の更迭だけで処理できるかどうか。
杉田を官房副長官に任命した責任も問われるだろう。

NHKのサイト
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201013/k10012660911000.html?fbclid=IwAR2tCB1pGoEgad0PxMLUNe2p4DwFvXU_t20IYJNVL_M_2n8RH6Fl408O6Ck
加藤官房長官は、日本学術会議の会員の任命について、「菅総理大臣に、任命にあたっての考え方の説明があって、共有され、それにのっとって作業が行われて、起案された。最終的に菅総理大臣が決裁したというプロセスだ」と述べました。
↑↑↑↑
そうであるなら、管が「任命にあたって、どういう考え方を説明したのか」ということをいうべきである。
もし管が「考え方を説明した」のなら、それは「選別をした」ということと変わりがない。「選別基準」は管がつくったのである。杉田が独断でやったのではないということになる。
「105人の名簿」は見ていなくても、「105人」から何人かを除外しろという指示を出したことになる。
「見ていないから知らない」という安倍流の「ぼくちゃん、何も知らない。ほくちゃん、何もしていない」は通用しない。
森友学園問題では、安倍は「ぼくちゃんが指示をしたという証拠は、どこにもない。だれもぼくちゃんから指示を受けたとは証言していない」と逃げた。
しかし、今回は、加藤が「菅総理大臣に、任命にあたっての考え方の説明があって、共有され」と、証言している。
記者会見に出席している記者は、菅の説明がどのようなものだったか、その説明を「共有」するために、どういうことがおこなわれたのか、そのことを聞くべきである。
「そのときの菅の考え方というのは、どういうものですか? 考え方を説明したというが、その記録(文書)はあるか」
こういうことを聞かないといけない。
どの記事を読んでも、非常にまだるっこしい。
記者は、記者会見の現場に居合わせ、質問できるという「特権」をもっている。
言われたことをそのまま「はい、わかりました」と受け止めるのではなく、ちゃんと質問しろ。



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尾久守侑『悪意Q47』

2020-10-13 09:51:18 | 詩集


尾久守侑『悪意Q47』(思潮社、2020年09月01日発行)

 尾久守侑『悪意Q47』のQ。私はどうしても魯迅の「阿Q正伝」を思い出してしまう。尾久守侑が魯迅やカミュを意識しているかどうかはわからないが、私は「内容」というよりも「文体」に魯迅やカミュの影響のようなものを感じる。ことばが短く、平易で、しかもリズムがある。「悪意Q47」について書くべきなのかもしれないが、ちょっと目の調子がよくないので手抜きして(?)「反故」。(尾久さん、ごめんなさいね。)

 市大の学生さんが遊びに来るというので、昼過ぎから予定を空けて待っていた。
午を食べたあと暫く眠って、はっと丸窓から外を覗くと日がもう沈みかけていた。
寝過ごすことは滅多にないので、無闇に立ったり座ったりして落ち着かない。妻
をよぶと、皆帰ったという。私がいなくて随分残念がったろうねと云うと、なに
をおっしゃるんですか、あなた散々話をして、それで厭になってみんな帰ったん
ですわなどと云う。

 なにが書いてあるというわけでもないが(というと尾久は起こるかもしれないが)、なにがという「内容」よりも、私は文章のリズムに惹かれて読んでいる。こういうことは最近は非常に少ない。そして「内容」を読むのではないと書いたことと矛盾するかもしれないが、ここに書かれていることは「正確」だと感じる。「正確さ」に対して信頼が生まれる。それは、たとえば句読点の正確さが、そう感じさせるのである。
 「内容」ではなく「文体」を信頼してしまう。
 これは危険なことかもしれない。しかし一方で、「内容」を信頼し、鵜呑みにするよりもいいかなあ、とも思う。「内容」はうさんくさいが、ことばを動かすリズム(文体)は借りることができないものである。そこには「肉体」がある。だから、信じていいと、私は思っている。
 そして、何の根拠もなく言うのだが、この尾久の「文体」は日本語だけを読んできたひとのものではないと思う。日本では、私たちは一般に「第一外国語」として英語に触れるが、英語を読んできた人のリズム、日本語のニュアンスを一度洗い流している感じがする。「明晰さ」への意思のようなものを感じる。「こう書けば通じるだろう」という漠然とした意識ではなく、この部分はこう書かなければ明晰にならないという意識、他者には伝わらないという意識を感じる。
 詩集の帯に、建畠晢が「この詩人の感覚のレンズは不可思議な屈折率をもつ。そこを通過する言葉の光線は蠱惑的な分岐を余儀なくされるのだ。」と書いている。具体的にどの作品のどの部分に建畠が「蠱惑的な分岐」を感じたのかわからないが、私はそういうものを感じない。どこまでも「明哲」と感じる。「明哲」に徹することが、他者と言葉を共有する方法である、と尾久は感じているのではないか。
 あ、これでは、どこまで書いても詩集の感想にはならないかもしれない。
 私は、尾久の文体が好きである。とても読みやすい、と書くだけでおしまいにすればよかったのかもしれない。
 でも、何か書きたい。
 「アド・バルーン」を読む。

夏目坂を半分も下ると空は茜色に染まって、わっとはしゃぎながら記憶が駆けて
いった。笑いながら母親たちが後から坂を降りてゆくのはありふれているが、大
概はそこで意味を見失ってしまう。

 書き出しの文章は、新感覚派(川端康成とか横光利一とか)の文章を思い起こさせる。坂を下ると空が茜色に染まるわけではなく、たまたま夕暮れの時間に坂を下っているということなのだが、それを関係があるかのように「翻訳調」の文体に仕立て上げる。「記憶」とは「遠い記憶=こども時代のこと」である。こどもが駆け下りていくのを見ながら、昔はこんなふうに私も駆け下りていった、と母親たちが思い出し、語りながら坂を下りている。それだけのことである。そこに「意味」などない。「意味を見失ってしまう」というのは、ただそれだけのことである。
 それだけのことであるけれど。
 「意味を失ってしまう」ではなく「意味を見失ってしまう」と尾久は書いている。なぜ「見失ってしまう」ということばを選んでいるか。それは、母親たちが「記憶(こども)が駆け下りていく(自分たちを追い抜いて行ってしまう)」のを見ているからである。
 「見失ってしまう」の「見」には「肉体」が刻印されている。意識が「肉体」の確かさで存在している。この「肉体」のあらわしかたが、非常に効果的なのだ。「文体」のなかへ読者(私のことだが)の「肉体」を誘い込み、「肉体」を事件のなかへ参加させる。
 私はカミュの多くを知らないし、魯迅も多くを知っているわけではないが、そして具体的にどの文章といま言えるわけではないが、魯迅の文章を読んでいて感じるのも同じものである。魯迅がそこにいる。その「現場」に私の「肉体」が誘い出されていく。「肉体」として、ことばを体験する。魯迅のことばによって、私の「肉体」のあり方が鍛えなおされる感じ。
 「反故」にもどって言えば、

寝過ごすことは滅多にないので、無闇に立ったり座ったりして落ち着かない。

 この「無闇に立ったり座ったりして」を、私は自分の「肉体の記憶」で体験する。私の「肉体」はそういうことをしたことがある、と覚えている。
 こういう感覚を呼び覚ます、こういう感覚の「現場」へ私を誘い込み、もう一度体験させる。そういうことができる文体を尾久はもっている。
 再び「アド・バルーン」。こんな行もある。

わあわあと騒いでいる記憶らは、一瞬の隙に茜空から降りてきた怪人に連れ去ら
れてしまう。いまどき珍しいアドバルーンだなあと、懐古趣味の大人を油断させ
て、その実はなにも宣伝などしていないのだ。

 こどもたちは、記憶のこどもたちそのもののように、ふと見つけたアドバルーンに夢中になって騒いでいる。そういうことを「怪人に連れ去られる」と比喩にしている。ここには、ほら、こどものころの「肉体」、「怪人に連れ去られてみたい」という欲望のようなものがそのまま表現されているでしょ? それは「夢」なのだけれど、夢というには生々しすぎる「肉体感覚」。
 こういうものを、正確に表現できる「文体」が、私は好きだ。
 「片足」の書き出し。

 季節、いつだっけ。ふとわからなくなる。誰かが一人だけいなくなってしまう
ことについてかんがえていて、僕らは生協で買ったパンをかじりながら図書館の
まえのオブジェに腰掛けている。たすけること、たすけられなかったこと。

 「たすけること、たすけられなかったこと。」は医者の仕事を指して言っているようだが、医者ではなくても、「たすけること、たすけられなかったこと」を「比喩」として体験したことは、多くのひとにあると思う。「誰かが一人だけいなくなってしまう」。それは「わけがわからない」。「いつ」だったか、「季節」さえはっきりしない。ただ「いなくなった」ということだけを思い出している。「いなくなった」とわかったときの、不思議な感じ。そのとき、「肉体」は非情にも「パンをかじ」ったりしているのだ。情を裏切り、存在してしまう「自然」としての「肉体」というものがある。それは情を裏切り、存在をやめてしまう「肉体」もまた「自然」であることを教えてくれる。
 尾久の「文体」の厳しさと明晰さは、こういうところからも来ているのかもしれない。








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破棄された詩のための注釈24

2020-10-12 15:57:32 | 破棄された詩のための注釈
破棄された詩のための注釈24
                        谷内修三2020年10月12日

 未来はすでにできあがっていて、その動かしがたさが、現在を無力にしている。できるのは過去を思い出すことだけだった。

 通り抜けた秘密は、踏みつけたガラスのように割れたまま、壁の絵や窓から見える半壊の雲を映していた。テーブルの上の小さな写真を、空っぽの引き出しの奥に隠した。

 「私はここにいないと言うために、私はここにいる」と忘れていた音楽が歌い始めた。女の、古くて、新しい、擦れた声が。

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高貝弘也『紙背の子』(3)

2020-10-12 10:14:37 | 詩集


高貝弘也『紙背の子』(3)(思潮社、2020年09月20日発行)

 高貝弘也『紙背の子』には空白のページがある。「紙背の子」という作品が始まる前は必ず空白の2ページ(見開き)があり、終わりにも空白の2ページがある。長い作品では、見開き2ページの本文があり、空白の見開きを挟んで後半が展開する。
 「空白の見開き」に、高貝は何らかの「意味」を持たせている、ということがわかる。
 でも、私にはそれ以上わからない。
 「眼光紙背に徹す」ということばを私は辛うじて思い出すが、それを手がかりにすれば、「眼光」で読んだもの(読み取ったもの)を高貝は差し出している、ということになるかもしれないが、「眼光」で読み取ったものは読み取った人間にしか見えないだろうから、私はそういうものには触れない。
 その「紙背の子」というタイトルの作品。(ちょうど、本のなかほどの作品)

性のない 穴


雄になりそびれた雌か、
行き場のない縁
性と性の間で

汽水魚がいく
(泣きながら 境を)

 「性のない」は「雄になりそびれた雌か、」と言い直される。この言い直しには「雌になりそびれた雄か、」が隠されている。それだけではなく、高貝が男であるということも隠されている。自己の性の認識が「雄」ということばを最初に発せさせている。
 もちろんこういう読み方は「誤読」以外の何ものでもないのだが、私は「誤読」をする。「意味」を輻輳させる。
 さらに「性のない」は「性と性の間」と言い直されている。「雄」と「雌」の「間」ということである。この「間」はまた何もない「穴」の言い直しでもある。
 「間」とは何もないものである。「間」というものはあるにはあるだろうが、その「間」に存在するということは、なかなか難しい。「性」を「雄」「雌」ということばで言い直し、雄と雌の間に「わたし」というものを置くとき、「雄とわたしの間」「雌とわたしの間」という別の「新しい間」が同時に出現してしまう。存在しなかったものが「わたし」によって生み出されてしまう。最初にあった「間」は消えてしまう。さらに、そのときの「わたし」の存在、「新しい間」というものは中間と均等を作り出しているかどうか、よくわからない。
 この詩では、「中間」はあるようで、ない。「間」のかわりに「縁」が選ばれ、「縁」は「境」と言い直されることで「間」は便宜上のことばであって、そんなものは存在しない。両者は接している。そして、接していることによってどちらのものとも言えない。共有されてしまう何かなのだ。これは具体例として「汽水」と言い直される。海の水と川の水が入り交じる。
 そんなところに「縁」もなければ「境」もないし、「間」もない。それは「ある」と想定する意識としてあらわれながら消えていくものである。
 あらわれながら消え、消えながらあらわれるもの。
 これを「紙背」にあると言い直せば「眼光紙背に徹す」ことによって、見たもの(つかみ取った真実)ということになるかもしれないが。
 このあと、詩は、こう展開する。

ねむりにつくとき
あなたは(わたしは)、さみしいおむすびを結んで

 「ねむりにつく」は「泣きながら」を含んでいるだろう。ことばは、必ずしもその直前直後のことばと結びつくだけではなく、離れたことばと呼び掛け合う。
 「あなたは」と書いて、すぐに「わたしは」と書くのは、「隠れているわたし」が「あなた」そのものだからだろう。「あなた」としかことばにしなかったら、「間」も「縁」も「境」もなくなる。
 「ある」と「ない」を結びつけているのが「あなた」を意識する「わたし」、「あなた」を前面に出し続けながら隠れ続ける「わたし」。
 そうであるなら。
 この詩に表出された「あなた」としての「ことば」の背後に隠れている「わたし」としての「ことば」はなにか。「眼光紙背に徹す」というときの「紙背に徹す」る前のというか、「眼光」に読み抜かれる前の「テキスト」は何か。
 私は、「眠りにつくとき」を「泣きながら」につづける形で読んだ。「泣きながら眠りにつく」ということばの動きを知っているからである。こういう「構文(あるいは慣用句)」のようなものが、世界には存在するのだ。それは「完成されたことば(一篇の作品)」というよりも、複数の作品を貫いて存在してしまう「ことばの肉体」のようなものだ。
 「泣きながら眠りにつく」は「さみしい」へと動いていく。こういう「無意識」になってしまったことばの動きというものこそ「わたし(の肉体)」であり、「ことばの肉体」なのだ。それを動かしているものに誘われながら、同時に誘ってくれているものを励ます。そうやって動く高貝のことば。
 「雄になりそびれた雌か、」は「古典になりそびれたいまの言語(高貝のことば)か、」「いまの言語(高貝のことば)になりそびれた古典か、」と言い直せば、高貝が「間」「縁」「境」と考えているものがなんとなくわかる感じがするかもしれない。高貝のことばは、どこか遠くにある「日本語の文体」そのものに触れながら動いている。

土の湿っためぐり
底とそことが、繋がっている

裏のないうらで、
あなたは(わたしは)


風合いと質感
えもいわれぬ 色と香り
鮮やかさ
(灰色の響き)

さわりで、

 そして、こういうときの「日本語の文体」というのは「意味」だけではない。音の響きそのものも影響している。音が意味をこえて響きあうときもあるだろう。
 「土の湿っためぐり」は土が湿っている場と周辺という意味だろうけれど、「しめった」と「めぐり」が共有する「め」が「縁」となり「境」となり「間」となって結ばれる。「裏なのないうらで」という非論理も、「のな」という暗さを含んだなめらかな音を茶飯で、弱音の「う」と強く開放的な「ら」がくりかえされるとき、私には「肉感的」に音が響いてくる。さらに「あなた」の「あな」と結びつき、「あなうら」という、書かれていないことばが私に近づいてくる。(私は「誤読」する。)「あなうら」は「足裏」なのに、「性のない あな」を呼び覚ます。「性のない 裏、そうのら」。
 「えもいわれぬ」という音に繋がる何かがある。
 放り出されるように置かれた「さわりで、」ということばが指し示す「さみしさ」は、また、「性のない」の「性」そのもへと引き返していく感じがする。












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アーロン・ソーキン監督「シカゴ7裁判」(★★★)

2020-10-11 18:02:41 | 映画
アーロン・ソーキン監督「シカゴ7裁判」(★★★)

監督 アーロン・ソーキン 出演 エディ・レッドメイン、マイケル・キートン(2020年10月11日、キノシネマ天神、スクリーン2)

 「裁判映画」だから、やっぱりことばが主役。
 そして、この「ことば」のあつかいが、この映画ではとてもおもしろい。映画のなかでも「コンテキスト」ということばが出てきたが、ことばの意味は文脈によって違ってくる。何を言ったかと同時に、どういう状況で言ったか。
 エディ・レッドメインは学生の運動家である。非常に弁が立つ。しかし、そのことばは「あいまいさ」を含んでいる。「我々の」という「所有形」を多用する。彼がだれかと一緒にいるとき、つい「我々の」ということばをつかう。一緒にいても「我々」ではないことがある。
 具体的に言えば、この映画で描かれている七人は、1968年、シカゴで開かれた民主党全国大会の会場近くに集まった七人である。ただし、その七人は、それぞれ所属している団体がちがう。立場がちがう。たまたまデモを先導したという理由で「ひとまとめ」に逮捕され、ひとまとめに起訴されている。そのなかには、どうしても相性の悪い人間がいる。エディ・レッドメインはヒッピーが嫌いだし、ヒッピーはエディ・レッドメインを嫌っている。「我々」なんかではないのだ。たとえ「我々」というときがあったとしても、それぞれが自分の「コンテキスト」を生きている。しかも、自分の「コンテキスト」を守ろうとしている。
 七人のなかにひとり「ボーイスカウト」の世話係(?)のような「暴力否定主義」のおじさんがいて、こどもに「どんなことがあっても暴力はダメ」と言っているのだが、法廷で思わず法廷の官吏を殴ったりもする。自分で自分の「コンテキスト」を逸脱してしまう。七人以外にアフロ系の男も起訴されていて、彼は彼で「コンテキスト」の格差に怒りをぶちまける。
 あ、ずれてしまった。
 ことばの「コンテキスト」にもどしていうと、エディ・レッドメインのことば「友人が警官の暴行を受けて負傷した。血を流した。彼の血は我々の血だ。我々の血がでシカゴの街で埋めよう(これは正確なことばではない、私がテキトウに書いている)」というようなことを言ってしまう。これが「暴動を煽った」と認定され、七人は有罪になる。
 このエディ・レッドメインことばは、「11人の怒れる男たち」で、長引く会議、対立する意見にいらだち、陪審員のひとりが「殺してやる」と叫ぶのに似ている。ほんとうに血を流せ、街を血でみたせ、ほんとうに殺してやる(殺意をもっている)というのではなく、おさえられない怒りが「血を流す/殺す」という「比喩」を呼び寄せている。しかし、「コンテキスト」を無視すれば、これは「脅迫」になるし、「殺人の予告」(意思表示)にもなる。
 逆の「コンテキスト」も示されている。公園で集会を開きたいと言ってきたヒッピーに対して市役所の担当者がダメだという。「ダメといわれても集まる」「どうすれば解散するか」「10万ドルくれれば集まらない」。この「10万円よこせ」は状況次第では「恐喝」になる。しかし、担当者は「恐喝」とは感じていない。犯罪性を感じていない。
 というぐあい。
 そして、これは、また「ことば」が語られない「コンテキスト」をも浮かびあがらせる。この裁判自体が、政府の、ベトナム戦争に反対する学生、ヒッピーは国策の邪魔だという「コンテキスト」によって引き起こされている。暴動があったから七人を逮捕するというのではなく、七人を逮捕することでベトナム戦争反対という運動を抑えつけるという「コンテキスト」を完成させようとしている。法廷では語られないことばが、じつは裁判そのものの「コンテキスト」になっている。
 あ、ずれているのではなく、私の書いていることは徐々に「本筋」にもどっているのか。
 これが、最後の最後で、じつに感動的な「コンテキスト」を破壊することばを噴出させる。政府の意図を叩き壊す。
 最終陳述を認められたエディ・レッドメインが、裁判が始まった日から判決の日までに死んだ兵士を名前、5000人近くの名前を読み上げる。ベトナム戦争で死んだ兵士の名前。その人たちへの追悼を、自己主張にかえる。法廷が拍手でつつまれる。
 七人がやったこと。それはベトナム戦争への抗議、ベトナム戦争を拡大する政府への抗議だったのだ。アメリカ人が理不尽な根拠でベトナムに派兵され、多くの兵士が死んでいる。ベトナム人も死んでいる。この政権を許すことができない。
 「コンテキスト」と「コンテキスト」の戦い。そのなかで、ことばはどんなふうに動くか。ことばをどう動かしていけるか。これは映画であると同時に、ことばと「コンテキスト」の問題を考えさせる作品である。言い直せば、非常に政治的で、民主主義とは何かを問う作品だ。民主主義とは、ことばがどれだけ自由に自分自身の「コンテキスト」を確立し、それにしたがって他者と向き合うことができるか、どれだけ多くの「コンテキスト」を用意できるか、という問題である。つまり、「多様性」の問題である。
 いま日本では「問題ありません」「指摘はあたりません」という菅の「コンテキスト」だけが横行している。ジャーナリストに求められているのは、多くの国民と共有できる「コンテキスト」の形成だが、何人がそれを自覚しているか。菅と一緒にパンケーキを食べるという胸焼け、吐き気をもよおさせる「コンテキスト」を菅と共有しているだけだ。
 こういう映画がつくられるアメリカの自由を非常にうらやましく思う。

 マイケル・キートンが重要な役どころで、ストーリーを予告する形で登場する。「ミスター・マム」のときから、とても好きだ。マイケル・キートンが出ていると知って、見に行ったのだった。ときどき、目のなかに顔がある、という印象になる。目に引きつけられる。 











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木村草弥『修学院夜話』

2020-10-11 11:43:43 | 詩集


木村草弥『修学院夜話』(澪標、2020年11月01日発行)

 木村草弥『修学院夜話』は、糸井茂莉や高貝弘也、柏木麻里のことばの運動とはまったくちがう。「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」に、こんな部分がある。42ページ。

後水尾院については、近衛家に伝わる『陽明文庫』の資料や禁裏の近くに居た僧侶の日記など、資料が多いと言えるだろう。
これは私の詩であって、論文ではないので、なるだけ平易にしたいのだが、説明しないと分かりにくくなるので、最低限にして資料を引きたい。

 「これは私の詩であって」とわざわざことわっている。そうことわらないと、読者は詩とは思わないかもしれない。それを懸念している。
 糸井も散文スタイルで書いているが、それを読者が「詩ではない」と思わないことを確信しているだろう。高貝、柏木は行分けだから、もちろん「詩ではない」と読者が言うはずがないと思っているだろう。
 これが木村と、糸井、高貝、柏木を完全にわけている。

 さて。

 それでは木村にとって、詩とは何なのか。
 いや、こういうことは作者に言わせてしまっては意味がない。

 私が、どう感じるか。
 たとえば、おなじ42ページのつづき。

それらの資料を読んでいると「儲君」という今では聴き慣れない単語が出て来る。
これは、元はと言えば中国古代の漢代に発する制度だということである。
儲君=皇太子と考えていいのだが、どっこい複雑である。

 「聴き慣れない単語」とは知らないことばである。だからこそ木村は調べている。そして「元はと言えば中国古代の漢代に発する制度だということである」と説明している。ことばを、いまの、自分の(私たちの)コンテキストのなかでとらえなおしている。ただし、こういうことは簡単ではない。複雑なことが起きるのである。ことばの「意味」はいつでも「イコール(=)」ではない。
 ここからは、木村の考えであるかどうかは、わからない。つまり、私の「誤読」を書くことになるのだが。
 この「ことば」をとうして「イコールではない」というものの世界へ踏み込んでいく。イコールを求めながら(理解することを求めながら)、イコールではないもの、「ずれ」を見つけ出し、それをつかみとる。その運動そのものを木村は「詩」の体験と呼ぶのである。あるいは「詩」の実践と呼んでもいい。
 これを、なんといえばいいのか、実にテキパキと進める。無駄がなく、速度にゆるぎがない。この正確さに、私は引きつけられる。言い直すと、そこに「詩」を私は感じている。ことばが自分の目的に向かってひたすら動いていく。その力に私は「詩」を感じている。
 それは、こんな具合に展開する。「八条宮智仁親王添削歌」(67ページ)、後水尾院が若いときに八条宮智仁親王から添削を受けたことについて書いている。先に後水尾院の歌、次に添削された歌を引いている。(行空きと歌番号は省略)

■ふるほどは庭にかすみし春雨をはるる軒端の雫にぞしる
降るとなく庭に霞める春雨も軒端をつたふ雫にぞ知る
■みる度にみし色香ともおもほえず代々にふりせぬ春の花哉
 見る度に見しを忘るる色香にて代々にふりせぬ春の花かな
(略)
こうして見て来ると、八条宮の添削が、極めて的確であることが判る。しかも添削に当たっては、なるべく後水尾院の元歌の語句を残して巧く直してある。

 事実を積み重ね、そのあとで思ったこと(自分のこころがどう動いたか)を書くというのは「散文」のスタイルである。森鴎外のスタイルである。その散文のなかの、何が「詩」なのか。
 「判る」。発見が「詩」なのだ。その「判ったこと」というのはどこで起きているか。木村の「肉体」のなかで起きている。そして、それが「肉体」の外へ飛び出してきている。「わかった(こと)」は後水尾院の歌と八条宮の添削の間にあり、その「間にあるもの」は木村が指摘するまでは「ことば」としては存在していない。「ことば」にした瞬間に存在し始める。ことばは「後水尾院の歌と八条宮の添削の間にあるもの」と木村の「肉体」をつないだのである。その瞬間、それは「歌と添削の間」にあるのか、木村の「肉体」のなかにあるのか、という区別を超越して存在する。
 木村は、木村が「判ったこと」に、「極めて的確」「巧く」とことばを重ねている。「判る」だけでは、ことばが止まらなかったのだ。これを「ことばの暴走」と考えれば、多くの「暴走することばの詩」につながる。暴走の仕方がちがうだけで、木村のことばも「暴走」するのである。しかし、それは「判る」ということと関係している。

 事実をひとつひとつ確かめ、積み重ねる。そのあとで、「ことば」を「暴走」させる。しかし、その「暴走」はとても小さく見える。これは木村が抑制しているのである。事実を積み重ねることばの動きにも抑制が効いているが、暴走にも抑制が効いている。だから暴走には見えないかもしれない。むしろ、木村は暴走を見せないようにしているとさえ言える。
 その拮抗に、私は、さらに「詩」を感じる。

 紹介の仕方が逆になったかもしれないが、この詩集は、実は「二ツ森幻視」と「修学院夜話」の二部構成になっている。「二ツ森幻視」は、いわゆる行分け詩である。そのなかの「最後の審判」。

フランス、コンクのサント・フォア教会の「タンパン」
タンパンとは教会の扉の上部の半円形のアーチ部分
キリストの上げた右手に神の国、
下げた左手に地獄の有様が彫られている
十二世紀初めから一一三〇年頃の作品である
シート会の聖ベルナールは先立つクリュニー会の華美さを嫌った
イエス・キリストの清貧な生活に帰れ、ということである
だが、そのシトー会にしてからが讃美歌合唱に血道をあげていた
ロマネスクの時代は「ヨハネ黙示録」の時代と言われる
『新訳聖書』の最後を飾る歴史物語が定着していった

 サント・フォア教会へ行った。そこで知ったことを書いている。建物の描写から始まり、信仰の変化について書いている。「時間」(歴史)を人間の変化として見ている。そのことだけが、私に理解できることだ。そして、私は、この木村の「時間(歴史)」と人間を結びつける視点が、木村の文体を鍛えていると感じる。この鍛えられた簡潔な文体は信じられる、と感じる。
 












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学術会議新会員6人の任命拒否問題

2020-10-11 09:45:13 | 自民党憲法改正草案を読む
学術会議新会員6人の任命拒否問題。
いろいろ思うが、これはやはり自民党憲法改正草案(2012年)の先取り実施だと思う。
草案の「前文」に、こう書いてある。

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

全ては「経済活動」に結びつけられている。
「学問(教育)」は「経済活動/成長」に結びつくものだけが正しいという主張だ。
国が目指す「経済成長政策」に反対するものは除外(排除)する。
そういう「総合的、俯瞰的」視点から6人は排除されたのだろう。
つまり、「総合的、俯瞰的」という抽象的な表現は、「経済成長戦略」なのである。

日本で起きていることは、みんな、これ。
安い賃金で働く労働者を増やす。その結果、資本家がもうかる、というのが自民党の狙っている「経済成長」。
その「経済成長」のために外国人労働者を使い捨てにし(期間が過ぎたら日本から追い出し)、日本人の賃金を外国人労働者のレベルにまで引き下げる。正規職員を非正規職人に入れ替え、賃金レベルをどんどん引き下げる。

菅が、学術会議の「予算」を問題にしているが、この「低賃金」(労働者に払う金を少なくする)という戦術は、「学問」の分野にまで及んできた。
「学者」に金を払うなら、ほかのことに金を使おう、ということである。
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高貝弘也『紙背の子』(2)

2020-10-10 10:29:09 | 詩集



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見ていない?

2020-10-10 09:11:04 | 自民党憲法改正草案を読む
見ていない?

   自民党憲法改正草案を読む/番外404(情報の読み方)

 「日本学術会議」の問題の続報。2020年10月10日の読売新聞(西部版・14版)は1面の見出しと前文。

首相 学術会議見直し意欲/予算・定員論点か

 菅首相は9日、日本学術会議を行政改革対象とし、組織の見直しを検討すると明らかにした。政府・自民党で連携して進める構えで、予算や定員などが論点になるとみられる。首相官邸での内閣記者会のインタビューで語った。

 「論点」とはよく言ったものである。いま問題(論争の焦点/論点)になっているのは、6人任命拒否の問題である。その問題から目をそらさせるために「学術会議見直し」を前面に出している。見直しは見直しで、予算提出権をもっている与党がやればいいことだが、それは6人任命拒否問題が解決したあとでやればいいことだろう。
 やる順序が逆だから問題なのだ。

 その問題の「6人任命拒否」について、読売新聞は「見出し」にとってはいない。1面の記事の最後には、こう書いてある。

 首相は「(学術会議の)推薦段階でのリストは見ていない」とも語り、決裁した9月28日の直前に事務方から説明を受けた段階で、すでに6人は除外されていたと話した。

 インタビュー要旨(4面)には、こう書いてある。

【日本学術会議会員の任命拒否】任命手続きは終了した。任命を変更することは考えていない。最終的に決裁を行ったのは9月28日で、(99人の)会員候補リストを見たのはその直前だ。(任命拒否した6人を含む105人のリストは)見ていない。(6人の任命拒否を安倍晋三前首相から引き継いだことは)ない。一連の流れの中で判断した。(候補者の思想信条が影響したことも)ない。学術会議の梶田隆章会長が会いたいということであれば、会う用意はある。

 読売新聞の、この書き方を読むと、菅が自分から「99人の会員候補リストを見たのはその直前だ。任命拒否した6人を含む105人のリストは見ていない」と言ったのではなく、記者から質問を受けて「推薦段階でのリストは見ていない」と言ったのだと推測できるが、正確なやりとりがわからないのが、何とももどかしい。
 そのもどかしさを脇においておいて、非常に疑問に思うことがある。
 これまで、菅は(加藤も)、99人の任命(6人の拒否)について、「法に基づいて適切に処理している」と答えていたはずである。
 その「法」というのは「日本学術会議法」であるはずだ。その「法」のどの部分を適用したのか知らないが、「定員」について、こう書いてある。

第七条 日本学術会議は、二百十人の日本学術会議会員(以下「会員」という。)をもつて、これを組織する。
2会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。
3会員の任期は、六年とし、三年ごとに、その半数を任命する。

 「定員は210人」「三年ごとに、その半数を任命する」。この条文を読むかぎり、105人を任命しなければならない。候補者リストが「99人」だったなら、その段階で、このリストはおかしいと気づかないといけない。
 「知らなかった」ですませられる問題ではない。
 それは「候補者リスト」が「110人」であった場合を考えればわかる。リストに110人あったので110人推薦したというときは、絶対に批判されるだろう。「知らない」ではすまない。
 だから、これは「その場しのぎの嘘」ということになる。
 「法律」も読まずに「法に従って適切に処理した」と言っているだけなのである。
 「99人」だったから「99人」を任命したというのであれば、「適切な判断」ではなく、単に「追認」しただけだろう。

 ここから問題になるのは、次のことだ。(すでに、きのう書いたがもう一度書いておく。)
 では、だれが105人のリストから6人を削除したのか。
 安倍は問題が起きるたびに「ぼくちゃん、何も知らない。ぼくちゃんが関与した証拠を出せ」と言い続けたが、菅もその「答弁」を「継承」するつもりなのか。
 学術会議から菅のところにリストが届くまで、どの部署が関与しているのか。文科省か、菅の秘書か。だれかが改竄したことになる。その改竄の経緯を、政府は「証拠」として提出する必要がある。その「証拠」がないかぎり、菅が、推薦リストどおりに任命したということは証明されない。
 しかし、不思議でしようがないのだが、もし菅に「99人のリスト」しか届いていないのなら、菅は最初から「私は6人の任命を拒否していない。リストは99人だった」と言えばいいのである。(このときは、最初に引用した「学術会議法」の「定員」についてなにも知らなかった、という問題が起きるが……。)加藤も、そういうべきだったのだ。それを「後出しじゃんけん」のように、「リストには99人しか載っていなかった」というのは、あまりにもむごたらしい言い逃れである。
 この「後出しじゃんけん式言い逃れ」を見出しにとらないのは、どうしたって読売新聞が「論点隠し」に加担していることになるだろう。

 ちょっと追加で。
 「学術会議」の見直しについては、菅が言う「見直し」は読売新聞が見出しにとっているように「予算・定員」の見直しであり、それは「削減」という意味だろう。もともと「210人」の定員は多い。今回はその削減の先取りである、という印象を与えるための見出しだろう。
 しかし。
 現代のように、いろいろな分野のことが「専門化」しているとき、ほんとうに「学術会議(専門家)」の意見を求めようとするならば、逆に210人では足りないのではないか。
 4面には、こういう記事がある。

 新型コロナウイルスの感染拡大では、専門の分科会を新設して今年7月と9月、政府や地方自治体の体制や医療のデジタル化などに関する提言を出した。ただ、コロナそのものの分析と感染防止策ではなく、政府・自民党内では「税金に見合った働きとは言えない」との批判がある。
 学術会議は14年、東日本大震災の際に的確な見解の表明が十分できなかったとの反省から、緊急事態時には会長をトップとする「緊急事態対策委員会」を設け、政府機関への見解の伝達、助言などを行うとする指針を定めた。しかし、新型コロナで同委員会は設置されなかった。

 これは、学術会議が予算にあった仕事をしていないという「証拠」として書かれた部分だが、「新型コロナで同委員会は設置されなかった」のは、感染症の専門家が「会員」のなかには少なかった(いなかった)からかもしれない。委員会を設置するには専門家が必要である。そういう状況のなかでも「7月と9月、政府や地方自治体の体制や医療のデジタル化などに関する提言を出した」。それ以上のことを求めるのならば、やはり定員を増やす必要があるだろう。予算も増やす必要があるだろう。「予算・定員」を減らして、「仕事だけしろ」というのでは「ブラック企業」ではないか。

 人脈(?)を生かして、政府関係者の声を集めるのはいいが、それをそのまま垂れ流しているようではジャーナリズムではない。言論機関なのだから、そのことばが「論理」として成立するものなのかどうか、きちんと点検した上で報道しないといけない。

 (どうでもいいが、ハッシュタグというものがある。そのハッシュタグで「読売新聞批判」というものをつくってnoteに投稿すると、必ず「読売新聞批判」が削除される。ハッシュタグを追加する、という機能がついているにもかかわらずである。)





*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

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