詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「らら駱駝もう止せ駱駝だだ」、山崎るり子「絵描き」

2007-09-03 08:37:58 | 詩(雑誌・同人誌)
 和合亮一「らら駱駝もう止せ駱駝だだ」、山崎るり子「絵描き」(「現代詩手帖」2007年09月号)
 和合の作品は眠る前に「羊が1匹、羊が2匹……」とやるかわりに、「駱駝が1頭、駱駝が2頭……」と数える詩である。「亜細亜ホテルの寝室」(2連目3行目)での不眠から睡眠へ。そのあいだに浮遊するさまざまな記憶。いわゆる「抒情詩」である。そして、「抒情詩」であることを拒絶するように、「はははははは」に代表される文字の羅列がある。
 「は」の数を数えるのが面倒なので引用しない。私はもともと繰り返される文字を読むのがとても苦手である。近眼で乱視も入っているので目では正確にどこまで読んだかたどることができないし、もちろん声に出して読むときも間違えてしまう。耳で聞けば印象が違うだろうけれど、印刷物では「ははははは」の羅列としか把握できない。
 したがって、「ははははは」は、私にとっては「無意味」にもならない。
 私の体質は和合の詩を読むのに適していない。
 感じるのは、和合は「ははははは」と繰り返し書いても疲れない元気さをもっているということだけである。「亜細亜ホテルの寝室」で眠ることができないくらい元気なのだ。眠れないのは脳が興奮しているからだ。その元気さだけ感じればいい、というのなら、確かにそれは感じる。元気さ、興奮の一方的な盛り上がりを、その興奮に参加せずに端で見るしかない。
 そして、その元気さ、興奮が、「はははは」に頼らなくても抒情を拒絶したものなら、私はまだこの作品を好きになれるが、最初に指摘したように抒情を拒絶するふりをしているだけのような感じがして、ちょっと気持ちが悪くなる。
 正直にいえば、書き出しの3行で、つまり「ははははは」に出会う前に私はその抒情に気持ち悪くなってしまっている。「ははははは」についていくどころではない。

おやすみ 眠る前に
髪を梳かせば
駱駝が一頭歩いてくるので笑うしかない

 「おやすみ」といったあとに髪なんか梳かないでくれ。「おやすみ」と自分にいったのか、横にいる人にいったのかによって、だれの「髪」なのかかわってくるけれど、それがだれの髪であれ、こんなべたべたな抒情がまだ詩に書かれるのかと思うと、びっくりする。駱駝が一頭歩いてくるより、そっちの方がはるかに笑える。そして絶望的な気持ちになる。
 抒情の拒絶は大好きだけれど、その前提となっている抒情が「髪を梳かせば」で始まる抒情なら、拒絶しなくても、すでに和合の詩以外からは消えてしまっているのではないのか。



 山崎の「絵描き」は残酷で楽しい。残酷さが抒情に変化していくところが泣かせる。

頭の中で血の
ぷぷっ
口が動かない
管が切れる音がして
ぷぷっ
ぷぷ きみろ
手が動かない

 画家が手を動かせないようになると失業だが、画家のかわりに妻が絵を仕上げて行く。そういう「物語」をもった詩なのだが、最初に出てくる「ぷぷっ」と「きみろ」がとてもいい。「ぷぷっ」は血管の切れる音だとすぐわかる。でも「きみろ」は? 「きみろ」って何? 「口が動かない」と山崎は最初からきちんと伏線をしいているが、画家がいおうとしていえないことばが「きみろ」なのである。
 この詩は、脳の血管が切れて思うように口が聞けなくなり手も動かせなくなった画家を語っているが、その描写には一つの工夫がある。画家自身が書いているのではなく、妻が画家にかわって書いている。絵に筆を加える感じで、画家の「ことばにならないことば」に妻の「ことば」が加筆されている。
 これは、どういうことか。
 妻は夫の画家のいっていることがわかっている。いっていることがわかっていて、それを裏切って「きみろ」と書いている。画家とモデルのあいだに何があったかを知っていて、だからこそ絵に筆を加える形で妻を打ち出していくように、画家のすべてを知っていて、だからこそ「ことば」に筆を加え、妻を前面に出して行く。
 ここが人間の残酷なところであり、また非常に温かいところである。血のあたたかさがある。残酷なことをするとき、血は相手に流れるだけではない。残酷なことをする自分自身も出血するのである。出血の量は、もしかすると残酷なことをする妻の方かもしれない。残酷さに、画家がどんなふうに苦しんでいるかをも妻は克明に報告しているからである。
 苦しみの共有があるのだ。悲しみの共有があるのだ。
 苦しみ、悲しみの共有こそ「抒情」のすべてである。

 「きみろ」が何であるかは、「現代詩手帖」で読んでみてください。そして噴出してくる抒情に溺れてください。抒情に溺れて溺れて、泣いて泣いて、泣きぬれる。そういうことができる詩です。最後にたどりつくまでの残酷さは、深い深い、裏返しの愛であることが、泣いたあとにくっきり浮かびあがってくる--というのも、いいなあ、と思う。


コメント
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