詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

森永かず子「白いカモメ」

2007-09-20 10:15:41 | 詩(雑誌・同人誌)
 森永かず子「白いカモメ」(「水盤」2、2007年08月31日発行)
 森永かず子は風景を描かない。目に見えるものを描かない。目に見えるものを描くふりをして意識を描く。詩とはみなそうである、といえばいえるかもしれないけれど、思わず森永は風景を描かず意識を描くと書いてしまうのは、森永の文体にある特徴があるからだ。
 「白いカモメ」の冒頭。

深夜の灯りが
何かの信号のように
遠くでしきりに合図する
窓に額を押しつければ
退いているはずの闇は
取り憑く魔物になる
振りきって手元の活字に視線を戻すが
気配に襲われ
ふたたび窓へと引き戻されてしまう
始めは自画像 その次だ
かすかに
こちらの目線と平行に動くものがあって
あ、鳥
と思った瞬間
落下する鳥
あとには馴染みの闇が薄く笑っている

 「始めは自画像 その次だ」がすばらしい。1行のなかにあるリズム、スピードが、風景を「意識」そのものに変える。
 それまでの行は1行では完結していない。3行ずつのセットになっている。3行ずつで、いわゆる「意味」が成り立っている。「風景」(描写)が成り立っている。2セット目の「額」、3セット目の「手許」と肉体をていねいに存在させながら、「自画像」という肉体と肉体とは別な存在のあわいに入り込んだあと、それに直接触れる形で「その次だ」と「意識」そのものへ飛躍する。
 「その次」--この「その次」は目には見えない。
 その断絶、その飛躍が、「意識」を自由にする。
 断絶と飛躍を経たあと、それにつづく描写は、もう肉眼で見ていても、肉眼だけでは見ていない。そこには「意識」が反映されている。というより、「意識」そのものが風景となって立ち上がってくる。
 このあと、森永は「意識」そのものと戦い、それをととのえながら、ふたたび「意識」を肉体の中へ押しとどめようとする。

折れないものを折る私は
ひどく疲れていった

 この疲れは「意識」(精神)の疲れが、そのまま肉体の疲れへと変化していっている。「意識」の疲れなのに肉体そのものも疲れるのである。

 森永は肉体から意識への飛躍(断絶)を知っている。そうい飛躍があるから、人間は動物ではなく人間なのだ。そして、飛躍した意識から肉体へと、人間が帰って来なければならないことをも知っている。飛躍したままでは「神」というか、なんというか、人間を超越した存在になってしまう。人間と触れ合うことはできない。肉体へ帰ってこそ、他者(人間)といっしょに生きることができる。

 「鳥辞」という作品も森永は書いている。これはもちろん「弔辞」である。「弔辞」の「弔」を「鳥」と置き換えることで、森永は「意識」を「肉体」そのものへと引き戻す。書き出しは

葬儀場へ向かう途中 1m数千円の空を身長×身長分求めた

 この短い書き出しのなかにある「身長×身長」という肉体と数字のぶつかりあい、肉体と意識の交錯(身長というとき、そこに含まれる数字--それが呼び覚ます意識の抽象性と、実際の肉体の具体性の交錯)が、肉体という具体性と「死」という具体的でありながら誰もそこに含まれるものを体験したことがないという抽象的でしかないものものの交錯が、奇妙な形、ずれているようで、ずれていないような形で重なり合う。
 「抽象」にならないようにするために「鳥」を呼びよせ、「鳥」という比喩を呼びよせることで「抽象」になるという、一種の矛盾のような形の動きがあるのだが、そこからなんとしても「肉体」へ帰って来ようとする意志が、森永のことばを動かし、その動きを他人のものとは違ったものにする。--その瞬間に「詩」が噴出する。

「これより弔辞を賜ります。」
その時だ 左の胸で一匹の鳥がツイーッと鳴いた あわてて胸を押えたがそれを合図に鳥という鳥が鳴きはじめる ツイーッ ツイーッと それは「追、追、追」とも聞こえ切なさがあたりを満たした

 「追」はもちろん「追悼」の「追」である。「鳥」を「一羽」ではなく「一匹」と数えるところに、「鳥」にこめられた「意識性」も感じる。



コメント
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