詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本博道『ダチュラの花咲く頃』(2)

2007-09-08 17:12:34 | 詩集
 山本博道『ダチュラの花咲く頃』(2)(書肆山田、2007年08月30日発行)
 3部構成のうちの2部(中央)は散文形式でできている。
 「金色の雨」の書き出し。

金色の寺院のそばの大木に咲いている白い花を眺めていた。頭はからっぽだった。それほど太陽の光はじりじりと熱く、強く、痛く、ぼくには眼や心に映るものなど、どうでもよくなってくるのだった。とにかく暑い。どれほどのペットボトルが華厳の滝で胃袋へ落ちただろう。

 文体に魅力を感じた。「使い込んだ声」ということばがあるが、「使い込んだ文体」という感じがする。長い間書き続けた筆が、自然に覚えた呼吸と艶のようなものがある。
 「どうでもよくなってくるのだった。とにかく暑い。」という部分の呼吸に、とくにそれを感じた。「どうでもよくなってくるのだった」という、どこをおさえていいかわからないような、だらーっとした感じを突き破って、「とにかく暑い」が噴出してくる。長い長い文章、「熱く、強く、痛く」というしつこい文章をつきやぶってことばが噴出してくる。そこに、肉体では制御できない感情の爆発、怒りのようなものを感じ、その強さが「艶」になっている。
 その直後の「華厳の滝」という比喩が、また、とてもとてもおもしろい。
 「過去」が突然噴出してきたことになるが、その「過去」と登場のさせ方が楽しい。芝居の中生登場人物が突然「過去」を語るのに似ている。「過去」があることで、「現在」がいきいきしてくる。つまり、こういうとき、「現在」は大きく揺れる。「現在」は「現在」のままでいられなくなる。
 2連目。

わが国では夾竹桃の仲間らしいが、寺院のそばの大木は一般にプルメリアと呼ばれ、テンプルツリー、パゴダツリー、ブッダツリー、インドソケイの別称がある。白のほかに赤や黄色のいい匂いの花をつける。幸せになれるかどうかはともかく、ひとはこれを花輪にして仏像に供え、祈りつづける。ぼくが見たかぎりの印象では、ひとびとの多くは質素な服装をしていて、祈りの顔にも精彩はなかった。

 夾竹桃がプルメリアに、プルメリアがテンプルツリーに。同じものが、同じ時間に別々の名前をもつのは、それがそれぞれ特別な「過去」をもっているからである。その過去は、いまでは誰もどういうものか気にしないが、たしかにものに名前があるということは、それをそう名づけるだけの「理由」が「過去」にあったことにある。
 夾竹桃もプルメリアもテンプルツリーもそれぞれに、そう呼ばれるだけの「過去」をもっている。その「過去」はとりたてて語られるわけではない。だが、いったんことばになってしまうと、そこに目には見えないけれど「衝突」が生まれる。
 そして、ことばはその衝突のエネルギーで先へ先へと進んで行く。
 ある目的、これが書きたいという目的があって、それに「奉仕」する形でことばが動くのではなく、「現在」に噴出してきた「過去」が時間を動かして、ことばが動いて行く。その動きを、山本はただ報告する。その「ただ報告する」ということのなかに、大きな人間としての豊かさがある。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする