詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

広瀬大志『ハード・ポップス』

2007-09-04 09:16:15 | 詩集
 広瀬大志『ハード・ポップス』(思潮社、2007年07月31日)
 広瀬のことばは軽い。軽快だ。抽象的なことばをつかっても停滞しない。スピードがある。
 「刎ねられる汎神論」はタイトルのなかにすでに軽さがあふれている。耳で書く詩人なのだろうと思う。2連目が美しい。

値しないことで折れ曲がる時間を
言葉が襲ってくる
おれは
草花のように
縦に踏まれる

 「値しないことで折れ曲がる時間」。何のことかわからないが、わからなくていい、という感じでことばが変化し、先へ先へと進んで行く。そして行きっぱなしになるのではなく、先へ進んだことばのなかに「過去」が、つまり前に書いたことばがさっと紛れ込む。その感じが軽快なのだ。
 草花のように、縦に踏まれて、折れ曲がった時間。
 「縦に踏まれて」の「縦に」が絶妙な「転調」である。

 「デスペラード」の2連目の2行にも広瀬の特徴がでていると思う。

突然切れた電話の向こう側までが
宇宙の広さだとしたら

 「時間」にしろ「宇宙」にしろ、ひとの口にのぼることばだ。そして、そのことばはひとの口に乗るときはたいてい軽い。その軽さがそのまま広瀬のことばのなかに生きている。
 耳で聞いたことばが、口蓋、舌、歯、のど、鼻を経て音になる。肉体を経て、ことばは広瀬のまわりで動く。
 この肉体感覚が、とてもいい。

 「剥製師は考えそれは生まれる」の3連目。

ノコギリは罪深く
防腐液は慈悲深い
剥製師は考え
それは誕生(ふっかつ)する

 「は行」の動きがとても楽しい。「深く」「深い」から「ふっかつ」へ。「深く(ぶかく)」「防腐液」の濁音の響き合いも美しい。濁音は豊かな音だ。「ふ」は透明で小さな小さな音だ。
 「深く」は「ぶかく」にしろ「ふかく」にしろ、最後の音が現代では母音を含まない。「bukak 」「fukak 」という感じ。「ふっかつ」も「fukkats 」も同じだろう。
 こうした音を広瀬は意識的にあつめているわけではないだろう。自然にそうなるのだろう。だからこそ、耳のいい詩人、耳で書く詩人、という印象が強くなる。

 耳から目へとことばの動きを拡げてみると、目のことばは耳に比べて弱い。「ハード・ポップス」のなかほど。

誰かが誰かを祝っている」
誰かが誰かを呪っている
誰かが誰かを殴っている
誰かが誰かを殺している

 「祝」「呪」の「つくり」の共有。同じく「殴」「殺」の「つくり」の共有。これがつづくとおもしろいと思うが、つづかない。たまたまそうなっただけなのだろう。視力で文字を読み、鍛えるということは意識したことがないのかもしれない。
 そうすると、もっと楽しく「ポップ」になると思う。



 余計なお世話、といわれそうだが……。
 『ハード・ポップ』よりは『ライト・ポップ』の方が広瀬のことば向きだと思う。「ハード・ポップ」には「抒情」が絡みついてきそうで(実際、いたることろに抒情があるのだけれど)、それがふっきれたらなあ、と思ってしまう。広瀬は「ハード」を書きたいのかもしれないが、私は「ライト」を読みたい。「ライト」な部分が美しいと感じる。
 あ、ハードの反対はソフト、ライトの反対はヘビーだっけ?
 ソフトでは抒情べったりになりすぎる。やっぱりライトがいいなあ、さっそうと軽快にのどや舌、口蓋、歯を刺激しながら弾む音--そういう詩が読みたいなあ、と読書欲(?)を刺激される詩集だった。
コメント
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