詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河瀬直美監督「殯( もがり) の森」

2007-09-14 08:03:35 | 映画
監督 河瀬直美 出演 うだしげき、尾野真千子

 田の緑、畑の緑、山の緑。これは同じようであって、地方によって少しずつ違う。河瀬直美は奈良の緑にこだわっている。冒頭の山のシーンはおだやかでやさしい。緑は乱暴に暴れ回ることはない。風を受けてゆっくりと葉を揺らしている。葬儀の列のシーンも同じ。白くたなびく旗からはかなりの風を感じるが田んぼの緑は思いの外静かである。
 静かに人間を受け止めてくれる--それが河瀬直美の自然である。緑である。
 人間とは緑(自然)の関係が「やさしさ」に象徴されるのは茶畑のシーンだ。痴呆症(?)の老人と介護の女性が隠れん坊と鬼ごっこのあわさった遊びをする。
 茶畑の整然とした列。手入れされた緑。その緑のかげに人はもちろん隠れることができる。しかし、それは「神隠し」のように人を消しはしない。ちょっと背伸びをすれば必ず見つかる。緑は人間を受け入れ、遊ばせてくれる。遊びをとおしていのちを蘇らせてくれる。
 老人と女性は、二人とも最愛の人を亡くし(老人は妻を、女性は息子を亡くし)、失意に沈んでいるが、この鬼ごっこで、笑いを取り戻す。動き回る肉体のよろこびを取り戻す。
 このシーンは、「殯( もがり) の森」で繰り返される。
 老人は逃げながら女性を森の奥へ奥へと誘い込む。そこではたしかに肉体は苦悩し、披露する。激しい雨が降り、谷川の水は鉄砲水となる。しかし、それは自然が人間を非常にたたきのめし、殺すというところまではいかない。困惑させ、泣きわめかせるが、あくまで人間の、人間同士の関係を改善させるもの、人間関係を回復させる「試練」に過ぎない。発熱さえも、人間の自然の力を試すものに過ぎない。
 弱いはずの老人が、泣きわめく女性に触れて、人間の強さを取り戻す。介護される側が介護する側に回る。そして野宿では、もう一度老人が弱い人間になり、それを女性が介護する。裸になって(自然になって)、その自然の温もりで老人をすっぽりつつむ。人間の本来の力、自然の力を、人間を裸にして(無防備の状態にして)、そこから回復させるのが、河瀬直美の自然だ。
 人間は弱いときもあれば強いときもある。だから助け合う。頼りにし合う。そういう「愛」がある。そういう「愛」の力を二人は回復し、それを手助けするのが、河瀬直美の緑、河瀬直美の山、河瀬直美の自然だ。そこは一種の聖域であり、その聖域は「やさしい」ということが基本にある。
 老人と女性は、その森で、死んだ人を忘れる必要はない、死んだ人をずーっとずーっと永遠に愛していてもいいのだ、ということを実感する。
 亡くなった人のことは忘れて、もっと自分を大切に、前向きに生きて行きなさい--というようなありきたりな慰めではなく、ただずーっとずーっと愛し続けることは、それはそれで一つの生き方なのだ、とこの映画はつげる。木のように、山の奥に繁る大きな木のように、そこにとどまり、ただ亡くなった人のことを大切に思い続けて生きていてもいいのである。
 そして、そのような愛の形は奈良の山、奈良の緑にふさわしい。
 どこかへ出ていくことはない。風が吹けば風に葉を裏返し、挨拶する。その挨拶に、日の光はやさしく反射する。そういう宇宙がある。そういう宇宙の静かな力を、人間の内部に取り戻すのを助けてくれる--それが、奈良の山、奈良の緑だ。

 ああ、こんな静かな緑があるのか。こんなやさしい緑があるのか。つくづくそう思った。
 自然は非情だし、その非情なところがとてもいい、とこれまで思っていたが、この映画を見て、静かでおだやかな緑もいいものだと思った。激しい季節風、雪、あるいは台風、過酷な高温ということも、奈良にはないのかもしれない。そうしたおだやかさ、静かさが育てた緑とともに河瀬直美のこころは育ったのだと思った。
コメント
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