監督 アキ・カウリスマキ
出演 ヤンネ・フーティアイネン、マリア・ヤルヴェンヘルミ、イルッカ・コイヴラ、マリア・ヘイスカネン、カティ・オウティネン、パユ(犬)
あいかわらず映像情報が少ない。人間の表情も情報が少ない。無表情に、切り詰められるだけ切り詰められた映像がつづく。そして、それがすべて「孤立」している。たとえば男と壁、硝子といった関係だけでなく、たとえばソーセージを売る車と街、酒場と街、ディスコと街さえもつながってはいない。それぞれが「孤立」して存在している。
こういう、すべてが孤立し、それぞれの情報がきわめて少ない映画では、観客の想像力がスクリーンにひっぱりだされる。監督や役者の想像力がスクリーンを超えてやってくるのではなく、観客の想像力がスクリーンまで出向かなければならない。そこでは、観客は、監督や役者の想像力に触れるのではなく、自分自身の想像力に触れる。
そこでは何も描かれていないがゆえに、観客は、ほとんど自由に自分自身の感性を解き放ち、夢を見ることができる。
孤独な男の悲しみを観客自身の孤独と悲しみで埋めて行く。恋のときめきを、そっと男に託してみる。裏切られ、それでも女を信じる純粋さに自分の純粋さを重ねる。あるいは、裏切って行く女の苦悩をひそかに思ってみる。ことばにしない恋、もうひとりの女のまなざしの恋を、「私はその恋を知っている」と思い、ひそかに見つめる。どうして男はその女の恋に気がつかないのだろう、とじれったく思ったりする。自分だったらもっと早く女の気持ちに気がつくのに、と思ったりする。
そんな観客の気持ちがスクリーンにあふれるころ、スクリーンと観客席が一体になる。観客の目がスクリーンに釘付けになり、こころが震えはじめる。
この映画は監督や役者がつくるのではなく、あくまで監督と役者と観客が一体となってつくりあげていく映画なのである。
自分自身の孤独、悲しみ、純粋さをスクリーンに重ねられた人間には、この映画は傑作かもしれない。男はなんて孤独で、おろかで、純真なのだろう--そう思ったとき、観客は、監督の、あるいは役者の作り上げた「人間」の孤独や純真さに感動しているのではなく、自分自身のなかにある孤独や純真さに、いわば酔いしれている。観客は、その瞬間、自分は、人間の孤独や悲しみ、純粋さを理解できる、清らかな人間なのだと自分を信じてしまっている。いちずな恋をささげる女の静けさ、その無償の愛の美しさを感じる観客は、自分もあの女のように男を愛したことがあった(愛している)と、自分のこころの美しさを発見して、それに酔いしれる。
どんな映画も、主人公と(あるいは多くの登場人物と)自分自身のこころを重ね合わせ、自分が主人公になったような気持ちで興奮することが映画の楽しみなのだから、こういう観客と監督(役者)の一体感があってもいいとは思う。こういう監督と役者、観客の融合のあり方を私は否定したいとは思わない。けれども、積極的に肯定したいとも思わない。全体に思いたくない。やはり、監督の「私にはこんなものまで見えるんだぞ」という強烈な映像が見たい。アキ・カウリスマキ監督に言わせれば、「私はこんなふうに人間の孤独が見える、そしてそれを映像化できる」ということなのかもしれないけれど。
*
この映画では、犬にとても感心した。犬はもとよりせりふをしゃべらない。ただそこにいるだけである。だがその犬は人間よりも強烈に孤独を表現している。犬の孤独と男の孤独が、見つめ合う視線のなかで触れ合う瞬間の映像は美しい。犬の視線がとても美しい。この犬を見るだけのためにでも、この映画は見た方がいいかもしれない。
出演 ヤンネ・フーティアイネン、マリア・ヤルヴェンヘルミ、イルッカ・コイヴラ、マリア・ヘイスカネン、カティ・オウティネン、パユ(犬)
あいかわらず映像情報が少ない。人間の表情も情報が少ない。無表情に、切り詰められるだけ切り詰められた映像がつづく。そして、それがすべて「孤立」している。たとえば男と壁、硝子といった関係だけでなく、たとえばソーセージを売る車と街、酒場と街、ディスコと街さえもつながってはいない。それぞれが「孤立」して存在している。
こういう、すべてが孤立し、それぞれの情報がきわめて少ない映画では、観客の想像力がスクリーンにひっぱりだされる。監督や役者の想像力がスクリーンを超えてやってくるのではなく、観客の想像力がスクリーンまで出向かなければならない。そこでは、観客は、監督や役者の想像力に触れるのではなく、自分自身の想像力に触れる。
そこでは何も描かれていないがゆえに、観客は、ほとんど自由に自分自身の感性を解き放ち、夢を見ることができる。
孤独な男の悲しみを観客自身の孤独と悲しみで埋めて行く。恋のときめきを、そっと男に託してみる。裏切られ、それでも女を信じる純粋さに自分の純粋さを重ねる。あるいは、裏切って行く女の苦悩をひそかに思ってみる。ことばにしない恋、もうひとりの女のまなざしの恋を、「私はその恋を知っている」と思い、ひそかに見つめる。どうして男はその女の恋に気がつかないのだろう、とじれったく思ったりする。自分だったらもっと早く女の気持ちに気がつくのに、と思ったりする。
そんな観客の気持ちがスクリーンにあふれるころ、スクリーンと観客席が一体になる。観客の目がスクリーンに釘付けになり、こころが震えはじめる。
この映画は監督や役者がつくるのではなく、あくまで監督と役者と観客が一体となってつくりあげていく映画なのである。
自分自身の孤独、悲しみ、純粋さをスクリーンに重ねられた人間には、この映画は傑作かもしれない。男はなんて孤独で、おろかで、純真なのだろう--そう思ったとき、観客は、監督の、あるいは役者の作り上げた「人間」の孤独や純真さに感動しているのではなく、自分自身のなかにある孤独や純真さに、いわば酔いしれている。観客は、その瞬間、自分は、人間の孤独や悲しみ、純粋さを理解できる、清らかな人間なのだと自分を信じてしまっている。いちずな恋をささげる女の静けさ、その無償の愛の美しさを感じる観客は、自分もあの女のように男を愛したことがあった(愛している)と、自分のこころの美しさを発見して、それに酔いしれる。
どんな映画も、主人公と(あるいは多くの登場人物と)自分自身のこころを重ね合わせ、自分が主人公になったような気持ちで興奮することが映画の楽しみなのだから、こういう観客と監督(役者)の一体感があってもいいとは思う。こういう監督と役者、観客の融合のあり方を私は否定したいとは思わない。けれども、積極的に肯定したいとも思わない。全体に思いたくない。やはり、監督の「私にはこんなものまで見えるんだぞ」という強烈な映像が見たい。アキ・カウリスマキ監督に言わせれば、「私はこんなふうに人間の孤独が見える、そしてそれを映像化できる」ということなのかもしれないけれど。
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この映画では、犬にとても感心した。犬はもとよりせりふをしゃべらない。ただそこにいるだけである。だがその犬は人間よりも強烈に孤独を表現している。犬の孤独と男の孤独が、見つめ合う視線のなかで触れ合う瞬間の映像は美しい。犬の視線がとても美しい。この犬を見るだけのためにでも、この映画は見た方がいいかもしれない。