詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アキ・カウリスマキ監督「街のあかり」

2007-09-29 22:14:53 | 映画
監督 アキ・カウリスマキ

 出演 ヤンネ・フーティアイネン、マリア・ヤルヴェンヘルミ、イルッカ・コイヴラ、マリア・ヘイスカネン、カティ・オウティネン、パユ(犬)

 あいかわらず映像情報が少ない。人間の表情も情報が少ない。無表情に、切り詰められるだけ切り詰められた映像がつづく。そして、それがすべて「孤立」している。たとえば男と壁、硝子といった関係だけでなく、たとえばソーセージを売る車と街、酒場と街、ディスコと街さえもつながってはいない。それぞれが「孤立」して存在している。
 こういう、すべてが孤立し、それぞれの情報がきわめて少ない映画では、観客の想像力がスクリーンにひっぱりだされる。監督や役者の想像力がスクリーンを超えてやってくるのではなく、観客の想像力がスクリーンまで出向かなければならない。そこでは、観客は、監督や役者の想像力に触れるのではなく、自分自身の想像力に触れる。
 そこでは何も描かれていないがゆえに、観客は、ほとんど自由に自分自身の感性を解き放ち、夢を見ることができる。
 孤独な男の悲しみを観客自身の孤独と悲しみで埋めて行く。恋のときめきを、そっと男に託してみる。裏切られ、それでも女を信じる純粋さに自分の純粋さを重ねる。あるいは、裏切って行く女の苦悩をひそかに思ってみる。ことばにしない恋、もうひとりの女のまなざしの恋を、「私はその恋を知っている」と思い、ひそかに見つめる。どうして男はその女の恋に気がつかないのだろう、とじれったく思ったりする。自分だったらもっと早く女の気持ちに気がつくのに、と思ったりする。
 そんな観客の気持ちがスクリーンにあふれるころ、スクリーンと観客席が一体になる。観客の目がスクリーンに釘付けになり、こころが震えはじめる。
 この映画は監督や役者がつくるのではなく、あくまで監督と役者と観客が一体となってつくりあげていく映画なのである。
 自分自身の孤独、悲しみ、純粋さをスクリーンに重ねられた人間には、この映画は傑作かもしれない。男はなんて孤独で、おろかで、純真なのだろう--そう思ったとき、観客は、監督の、あるいは役者の作り上げた「人間」の孤独や純真さに感動しているのではなく、自分自身のなかにある孤独や純真さに、いわば酔いしれている。観客は、その瞬間、自分は、人間の孤独や悲しみ、純粋さを理解できる、清らかな人間なのだと自分を信じてしまっている。いちずな恋をささげる女の静けさ、その無償の愛の美しさを感じる観客は、自分もあの女のように男を愛したことがあった(愛している)と、自分のこころの美しさを発見して、それに酔いしれる。
  どんな映画も、主人公と(あるいは多くの登場人物と)自分自身のこころを重ね合わせ、自分が主人公になったような気持ちで興奮することが映画の楽しみなのだから、こういう観客と監督(役者)の一体感があってもいいとは思う。こういう監督と役者、観客の融合のあり方を私は否定したいとは思わない。けれども、積極的に肯定したいとも思わない。全体に思いたくない。やはり、監督の「私にはこんなものまで見えるんだぞ」という強烈な映像が見たい。アキ・カウリスマキ監督に言わせれば、「私はこんなふうに人間の孤独が見える、そしてそれを映像化できる」ということなのかもしれないけれど。

 この映画では、犬にとても感心した。犬はもとよりせりふをしゃべらない。ただそこにいるだけである。だがその犬は人間よりも強烈に孤独を表現している。犬の孤独と男の孤独が、見つめ合う視線のなかで触れ合う瞬間の映像は美しい。犬の視線がとても美しい。この犬を見るだけのためにでも、この映画は見た方がいいかもしれない。

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岡本勝人『都市の詩学』(2)

2007-09-29 16:48:00 | 詩集
 岡本勝人都市の詩学』(思潮社、2007年07月31日発行)

 「歌と仕事」の1連目。

失われた時間をうめるもの
失うことによってえるもの
風光の造型者たちよ
歌と仕事は
蕩尽を秘めた石榴のうれぐあいだったが
それは日常の時間にかしずきながらやってきた

 3行目の「風光の造型者たちよ」への飛躍が岡本の詩の特徴だろう。
 一方に「失われた時間」「失うこと」という抽象的なものがある。それに向き合う形で「風光」という具体的なものがある。「時間」は失われたが「風光」は失われてはいない。「風光」は絶対失われないことによって「失われた時間」を明るみに出す。風光とは、しかし「観光名所的な風景」のことではない。今目の前にある「ただの自然」である。「日常」である。「観光」などによって汚されていない、ただそこに放置されたままの「日常としての自然」。そこでは「時間」が失われることなく、昔のまま、延々とつづいている。そこにあるのは「風光」というより「時間」なのである。
 この「日常としての自然」というのは、2連目を読むとわかるのだが「故郷」のことである。勝本が子どもだった時代も、今も変わらない。たとえば「棚田」があり、たとえば「木蓮」が咲いている。その姿は永遠にかわらない。そこでは時間は何度も何度も巡ってはくるけれど過ぎ去っては行かない。けっして「失われない」。「故郷」では「失われた時間」というものはない。めぐりめぐって時間は次々に重なり合う。重なり合うことで一瞬を永遠にかえてしまう。この場合の永遠とは、変化がないということをいう。
 この変化のない時間、永遠の時間、「絶対的存在として目の前にある時間」(風光となって具体的に存在する時間)の前で、勝本は思わず「風光の造型者たちよ」と呼びかけてしまう。
 「失われた時間」を勝本は意識することができるが、今目の前にある絶対的な時間の前で、たじろぐのである。「失われた時間」というときの「時間」とはなんだったのか。それを考えて、たじろぎ、迷いのなかで、思わず「造型者たちよ」と呼びかけてしまうのである。その「造型者たち」のだれかが「勝本」という人間を「造型」していることをどこかで感じているのかもしれない。
 「失われた時間」と「絶対的存在として目の前にある時間」(風光となって具体的に存在する時間)のあいだで、自分自身ではなく、そこに「造型者」という存在を取り込むこと、その存在を勝本に密着させることによって、世界を見つめなおす。(この「造型者」を、たとえばヨーロッパの国々の信仰の篤い人なら「神」と呼ぶかもしれないけれど、岡本が「絶対者」としての存在を思い浮かべているかどうかはわからない。「造型者たちよ」と複数形で呼びかけているところから判断すれば、それはヨーロッパでいう「神」の類ではないだろう。)
 岡本と「造型者たち」が密着するとき、「故郷」にあっては「失われた時間」は存在しない。勝本と「造型者」が密着したまま、「故郷」と対極にある「都会」に出向くとき、そこに「隙間」のようなものができる。「都会」の時間は「故郷」の「時間」と違って「めぐる時間」ではなく「一直線に進む時間」だからである。「過去」はつぎつぎに「失われる」。「故郷」ではたとえば春が来れば棚田は耕され、木蓮が咲く。そこでは人間の「仕事」は繰り返し繰り返し同じまま(永遠)である。違ったことをしてはならない。一方「都会」にも春はくるだろうけれど、春がくるたびに人は同じことを繰り返してはならない。つぎつぎに新しい春の時間をつくっていかなければならない。昨年新入社員であった人間は今年は2年目の仕事をしなければならない。同じ質の仕事をしていてはいけない。「差」が求められ、「差」のなかに「失われた時間」がある。それは「捨て去った時間」かもしれない。
 岡本は「距離」を描く詩人だが、その「距離」は「風光の造型者」(故郷の時間をつくりあげる存在)と岡本が一体になって、一直線に進む時間と向き合ったときに感じる「距離」である。「故郷」をもった人間が「都会」にでてきて、「故郷」とは違う時間を知ることによって感じる「距離」である。
 「都会」の時間は一直線に進む。しかし人間の生活そのものがいつも一直線にすすむわけではない。「故郷」の時間のように、円還する時間もある。繰り返し繰り返し同じ時間、変わらないものに直面するときもある。そういうものに対面したとき、勝本の肉体は不思議な声を漏らす。孤独と、孤独であることの至福のなかから、透明な声を漏らす。
 それが勝本の「抒情」である。

 抽象的な感想、印象の羅列になりすぎたかもしれない。
 もう少し勝本の詩集につきあって、何かを書き続けてみたい。

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