詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎「死者たちの庭」

2007-09-02 21:30:54 | 詩(雑誌・同人誌)
 高橋睦郎「死者たちの庭」(「現代詩手帖」2007年09月号)
 「川田靖子夫人に」という献辞がついている。

親しい者がひとり死ぬと 苗木をひともと植える
それが 彼女の始めた 新しい死者への懇ろな挨拶
死者たちは日日成長をもって 彼女に答える
花を咲かせ実を結び 落ちて新たな芽生えとなる

自分が死について何も知らなかったと 彼女は覚った
死は終わりではない 刻刻に成長し 殖えつづけるもの
まぶしいもの 生を超えてみずみずしく強いもの
外を行く人は何も知らず 立ち止まって目を細める

 2連目の「彼女は覚った」が美しい。
 ここに書かれている「死」に関することがらは彼女(川田靖子)が覚ったことである。高橋が自分で覚ったわけではない。そして、その他人(川田靖子)がさとったこと、そのことばを傷つけずに高橋はしっかり受け止めている。共有している。その共有の「証明」が「彼女は覚った」なのである。
 川田のことばを引き受け、書き記すとき、高橋は川田が植えた木のように育ちはじめるのである。「死は終わりではない 刻刻に成長し 殖えつづけるもの/まぶしいもの 生を超えてみずみずしく強いもの」ということばは高橋の大地に根を下ろし、この詩の中で生きはじめている。育って行く。

外を行く人は何も知らず 立ち止まって目を細める

 最後におかれたこの1行。この不思議さ。
 この1行はだれのことばだろうか。川田のことばだろうか。川田のことばを受け止めたために高橋のなかで育ったことばだろうか。区別がつかない。そして、これは区別をするひつようもないことばでもある。だれのことばであると区別し、断定するかわりに読者のひとりひとりが自分で受け止めて育てるべき「新しい芽」なのだ。
 読者のほとんどは「川田靖子」を知らない。「高橋睦郎」を知らない。(私は、もちろん二人とも知らない。)それは知らなくていいのだ。「死者たちの庭」のすべての行は、川田靖子を離れ、高橋睦郎を離れ育っている。それを私たちは「何も知らず」「立ち止まって目を細め」て、ながめ、受け止めるだけでいい。
 私たちのこころのなかで十分に育たなかったら育たなかったで、それでもいいのだ。
 この目撃は「挨拶」のようなものである。繰り返し繰り返し、出会う人は「挨拶」し、しだいに懇ろになる。繰り返し出会っても「挨拶」をすることもなく、すれ違う--そういうことでもいいのだ。
 木がそういうことを木にしないように、この詩もそういうことを気にしない。
 川田と高橋はひとつのことばを共有し、育てている。それが高橋にとって確認できた。それだけでいいのだ。この何も求めていない木(自然)そのもののような、超然とした美しさ--それが、とてもいい。



 この詩は、同時に発表されている「この家は」の「反歌」のようなものである。「死者たちの庭」に書かれていることばをこころにとめて「この家は」を読むと、その静かに静かに動くことばの、その動きがくっきりと見えてくる。

彼が詩人であるかどうかは 私たちの知るところではない
ただ願わくは 彼がこの家を壊そうなど 謀叛気をおこして
私たちと彼自身とを 不倖せな家なき児としませんように
生まれそこなった詩たちを 全き骨なし子としませんように

 詩が常に人ともにあることを願っている高橋の祈りが聞こえてくる。

コメント
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