須藤洋平「小指」(「現代詩手帖」2007年09月号)
短い作品である。全編引用する。
「口語」というか「しゃべり口調」で書かれているが、文体にゆるぎがない。散文を(たとえば小説を)しっかり読んでいる感じがする。詩よりも散文で文体を鍛え上げた人のように思われる。
「やっぱあんまり要らねぇような気がするんだよな どう?」の「どう?」というのは、しっかりした文体意識があって、そのうえで日常会話の「肉体」の部分をしっかりおさえながらことばに取り込んだものだ。「小指だけじゃなく順番は分かんないけど次々にさ、」の語順、そして「読点(、)」の押さえの呼吸がとてもいい。散文意識がしっかりしていないと、こうした微妙な語順、読点は押えられない。
これだけ明確な散文意識で詩を書くというのはたいへんなことだ。散文と詩の両方が見えている。
須藤の作品は、この「小指」と同時に発表されている「波紋」の2篇しか知らないが、この詩人は、散文と詩、口語と書き言葉、という具合に、世の中をくっきりわけて見ることができるのだろう。はっきりわけて認識しながら、それを統合することもできる。
これはちょっとつらいかなあ。
世界の両側がくっきり見えるのはつらいかなあ。
「(笑い)」、というのはほんとうの笑いではない。「あはは」「うふふ」「くすくす」という肉体の声ではない。「頭」の「声」、認識である。「どう?」やそのほかのことばの感じが「口語」(肉体)なのに、ここにだけ突然「頭の声」が出てくる。
とても寂しい。とても悲しい。
西脇順三郎ではないけれど、淋しい、ゆえにわれあり、といいたくなる、とんでもない寂しさがある。
寂しさは「肉体」よりも「頭」に響いてくる。
もうこうなると「肉体」へは帰れない。「……」という沈黙を挟み、「1行空き」を挟み、精神の力で詩を押えてしまうしかない。
それがまた、寂しい。西脇みたいに「淋しい」と書いたほうかいいかな?
*
「波紋」の最初の4行。
こうした行と、「小指」のことばをあわせて読むと、須藤は耳が飛び抜けていいことがわかる。「口語」をそのまましっかり耳で聞き取り、ことばに定着させ、そして同時に「頭の声」をことばにせずに、沈黙のなかで整理し続けている。
「淋しさ」は、脳髄の作用である、ということがよくわかる。
須藤の作品と西脇の作品は似ているわけではないが、急に西脇が読みたくなる--そういう作品である。
短い作品である。全編引用する。
俺、ヤクザとかそんなんじゃないけど、小指って
やっぱあんまり要らねぇような気がするんだよな どう?
うーん、時代に逆行してどんどん退化してゆくだろうから
小指だけじゃなく順番は分かんないけど次々にさ、
指全部なくなっちゃうんだろうなぁ……
そして何だか分かんないけどまた一本ずつ生えてきたりしてな(笑い)
……
そうなるとやっぱ小指最初に生えてきそうな気がするなぁ
抒情詩人とか特にさ
「口語」というか「しゃべり口調」で書かれているが、文体にゆるぎがない。散文を(たとえば小説を)しっかり読んでいる感じがする。詩よりも散文で文体を鍛え上げた人のように思われる。
「やっぱあんまり要らねぇような気がするんだよな どう?」の「どう?」というのは、しっかりした文体意識があって、そのうえで日常会話の「肉体」の部分をしっかりおさえながらことばに取り込んだものだ。「小指だけじゃなく順番は分かんないけど次々にさ、」の語順、そして「読点(、)」の押さえの呼吸がとてもいい。散文意識がしっかりしていないと、こうした微妙な語順、読点は押えられない。
これだけ明確な散文意識で詩を書くというのはたいへんなことだ。散文と詩の両方が見えている。
須藤の作品は、この「小指」と同時に発表されている「波紋」の2篇しか知らないが、この詩人は、散文と詩、口語と書き言葉、という具合に、世の中をくっきりわけて見ることができるのだろう。はっきりわけて認識しながら、それを統合することもできる。
これはちょっとつらいかなあ。
世界の両側がくっきり見えるのはつらいかなあ。
そして何だか分かんないけどまた一本ずつ生えてきたりしてな(笑い)
「(笑い)」、というのはほんとうの笑いではない。「あはは」「うふふ」「くすくす」という肉体の声ではない。「頭」の「声」、認識である。「どう?」やそのほかのことばの感じが「口語」(肉体)なのに、ここにだけ突然「頭の声」が出てくる。
とても寂しい。とても悲しい。
西脇順三郎ではないけれど、淋しい、ゆえにわれあり、といいたくなる、とんでもない寂しさがある。
寂しさは「肉体」よりも「頭」に響いてくる。
もうこうなると「肉体」へは帰れない。「……」という沈黙を挟み、「1行空き」を挟み、精神の力で詩を押えてしまうしかない。
それがまた、寂しい。西脇みたいに「淋しい」と書いたほうかいいかな?
*
「波紋」の最初の4行。
じゃあ悔しくて悔しくて仕方なかったんだね
よくここまで耐えたね、そして証明したいんだね
覚悟はある?
分かってる、そんな生半可な気持ちじゃないよね
こうした行と、「小指」のことばをあわせて読むと、須藤は耳が飛び抜けていいことがわかる。「口語」をそのまましっかり耳で聞き取り、ことばに定着させ、そして同時に「頭の声」をことばにせずに、沈黙のなかで整理し続けている。
「淋しさ」は、脳髄の作用である、ということがよくわかる。
須藤の作品と西脇の作品は似ているわけではないが、急に西脇が読みたくなる--そういう作品である。