詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

萩森勝「鳩」

2007-09-18 10:09:39 | 詩(雑誌・同人誌)
 萩森勝「鳩」(「翻」3、2007年09月23日発行)
 まず全文を引用しておく。

小さな町の中をコンクリートの水路が横切っている
水路の片側は鉄パイプの柵で道路と仕切られ、もう片側には家が立ち並んでいる
水路沿いの家では水路とのわずかな土地を利用して木や草花を植えている
ある家のブロック塀と水路の間に糸杉が五本植わっていた
そのうちの一本の糸杉に鳩の巣があって、つがいの鳩がすんでいた
毎朝、空が明るくなるころホロホロと鳴いた
ある夜、鳩の一羽が猫に襲われて死んでしまった
つれあいを失った鳩はやはりあさになるとホロホロ鳴いた
半年ほどたったある日、市の公園課のトラックが来て五本の糸杉を切ってしまった
ブロック塀にひびが入ってきたのだそうだ
住みかを失った鳩は水路をへだてた向かいの鉄パイプの柵や
水路を横切る電線にとまり糸杉があった空間を毎日見つめていた
時には、明け方にホロホロと鳴いた
三ヶ月ほどそうしていたがいつのまにかいなくなった

今も水路の鉄パイプや電線には鳩の影が張り付いていて
糸杉のあった空間を見つめている

 この詩の魅力は、最後の2行前の「空き」にある。意識の飛躍をきちんと押えている点にある。
 それまでの行は「事実」を語っている。萩森が見た現実(実際に見たかどうかは別にして、肉眼で見ることができ、自分自身の耳で聞くことができる現実)が描かれている。(鳩が糸杉に巣をつくるかどうかは、現実としてありうることかどうかは問題ではない。)その文体は淡々としている。むりやり感情をこめていない。むしろ感情をそぎ落とすようにして書いている。いわゆる詩というより、散文をめざしている。
 そして、その散文のリズムを守ったまま、1行空きのあと、事実とは違うことを書く。「鳩の影」は現実には誰も見ることはできない。1行空き前にかかれていたことが現実だとすれば、ここに書かれているのは現実ではない。萩森はそう見えても、その「現実」を誰かと肉体で(つまり、肉眼で)、共有できるわけではない。「影」をカメラに収めることもできない。では、非現実かというと、そうでもない。空想ではない。「意識の現実」である。
 現実にはありえない。しかし、意識は現実にはありえないことを、意識の現実として存在させることができる。鳩を思う意識が、いまそこにはない「鳩の影」を意識のなかに存在させるのである。
 この言語操作は、すべてのことばを「意識のことば」へと転換させる。

 書き出しの3行は「いる」と現在形で書かれている。ところがそれ以後は「いた」と過去形になる。過去は「意識」のなかにのみ存在する。現実には存在しない。肉眼や耳ではとらえられないものである。
 そういう「意識」の積み重ねのあとに、1行空きがあって、それからふたたび「いる」という現在形へ戻る。「現実」に戻る。
 「意識」は生々しくなると、「過去形」ではあらわれない。「現在形」へ形をかえてあらわれる。--日本語の文法では、こうした「交錯」が起きる。生々しい意識は「過去形」にはならず「現在形」として噴出し、「現在」そのものを変形させる。この詩では、ありもしない「鳩の影」を出現させる。

 意識とことば、ことばと現実の関係が、この詩ではきちんと守られている。

 終わりから3行目もさりげなく書かれているが、とてもおもしろい。「三ヶ月ほどそうしていたがいつのまにかいなくなった」。「いなくなっていた」ではなく「いなくなった」。これは「いなくなっていた」よりも「今」に非常に近い。「今」そのものであるとさえいえる。「いなくなった」と「いない」の区別は、ある状況では、日本語には存在しない。たとえば子供が迷子になる。そのとき親は「子供がいない」と叫ぶ。「子供がいなくなった」とも叫ぶ。その二つは、互いに時制を侵入しあう。日本語はときに「今」を「過去形」で語るのだ。
 この「過去形」に触れている「今」(現在)があるからこそ、1行空きのあと、意識は「今」(現在)としてすばやく動くことができる。

 散文をきちんと書いてきた人、散文で文体の訓練をしてきた人の詩である。
 私は、こうした散文のもっている「時間感覚」をきちんと再現する人のことばが、とても好きである。読んでいて安心する。
 詩は意識のなかにある、という考えも納得ができる。保守的な詩であるが、こういう保守的な言語があって、いわゆる「現代詩」でおこなわれている試み、「意識の外にあることば」こそが詩であるという運動も意味を持ってくる。「前衛」は、ある意味で、萩森の書いていることばのような保守的な文体がなくなれば、「前衛」の意味をもたなくなってしまうからだ。

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甲田四郎『冬の薄日の怒りうどん』

2007-09-18 00:24:03 | 詩集
 甲田四郎『冬の薄日の怒りうどん』(ワニ・プロダクション、2007年09月20日発行)
 読んでいてちょっと困ってしまった。ふたりの孫のことを書いている。「ジーチャン」の立場から書いている。「ジーチャン」と甲田自身で呼んでいる。そういう呼び方は一般的なのかもしれないが、「ジーチャン」ということばをつかわずに「ジーチャン」が書かれているのならまだわかるが、「ジーチャン」ということばをつかって「ジーチャン」を書いたのでは、読んでいておもしろくない。「ジーチャン」であることの「発見」がない。「ジーチャン」であることを最初から受け入れている。孫はかわいい、ということを最初から受け入れている。それでもいいのかもしれないが、孫がかわいい、かわいい、かわいい、かわいいの果てに「ジーチャン」が「ジーチャン」を通り越して、人間的にかわってゆくといいのだが、最初から最後まで孫はかわいいだけでおわっている。孫をかわいがるばっかりで、親馬鹿ならぬ「ジーチャンばか」になっている、というのでもない。「ジーチャンばか」になって、孫をスポイルしてしまうくらいだと、それはそれでとてもおもしろいのだが、そこまではいかず、奇妙に抑制がきいている。孫のかわいらしさも読んでいて、ああ、こんなにかわいくなったのか、という感じがつたわってこない。
 ひとことでいうと「過剰さ」がない。「過激さ」がない。インターネットに流布している「日記」でも、もうすこし読ませる工夫がしてある。「ばかだね」とばかにされる楽しみを書いている。

 驚きが書かれている部分を一か所見つけた。そこだけがおもしろかった。

ユリはおもちゃがほしいとなればむがむちゅう何を言っても聞こえない、店先の地べたにひっくりかえってカッテー、カッテーと大声で泣くのだと。それはしつけだぞみっともないぞと私ジーチャンは言う、(略)電話を替わったママが言う、でもあのね、ちかごろの子はすぐに何でも買ってもらって我慢ということを知らないけれど、ユリは我慢を覚えたんですよ。そんなに泣かれても買わないのかとジーチャンは驚く、買ってもらえなくてもそんなに泣くのか。たくましいママとユリ。

 「買ってもらえなくてもそんなに泣くのか。」に、初めてであった孫の姿がある。「発見」がある。そうしたことがもっと書かれていれば、孫の姿がいきいきしてくる。
 いじめられてもいじめられてもがんばる姿などは、最初から「かわいそう」「けなげ」という気持ちが表に出ていて、退屈である。

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