池谷敦子『眠れぬ夜のあなたに』(文芸社、2007年10月15日発行)
「夜の中へ」という詩が好きである。その途中から。
「するとこの私も もはや牛なのだろう」。この1行に驚いた。この1行に池谷の特徴があると思った。「私」が「私」ではなくなる。そしてそれは「共感力」によるのもである。何かを感じ、その感じたものが「私」をのっとり、「私」をかえて行く。そのとき、池谷はそれにあらがわない。それを受け入れる。そして、それを生きる。
だが、それは単に何かに押し流され、自分を失うということではない。
常に自己批判がある。
「何かひどく大きな生き物の体内なのである」の「体内」が象徴的だが、そうした「共感力」が生み出す変化を、あくまで「肉体」の内部のことと受け止める。「牛」は「肉体の内部」の表象化したものである。それは自分の内部をしっかりみつめようとする意思の反映でもある。
自分をみつめる厳しい目がある。「私」は「人間」である。「人間」が「牛」であっていいはずはない。それでも「牛」であると言うとき、「牛」である「私」、「私」のなかの「牛」というものを見据えているのである。
この詩のすばらしさは、しかし、そんなふうに自己批判をしながらも、「牛」になってしまうときの「人間」の「解放」を描いていることである。人はときには「牛」になってしまわなければならない。「牛」になってしまわなければ救えないようなものをそれぞれの「体内」にもっている。
さびしくなったら「牛」になりなさい。ここばにならないものを「うわあああ あ」と声に出して泣いてしまいなさい、と言うのだ。
この温かさはすばらしい。
*
池谷は自分の内部に「不穏」なものがあることを知っている。「人間らしくないもの」(たとえば「牛」)があることを知っている。そして、それをきちんとみつめることも知っている。それは、つまりは他人のなかにある「人間らしくないもの」(人間の行為として否定されるべきもの)を許し、いっしょに生きていこうという語りかけに替わる。
人間は弱い。いいじゃないか。弱いから、間違うから、いやらしいこともするから、たがいにそれを支えあい、生きていく。そこに不思議な楽しさがある。たがいに弱さ、さびしさ、間違いを知ることで「ひとりではない」という一種の安心感も生まれる。
池谷の与えてくれのは、そういう不思議な「安心感」なのである。正直さだけがもっている「安心感」なのである。
「夜ごとの耳」は、そういう正直さが、さびしいまでに書き込まれた作品である。その最後の部分。
*
私は池谷の作品を昔から読んでいるわけではないが、何度か読んできた。そしてそのときは池谷を私よりすこし若い「おばさん」、ナイーブさを残した40代の女性だろうと思っていた。このナイーブさは、30-40代の「普通のおばさん」の、詩を書きはじめたばかりのナイーブさだろうかとも思っていた。もしかするともっ若くて、20代の女性であるかもしれないとさえ思っていた。ところがあとがきに「78年生きて参りました。」と書いてある。誤植? しかし、プロフィールにも「1929年生まれ」とある。ほんとうに78歳なのだ。
びっくりした。
正直さは年齢を超越する。正直さは人を若くする。
人間は正直にならなければ生きている意味がない--と、心底思い、こころが震えた。
「夜の中へ」という詩が好きである。その途中から。
さびしくって
うわあああ と声に出た
どこか遠いあたりでも
うわああ わあああ と
野太い声がこだまする
闇が 水っぽい吐息を漏らしている
まわりには 身動きならぬほど たくさんの牛がいるらしい
するとこの私も もはや牛なのだろう
草が 聞き耳を立てている
草原かと思っていたが
ここは この闇は
何かひどく大きな生き物の体内なのである
まわりの牛たちは消えてしまった
私は その最後の一頭になろうとしている
ひとり居てひとりのさびしさに耐えられず
またしても うわあああ
どこにも届くあてのない長いあくびをしている
消化されてしまうまで
うわあああ あ
「するとこの私も もはや牛なのだろう」。この1行に驚いた。この1行に池谷の特徴があると思った。「私」が「私」ではなくなる。そしてそれは「共感力」によるのもである。何かを感じ、その感じたものが「私」をのっとり、「私」をかえて行く。そのとき、池谷はそれにあらがわない。それを受け入れる。そして、それを生きる。
だが、それは単に何かに押し流され、自分を失うということではない。
常に自己批判がある。
「何かひどく大きな生き物の体内なのである」の「体内」が象徴的だが、そうした「共感力」が生み出す変化を、あくまで「肉体」の内部のことと受け止める。「牛」は「肉体の内部」の表象化したものである。それは自分の内部をしっかりみつめようとする意思の反映でもある。
自分をみつめる厳しい目がある。「私」は「人間」である。「人間」が「牛」であっていいはずはない。それでも「牛」であると言うとき、「牛」である「私」、「私」のなかの「牛」というものを見据えているのである。
この詩のすばらしさは、しかし、そんなふうに自己批判をしながらも、「牛」になってしまうときの「人間」の「解放」を描いていることである。人はときには「牛」になってしまわなければならない。「牛」になってしまわなければ救えないようなものをそれぞれの「体内」にもっている。
さびしくなったら「牛」になりなさい。ここばにならないものを「うわあああ あ」と声に出して泣いてしまいなさい、と言うのだ。
この温かさはすばらしい。
*
池谷は自分の内部に「不穏」なものがあることを知っている。「人間らしくないもの」(たとえば「牛」)があることを知っている。そして、それをきちんとみつめることも知っている。それは、つまりは他人のなかにある「人間らしくないもの」(人間の行為として否定されるべきもの)を許し、いっしょに生きていこうという語りかけに替わる。
人間は弱い。いいじゃないか。弱いから、間違うから、いやらしいこともするから、たがいにそれを支えあい、生きていく。そこに不思議な楽しさがある。たがいに弱さ、さびしさ、間違いを知ることで「ひとりではない」という一種の安心感も生まれる。
池谷の与えてくれのは、そういう不思議な「安心感」なのである。正直さだけがもっている「安心感」なのである。
「夜ごとの耳」は、そういう正直さが、さびしいまでに書き込まれた作品である。その最後の部分。
もしかしてあの背筋にくるような声をきたいしているのではあるまいか。私はあの閉ざされた窓を窺う長い耳に過ぎないのではないか。病んだ社会の蟻塚にはまろうとしている者の一人に過ぎないのでは……
*
私は池谷の作品を昔から読んでいるわけではないが、何度か読んできた。そしてそのときは池谷を私よりすこし若い「おばさん」、ナイーブさを残した40代の女性だろうと思っていた。このナイーブさは、30-40代の「普通のおばさん」の、詩を書きはじめたばかりのナイーブさだろうかとも思っていた。もしかするともっ若くて、20代の女性であるかもしれないとさえ思っていた。ところがあとがきに「78年生きて参りました。」と書いてある。誤植? しかし、プロフィールにも「1929年生まれ」とある。ほんとうに78歳なのだ。
びっくりした。
正直さは年齢を超越する。正直さは人を若くする。
人間は正直にならなければ生きている意味がない--と、心底思い、こころが震えた。