詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤本真理子『触れなば』

2007-09-25 01:12:41 | 詩集
 藤本真理子『触れなば』(銅林社、2007年10月01日発行)
 なぞなぞを読んでいるような気持ちになる。「莎草の一穂」。

半球だけがいつも暮れて・・・・・
夕星は ひとつ

無い目を白い包帯で蔽っている。
黒いマントの破れ目を
  またひとつ
       そしてまた
と 明るみを数えながら 女が

 何が書いてあるかわからない。「夕星」とあるから夕方の風景なのだろう。地球は確かに半分は暮れている。そういうことを意識しながら女が歩いている。そういう情景を思い浮かべるが、ほんとうにそうだろうか。もしそうだとしたら「夕星」だとか「眼帯」だとか、「明治」(?)を思わせることばがいやだなあ、と思う。いまではない時代のセンチメンタルな情景はどうも気持ちか落ち着かない。
 引用しないが、このあと「草屋根」「草鞋」「珈琲」「撥条」というような、北原白秋でもでてきそうなことばがつづく。
 そして、最後に。

音が音を待っている ●(フェルマータ)

あれは(目)
ルドンの花の ひとつ(目)

決して閉じない破れ目が見つめている。
  (谷内注 ●は音符記号の「フェルマータ」。半円のなかに●がある記号である
       「(目)」の「(」はほんとうは二重目蓋のように二重。)

 そこまで読んで、あ、書き出しの「半球」とはこのこと? と気がつく。「夕星」とはフェルマータのなかの黒い丸のこと? と気がつく。そして、それは「目」というか、目蓋と黒目の関係のようにも見える。
 え、こんなことを書いていたのか? と私は驚く。

 ほかの詩を読んでも同じである。どこかになぞなぞがあり、その謎解きがある。「莎草の一穂の場合は、「視覚」に訴えてくるなぞなぞだが、音に訴えてくるなぞなぞもある。(両方のものもある。)。

“シ”の表通りに伸びる棘のような爪をツみながら妹は
ムメの香になっている
ユメ摘みする人のユビの曲がり角で
        (「しき-いき」)

(マメ、実も無)
         (「モアレ」)

 (マメ、実も無)は「まめみもむ」である。ま行の入れ替えである。
 「なぞなぞ」というのは、答えにおどろきがあるというよりも、その答えを支える構造におもしろさがある。藤本は、そうした構造のにひかれているのかもしれない。現実にはそのままでは通用しないが、なにかしら「頭脳」をくすぐる構造。そこに現実をはみだしてゆく可能性をみているのかもしれない。
 それはそれでいいのかもしれないが、(そういう「遊び」があってもいいのかもしれないが)、いったい藤本の現実とはなんなのだろうか、という疑問がわいてくる。
 現実に向き合って感じる何かを「なぞなぞ」にして、その答えを楽しんでいるだけでいいのだろうか、という疑問がわいてくる。

 もっとほかの読み方があるのかもしれない。私にはちょっとわからない。


コメント
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