岩佐なを「黒舞茸」(「交野が原」63、2007年10月01日発行)
「黒舞茸」という架空の画家の、架空の伝記である。書き出しから嘘であることがすぐわかる。
年表(?)を**尾*年で統一し、嘘を強調している。こういう作品は、どこまでことばの調子を統一したまま嘘をつけるかが、おもしろいか、おもしろくないかの分かれ目である。尾→明太子→魚から、蛾→虫→変態とあからさまになってゆく過程がおもしろいし、最後はいつもの岩佐節という感じにまで高まっていく。
嘘にだまされて、「異臭をはなっている」をそのまま読んでしまう。「異彩を放つ」が正しい(?)日本語だね。
嘘を語っているのだから、そんなところで正しい日本語など守る必要もないのだけれど、嘘というのはところどころに「ほんとう」をいれていかないと嘘がつづかない。「束間摺八」だの「不義之臣」のなかにも「ほんとう」が含まれているけれど、まだまだ「観念」にあって、肉体にまでなっていない。
「緑便尾三年」の「緑便」がきいているのだと思う。「緑便」は辞書にも載っている「正しい日本語」である。そして肉体とも深いつながりを持っている。こういうことばには人間誰しも弱い。ついつい引き込まれる、という意味である。そういうことばで引っ張っておいて、「異臭をはなっている」。
「異臭を放つ」ということばはたしかに「正しい」のだけれど、歴史のなかで特にきわだっていることをあらわすことばではない。--そういうところへ、すばやく紛れ込ませ、そのあとすぐに終わってしまう手際も楽しい。
一方、この詩を読みながら私は粒来哲蔵を思い出した。粒来の詩も一種の嘘を書いている。その嘘を書くのに、岩佐も粒来も一種の「漢文体」のような表現を利用している。(最近読んだ背負い瀬尾育生の詩も漢字を巧妙につかって読者の想像力を刺激していた。)漢字と想像力、特にそのスピードについて考えてみると何かおもしろいことが見つかるかもしれない。
今回の岩佐の詩、粒来の詩などは、「和文」のしなやかな文体ではおもしろくないのかもしれない。漢文の現実を切り捨てながら飛躍する文体が、嘘にはむいているのかもしれない。
読者が、これは何? と考え、ことばを出す前に、視線はつぎのことばで意識を引っ張ってゆく。そういうスピードが嘘の絶対条件かもしれない。
「黒舞茸」という架空の画家の、架空の伝記である。書き出しから嘘であることがすぐわかる。
青嵐尾六年、戦国燐寸連立浜に生まれる。(生まれていなかったという説もある)本名束間摺八。群青尾元年、離島画をまなんでいた従兄滅法不義之臣にしたがい上京し、ともに照明太子の魚卵堂時画塾に入門。
年表(?)を**尾*年で統一し、嘘を強調している。こういう作品は、どこまでことばの調子を統一したまま嘘をつけるかが、おもしろいか、おもしろくないかの分かれ目である。尾→明太子→魚から、蛾→虫→変態とあからさまになってゆく過程がおもしろいし、最後はいつもの岩佐節という感じにまで高まっていく。
緑便尾三年には、第四十回ぐらい異形展に濃密な色彩表現による「わが腹ン中」を出品して特等席となり、注目をあびる。白狐尾六年、黄泉平坂に旅行。運よく帰国後、蛾国美術忍者養老院再興に同人として参画し、その第一回展に冥土旅行に取材した「いぬじに」二巻を出品した。琳派や軟便画(下画)はもとより、後期出鱈目派など北氷洋絵画からもまなんだこの時期の作品は豪放な筆致とにおいたつ色彩を特徴とし、蛾国画史の中でも異臭を放っている。
嘘にだまされて、「異臭をはなっている」をそのまま読んでしまう。「異彩を放つ」が正しい(?)日本語だね。
嘘を語っているのだから、そんなところで正しい日本語など守る必要もないのだけれど、嘘というのはところどころに「ほんとう」をいれていかないと嘘がつづかない。「束間摺八」だの「不義之臣」のなかにも「ほんとう」が含まれているけれど、まだまだ「観念」にあって、肉体にまでなっていない。
「緑便尾三年」の「緑便」がきいているのだと思う。「緑便」は辞書にも載っている「正しい日本語」である。そして肉体とも深いつながりを持っている。こういうことばには人間誰しも弱い。ついつい引き込まれる、という意味である。そういうことばで引っ張っておいて、「異臭をはなっている」。
「異臭を放つ」ということばはたしかに「正しい」のだけれど、歴史のなかで特にきわだっていることをあらわすことばではない。--そういうところへ、すばやく紛れ込ませ、そのあとすぐに終わってしまう手際も楽しい。
一方、この詩を読みながら私は粒来哲蔵を思い出した。粒来の詩も一種の嘘を書いている。その嘘を書くのに、岩佐も粒来も一種の「漢文体」のような表現を利用している。(最近読んだ背負い瀬尾育生の詩も漢字を巧妙につかって読者の想像力を刺激していた。)漢字と想像力、特にそのスピードについて考えてみると何かおもしろいことが見つかるかもしれない。
今回の岩佐の詩、粒来の詩などは、「和文」のしなやかな文体ではおもしろくないのかもしれない。漢文の現実を切り捨てながら飛躍する文体が、嘘にはむいているのかもしれない。
読者が、これは何? と考え、ことばを出す前に、視線はつぎのことばで意識を引っ張ってゆく。そういうスピードが嘘の絶対条件かもしれない。