海埜今日子「ゆび借景」(「交野が原」63、2007年10月01日発行)
きのう読んだ岩佐なをは「伝記」という構造を借りて、架空の人間を描いた。嘘、架空というのではないけれど、海埜今日子は「ゆび」というか肉体を借りながら、普通は見ることのできない現実を描く。今ある現実の「関節」を外し、その隙間に、いままで見えなかったものを誘い込む。詩には構築(岩佐の方法)と同時に解体(海埜の方法)とがある。(もちろん、その二つは相互に入り交じっているのだけれど。つまり構築一方、解体一方ということはなく、構築しつつ解体し、解体しつつ構築するのだけれど。)
指の庭がしきりとみちのかたちにぶれていた。はがれたくなったのかもしれなかった。
「はがれたくなった」ということばが象徴的だが、いまある形を変更するのに、海埜は「はがす」(外すに通じる)という動詞を採用する。つけくわえるよりも、そこにあるものを取り除くのである。
それは、普通に生活しているときの「意識構造」をはがすのに似ている。そして、そういうものを「はがす」とき、「意識構造」が閉じ込め、一つの形にしていたものが、ほどせ、なまなましく光る。皮膚をべろりとはがし、その内側にある血の滲んだ筋肉、内臓をさらけだすかのように。
そこにあるものたちは、まだ「構造」をもっていない。いや、構造というのはあらゆる存在の内部から自然に発生してくるものだけれど、そういう自然発生では不気味な形になる。そういう不気味さ(他人と共有できないもの)を押しとどめるように「外部構造」の「枠」があるのだけれど、その「枠」をはがすと、「外部構造」からときはなたれたもの、「外部構造」をもっていないものが、生々しくうごめくのである。
この「外部構造」をもっていないうごめき--それを海埜は「ひらがな」で書き留める。岩佐が「漢字」(漢文体)をつかって次々に「外部構造」をおしひろげ、そうすることで「内部空間」を自由にし、その「内部」に「異臭を放つ」ということを試みたのに対し、海埜は「外部構造」を「はがす」ことによって「内部」そのものを「外部」にしてしまう。うごめいているものを、「形」にとじこめずに、ただ動かしてしまう。
海埜には、肉体の、いのちの、そのうごめきに対する畏れと信頼がある。そういうものに身を任せ、ことばを動かす。うごめく「ひらがな」は「漢字」のように「形」を安定させてくれないが、その不安定なうごめきこそが、あるいはうごめきをうごかせているいのちこそが海埜が信頼している何かなのだ。
指の庭がしきりとみちのかたちにぶれていた。はがれたくなったのかもしれなかった。かたくなったかしょをもりあがらせ、跡地としてのしゃだんをさがします。こんばんでしたね、ここからさきにゆけますか。よばわって、なるべくうねりにそうようにして。さすった手相は、かれらをうしなっていたが、はじまりにむけ、かさねてなげる、たどりたい。
「漢字」ではなく「ひらがな」であること。一文字に一つの音。そこでは速度は拒まれている。飛躍は拒まれている。「さすって」(摩って)ということばが、これまた象徴的だが、そこは「触覚」の世界なのである。速度、飛躍、跳躍(これは大地を「離れること」)を拒んで、ひたすら「密着」しているものをたどる。
「はがす」というのは「密着」を意識しつつ、その内部へと入り込むことである--というようなことを考えさせられてしまう。海埜は、たぶん、そういう「哲学」(思想)をこの詩のなかで探しているのだ。
はがれましたか、そとがわです。なぞったしゃへいに、とらわれたものがおちてゆく、そうしてまたかわくのだ。
ここに、海埜の快感と苦悩がある。二つが入り混じり、運動がつづく。あらゆる哲学、思想は、常に動く。とまらない。自己否定を繰り返すことが唯一の行動である。
読者が、いや、正確に私がと書くべきか。「ひらがな」は「漢字」を求める。読んだ「ひらがな」は頭の中で「漢字」に変わる。「そとがわ」は「外側」という意識にかわる。それは「そとがわ」が「外側」にかわいてしまうこと、血塗られていた「皮膚の内部」のすぐ外側に新しい皮膚(外部)ができてしまうことでもある。
こうしたことは書いている海埜の意識の中でも起こることなのだろう。
だからこそ繰り返すのだ。詩を書き続けるのだ。かわいてしまう内部の、その「外側」となったものを常に「はがし」つづけるのだ。はがしながら、外側と内側の隙間にはいりこみつづけるのだ。