詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白鳥信也『ウォーター、ウォーカー』

2007-09-05 11:44:52 | 詩集
 白鳥信也『ウォーター、ウォーカー』(七月堂、2007年09月01日発行)
 「あっ」という冒頭の作品。その冒頭の部分。

あっ
あめ
ほほが
水滴を感じる
雲からちぎれ落ちた
しずく

 この6行を中心にして白鳥の詩について語ったら視点が狭すぎるだろうか。そうかもしれない。しかし、詩集は(特に前半は)ここに書かれたことがらのバリエーションとして私には感じられる。
 一番印象的なのは「雲からちぎれ落ちた」という行である。「ちぎれ」である。雨の一滴を雲という全体からちぎれたものであると見る視点。それはどこかでもう一度全体と一体となりたいという叫びを隠している。その叫びを、白鳥は「雨」の一滴の叫びとして聞き取るのではなく、自分自身の肉体の叫びとしても聞き取っている。「ほほ」という肉体、そして「感じる」ということばが、そうしたニュアンスを深くたたえている。雨の一滴の叫び--それは明確に聞こえるものではなく、そしてそれは「耳」で聞き取るのではなく、「ほほ」という皮膚で「感じる」もの。そこには複数の感覚の「共同」の作業がある。複数の感覚が独立してではなく、微妙な形で融合して動いている。
 雨と肉体の一体感。耳と肌の一体感。そして、その一体感の対極にある「ちぎれた」という悲しみ。そういうものをめぐる抒情が白鳥の描いているものである。
 雨と肉体の一体感(あくまで感じ)は、たとえば

からだの内側から呼応するものがある
身体は水だもの

 この2行の「呼応」ということばとなって立ち現れてくる。
 水と肉体は別の存在である。それは「触れる」(接触する)ことで「呼応する」。「呼応する」ことのなかに、「ちぎれ」を修復し、「一体」を回復しようとする精神がある。この「呼応」する精神は、より激しくなると「合流」を求める。
 「はっぷん」という作品。

水はこの俺をひっつかんで
合流しようとしている

 この作品には、また「ちぎれる」ということばが出てくる。「ひきちぎれる」という形で。
 あらゆるおとなしい水(たとえばコップのなかの水)は「水」そのものから「ひきちぎられた」存在である。それは「発奮して」「合流しなければならない」--と白鳥は感じる。その「叫び」を聞き取る精神(感情)は、しだいに高まり「俺をひっつかんで/合流しようとしている」とまで感じるようになる。

 雲から一滴が引きちぎられ雨になる。同じように白鳥のなかから何かが引きちぎられ(さらわれ)、何かになる。それが「合流する」ということもある。
 「血はダンスしている」の蚊、蚊に吸い取られた血の「合流」というユーモラスなものまである。そうしたものを描くときも、必ず白鳥は「水」を書いている。

無数の水面のダンス
無数の水面のキス
無数の血液の交じり合い

 「血液の旅」と白鳥は書いているが、宇宙(世界)における「水の旅」ととらえなおした方が白鳥の描いているものがよくわかる。宇宙に存在する水、白鳥の肉体のなかにある水--それが、「呼応し」、「合流する」。蚊は、その媒体である。「血液」は「水」の変形である。
 引きちぎられ、孤独なものが、「呼応し」「合流する」というのが白鳥の詩である。

 「微水」という作品の、美しい2行。

水のにおいにからだをひたし
しだいに私とかさなってゆくわたしがいる

 聴覚、触覚についてはすでに書いた。ここにもうひとつ、「嗅覚」がくわわる。肉体に備わった感覚が共同作業を拡げながら、ちぎれてしまった私と水とのつながりを呼び戻す。そのとき、「私」と「わたし」が一体になる。「私」と「わたし」は、「白鳥という肉体のなかの水」と「白鳥の肉体の外の水」のことである。
 二つは一体になり、重なり合う。
 その、求めても求めても、手に入れることのできない「至福」を夢みる悲しみ--そういう抒情が白鳥のことばを動かしている。


コメント
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