詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小長谷清実「眺めていた日」

2007-09-15 11:16:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 小長谷清実「眺めていた日」(「交野が原」63、2007年10月01日発行)
 小長谷の詩にはいつも不思議な音楽がある。音の繰り返しがつくりだす習慣性(?)というのだろうか、いまのことばをもう一度声に出して読んでみたいという気持ちにさせられる行がある。

かくて あるやなきやの窓を開け
開けたつもりで
あけがたの広場を眺めていた

 「あ」と「か行」の繰り返しなのだが、この作品の一番の成功(?)は「かくて」ということばをつかったことだろう。「か」という音をここにもってきたことだろう。
 というのも……。

浅くなったり 深くなったり
時に中空に跳ね上がったり
(フィルムが もうすでに
疲れ切っているせいなのか)
わたしが登場するシーンは
今日も足場があやふやである
(もう いくらかは
慣れきっているけれど)
かくて あるやなきやの窓を開け
開けたつもりで
あけがたの広場を眺めていた

 これがこの作品の1連目であるが、よく読むと「かくて」がわからない。「かくて」って、どういう意味? 「かくて」って「こうして」という意味ではなかったっけ? 「こうして」の「こう」は何?
 何が何だかわからないのだが「かくて」からはじまる「か行」と「あ」の繰り返しが、「どういう意味?」という論理を飲み込んでゆく。そんなこと、どうだっていいじゃないか、という気持ちになる。ここは「か行」と「あ」の繰り返しによる音を楽しめばいいのである。
 ただし、音といっても、それは「耳」で聞く音ではない。口蓋、のど、舌で聞く音だ。発音するときの肉体の部分が連動して聞く音だ。口の開き加減を調整して「あいうえお」と「K」を組み合わせる。「あけがた」の「が」は私は鼻濁音で読む。「ながめていた」の「が」も鼻濁音で読む。口蓋、のど、舌と書いたけれど、ほんとうは鼻でも聞いていることになる。
 この肉体が連動して音をつくりだしていくときの何かがとても気持ちがいい。肉体の内部にまでなにかがおりてくる。その感じが好きなのである。
 この感覚は、「ことばには意味がある」ということを忘れさせてくれる。「意味」(センス)を無意味(ナンセンス)に変えてしまう。ナンセンスの空間で、そのとき意味がではなく、肉体が解放される。その感じが、私は好きである。

 これはちょっとモーツァルトに似ている。モーツァルトの音楽にも「意味」はあるのだろうけれど、音楽の門外漢の私には「意味」は感じられない。ただ、その音の繰り返しが肉体を解放してくれくるということだけが、モーツァルトが好きな理由だ。しつこいくらい繰り返される音。その音がだんだん体のなかへおりてきて、こりかたまったものを解きほぐし、体の外へ出してくれる。
 小長谷のことば、その音も同じである。

 少し不平を書けば、「広場」という音を何とかしてほしかった。どういう「代案」があるかと問われれば、私には答えることはできないのだが。
 もっともこれは私だけが感じる特殊事情かもしれない。私は私の住んでいる地方で発音される「は行」は私には聞き取れない。特に「は」の「H」が聞き取れない。「浜本」「天本」は私には何時いても区別がつかない。私は「は行」の音が、そういう事情があって嫌いになっているのかもしれない。
 そういう次第で、この作品は、好きだけれど、嫌い、という不思議な印象とともに私の前にある。それを私は「眺めている」。何日か「眺めていた」。と書いてくると、なんだか「そういう次第で」が小長谷の書いた「かくて」にも似てくるようで、とても変な気持ちだ。


コメント
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