詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡本勝人『都市の詩学』(3)

2007-09-30 12:42:01 | 詩集
 岡本勝人都市の詩学』(思潮社、2007年07月31日発行)
 岡本の描く「故郷」は彼が生きた土地だけに存在するのではない。「異郷」(外国)でも「故郷」はあるのだ。たとえば「春の都会の夜の空は流れて」。岡本は夜、ひとりでルノワールを思い出している。

人物画や静物画にひいでたルノアールにも
わずかだけれども風景画があるね
かたくなった乳首のように
エロチックな色彩が塗り込められた風景画だ
サント・ヴィクトワール山に七色の虹がかかる
子どもたちは石を投げて逃げていった
言葉というものがまだ分節していなかったころ
帽子をかぶりリュックを背負って歩きつかれた画家は
五色の言葉で虹を描いた

 「子どもたちは石を投げて逃げていった」が岡本の「故郷」である。変な(?)人間をみたら石を投げる子ども。これはどこにでもいる。永遠に繰り返される光景である。子どもは大きくなって石を投げないようになるが、次から次へと生まれてくる子どもはこの感覚を繰り返す。その時間はいつもある時期にめぐってくる。そして、そういう光景を見ると人はだれでも自分が子どもであったことを思い出す。そこには子どもは変なものに対しては冷淡である、残酷であるという「永遠」がある。
 こういう「永遠」を岡本は「言葉というものがまだ分節していなかったころ」と定義している。「言葉が分節していない」という「時間」が永遠なのである。こういう時間はフランスにもあれば、画家の世界にもある。もちろん「都会」にもある。「都会」のなかにそういうものを見出し、それを「故郷」とすることで、その「故郷」の視点から「都会」を見つめなおすことで岡本は「都会の抒情詩」を書いている。
 こういうことを、岡本は、自分自身に言い聞かせるようにもう一度書き直している。

言葉がまだ無明の時代にあったころ
意識は都市という星雲をめぐり
かたい孤独は山の春雪の泥濘となって
バラ色の宵闇のなかで溶けはじめるだけだった

 「都会」そのものを描写する言葉をもたず(そういうことばは岡本のなかで「分節」していなかった、ことばとして誕生していなかった)、描けえないもののまわりをめぐる。孤独が岡本を襲い、その孤独がやがて「故郷」を見つけ、つまり「都会」のなかにひそんでいる「故郷」を見出し、そこから岡本のことばは動きはじめる。春の雪が溶けるように。そういう感じを岡本は生きてきたのだ。
 この最後の連がプロローグに取り込まれている理由は、そこに書いてある「時間」こそが岡本の出発点だからであろう。

 「都会」にある「故郷」。繰り返される時間、円環される時間(岡本は名詞形で「円環」という表現を使っているが……)とは、次のようなもののことをいう。「空のした季節は出発点となるかどうかわからない」。

夕暮れのニュースペーパーをキオスクで買った

 夕暮れ、新聞を買う。その「習慣」としての「時間」はただ繰り返され、人間を「夕暮れ」という「時間」へ引き戻す。
 その間もたとえば経済は(株式)は動いている、ものは生産され続け、同時に消費され続け、その流れはとどまることがない。その結果として、「ニューヨークでは株が暴落するたびにひとがビルから飛び降りた」というようなこともあるのだが。
 習慣として繰り返される「円環」の時間。それとは別に流れ続け、消えて行く時間。その二つの時間をみつめながら、岡本のことばは動く。岡本の思考は動く。悲しく、さびしく、切なく、つまりは抒情的に。そしてそこには少し「哲学的」な硬めのことばが入り込み、ことばの断面を冷たく厳しくする。それがいっそう抒情を引き立てる。「空のした季節は出発点となるかどうかわからない」の冒頭のように。

空のしたには季節がある
すべての事物に場所があるように
すべてのおこないに時があった
誕生と成長と死の円環
切断する生まれいずる時と死にゆく時

コメント
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