小柳玲子「煙突夢」(「六分儀」30、2007年09月15日発行)
戦争の記憶。小柳は「煙突」とともに戦争を記憶している。たぶん焼け野原に煙突だけがその痕跡を明確に残っていたからだろう。煙突が残るのは煙突が木材ではなく、煉瓦とかコンクリートでできているためだろう。煙突の高さはなくなっても、そこに煙突の瓦礫が残っている。なくならないものが残っている。そして戦争は夏に終わった。そのため秋は焼け野原の煙突とともにやってくる印象がある、と小柳は書いている。
そのなかほど。
2字下げた連の「「いつですか 夜?夕方?」/夜明け? とおびただしい時間を並べ立てる」がとても印象に残る。その部分を何度も何度も読み返してしまう。なぜ「夜明け」だけ括弧の外におかれているのだろうか。
「夜明け」は特別の意味を持っていたのだろう。特に戦争中は。「夜明け」があしたくるかどうかわからないそれは空襲で焼け野原になる、空襲で死んでしまうということがあるかもしれない、という恐怖が「夜明け」ということばを特別なものにしたのかもしれない。
「夜明け ということばがどこかに残っていた」がそのことを語っている。「夜明け」なんてことばがあるとは思っていなかった。「夜明け」があるかどうかわからないのが戦争だったということだろう。
「夜明け」は煙突のように、なくならないものだ。焼け野原になれば、その夜明けはいままでの「夜明け」とは違う。焼け野原になれば、いままでの暮らしと同じ暮らしはできない。それでも律儀に「夜明け」はやってくる。
「夜明け」ということばがある、と気づいて「若い母親」は路地へ消えて行く。「庭先」の「白いちいさなもの」は「夜明け」だったかもしれない。「夜明け」に象徴される「希望」だったかもしれない。
「思い出される日が少なくなります」と書くのは、小柳がきちんと戦争を思い出すからである。
多くの人は八月に戦争を思い出す。小柳は、それからしばらくたった「秋」にこそ戦争を思い出す。
この時差--そこに、小柳が大切に守っている何かがある。何かとは、たとえば、あることがらはすぐにはわからないということ。じっと抱き締めてはじめてわかるものがあるということ。戦争が終わってすぐに戦争がなんだったのかわかるわけではない。空襲にあったそのすぐあとに空襲がなんであったかわかるわけではない。空襲が終わって、もう安全だとわかって、それから焼け野原を歩く。そうしてそこに煙突のあとをみつける。そこに煙突があったんだと思い出す。
思い出すように、戦争が終わってしばらくたって、たとえば「夜明け」を体験する。「夜明け」というものがまだあったんだと気がつく。そういう時差が、人間には必要なのだ。すぐに何もかもがわかるのではなく、時間をかけてわかる。事件との時差ののちに何かがわかる。そして、そうやって時間をへだててわかるものこそ、ほんとうは大切なものではないだろうか。
小柳の詩は、そのことばは、そんなふうに私に語りかけてくる。
戦争の記憶。小柳は「煙突」とともに戦争を記憶している。たぶん焼け野原に煙突だけがその痕跡を明確に残っていたからだろう。煙突が残るのは煙突が木材ではなく、煉瓦とかコンクリートでできているためだろう。煙突の高さはなくなっても、そこに煙突の瓦礫が残っている。なくならないものが残っている。そして戦争は夏に終わった。そのため秋は焼け野原の煙突とともにやってくる印象がある、と小柳は書いている。
そのなかほど。
町の小児科医院には若い母親が駆け込んでくる
「庭先に白い小さいものがきています
どうしたらいいんでしょう」と訴えている
「落ち着いて」と医師はいい
「いつですか 夜?夕方?」
夜明け? とおびただしい時間を並べ立てる
どっちがあわてているのか判然としないが
いつか母親は白い小さなものを抱いて
残暑の路地に消えていくようすだった
あれはなんの夢だったか
夜明け ということばがどこかに残っていた
夜明けの町を歩いていた
2字下げた連の「「いつですか 夜?夕方?」/夜明け? とおびただしい時間を並べ立てる」がとても印象に残る。その部分を何度も何度も読み返してしまう。なぜ「夜明け」だけ括弧の外におかれているのだろうか。
「夜明け」は特別の意味を持っていたのだろう。特に戦争中は。「夜明け」があしたくるかどうかわからないそれは空襲で焼け野原になる、空襲で死んでしまうということがあるかもしれない、という恐怖が「夜明け」ということばを特別なものにしたのかもしれない。
「夜明け ということばがどこかに残っていた」がそのことを語っている。「夜明け」なんてことばがあるとは思っていなかった。「夜明け」があるかどうかわからないのが戦争だったということだろう。
「夜明け」は煙突のように、なくならないものだ。焼け野原になれば、その夜明けはいままでの「夜明け」とは違う。焼け野原になれば、いままでの暮らしと同じ暮らしはできない。それでも律儀に「夜明け」はやってくる。
「夜明け」ということばがある、と気づいて「若い母親」は路地へ消えて行く。「庭先」の「白いちいさなもの」は「夜明け」だったかもしれない。「夜明け」に象徴される「希望」だったかもしれない。
煙突が浮かび上がり
喋っているのを聴いた
あれたちはとてもコワレヤスク
あれたちはとてもミエニクイ
八月が終わると ほとんど終ってしまって
思い出される日が少なくなります
「思い出される日が少なくなります」と書くのは、小柳がきちんと戦争を思い出すからである。
多くの人は八月に戦争を思い出す。小柳は、それからしばらくたった「秋」にこそ戦争を思い出す。
この時差--そこに、小柳が大切に守っている何かがある。何かとは、たとえば、あることがらはすぐにはわからないということ。じっと抱き締めてはじめてわかるものがあるということ。戦争が終わってすぐに戦争がなんだったのかわかるわけではない。空襲にあったそのすぐあとに空襲がなんであったかわかるわけではない。空襲が終わって、もう安全だとわかって、それから焼け野原を歩く。そうしてそこに煙突のあとをみつける。そこに煙突があったんだと思い出す。
思い出すように、戦争が終わってしばらくたって、たとえば「夜明け」を体験する。「夜明け」というものがまだあったんだと気がつく。そういう時差が、人間には必要なのだ。すぐに何もかもがわかるのではなく、時間をかけてわかる。事件との時差ののちに何かがわかる。そして、そうやって時間をへだててわかるものこそ、ほんとうは大切なものではないだろうか。
小柳の詩は、そのことばは、そんなふうに私に語りかけてくる。