北川朱実「ラジオ体操の朝」(「石の詩」68、2007年09月20日発行)
抒情詩はむずかしい。読むのもむずかしいが、書くのもむずかしい。北川の詩は、私は3連目が非常に好きだ。悲しくて、切なくて、抒情詩、抒情というものがあるとしたら、こんな行にある、と感じる。
その1-3連。
「ひとりぶん」の空を感じるために、伊藤組に入ってラジオ体操がしたくなる。体がぶつからない距離で誰かがいる。そんな間近に人がいるのに、空はちゃんと「ひとりぶんずつ与えられている」。うれしくて、悲しい。この悲しいは「愛(かな)しい」かもしれない。それを愛するしかない悲しさ。そこに何か自分のものがあるということ、それを生きるということ。そういう「愛しさ」。
「大事」だったこと、用事がどうでもよくなる。その「ひとりぶん」の空の下では。肉体がある。肉体が動く。そして、それを「ひとりぶん」の空が見つめている。もちろん空が見つめるというのは、人が空を見つめるので、その反作用(1)のような力で見つめるのだが、そこには一種の交感がある。たがいに見つめあ。そして、ひとりであること。「ひとりぶん」の空であることを知る。
「ひとり」を感じる時間はいろいろあるだろうが、「朝」こめ「ひとり」を感じるのにふさわしい時間かもしれない。
北川の詩は、その後、いくつかの連をはさんで、次のように終わる。
世の中はしだいに目を覚まし、「人の物語」をつくりはじめる。朝は、まだその「物語がない」。だから「ひとり」なのだ。
--と書いたとたんに、私は、この詩がつまらなく感じる。
ちょっと聞き飽きた。そう思ってしまう。
「人の物語」「はじまる」「すこし」「ふくらんだ」「ゆっくり」「手」。どこにも新しいことばがない。そのことに苛立ちを覚える。なぜ、こんな形に美しく収斂してしまうのだろうと、その収斂の「技術」に苛立ちを覚える。美しくあることに苛立ちを覚える。抒情が、抒情まみれになってしまった、と感じてしまうのである。
もしこの詩が3連で終わっていたらどうだろうか。
中途半端だろうか。北川の思いが十分表現されていないだろうか。たぶん、北川自身はそう感じるのだろうと思う。3連だけでは、たんに目撃したことがらのスケッチに過ぎないと感じるのかもしれない。スケッチは、それに対応する「思想」を書くことで奥行きのある現実になる--そう考えるのかもしれない。
たしかにそうなのかもしれない。
しかし「ひとりぶん」の空と「男」が、空を見あげ、空から見下ろされ、交感するのように、何かをスケッチするとき、北川と対象は何らかの「交感」をしているのではないだろうか。その「交感」の美しさは、そこに「思想」をつけくわえない方が「誰のものでもない」ことばとなって、ことばそのものとなってゆくのではないだろうか。そんなふうに、作者の手からも離れていってしまうことばの力が「詩」ではないだろうか。
ことばは、作者が、自分の方へ引き寄せたり、引き止めたりしては死んでしまうものではないだろうか。
--そんなことを考えた。
(私は、この作品は3連目までで完成していると思う。したがって、4連目以降は引用しないので--最終連は引用してしまったが--、「石の詩」で読んでみてください。)
抒情詩はむずかしい。読むのもむずかしいが、書くのもむずかしい。北川の詩は、私は3連目が非常に好きだ。悲しくて、切なくて、抒情詩、抒情というものがあるとしたら、こんな行にある、と感じる。
その1-3連。
踏み切りを渡ったとたん
なにかとても大事だったことが
どうでもよくなった
伊藤組の前で
ニッカズボンをはいた男たちが
五、六人
ボリームをあげて
ラジオ体操をしている
誰のものでもない夜明けの空を
ひとりぶんずつ与えられて
「ひとりぶん」の空を感じるために、伊藤組に入ってラジオ体操がしたくなる。体がぶつからない距離で誰かがいる。そんな間近に人がいるのに、空はちゃんと「ひとりぶんずつ与えられている」。うれしくて、悲しい。この悲しいは「愛(かな)しい」かもしれない。それを愛するしかない悲しさ。そこに何か自分のものがあるということ、それを生きるということ。そういう「愛しさ」。
「大事」だったこと、用事がどうでもよくなる。その「ひとりぶん」の空の下では。肉体がある。肉体が動く。そして、それを「ひとりぶん」の空が見つめている。もちろん空が見つめるというのは、人が空を見つめるので、その反作用(1)のような力で見つめるのだが、そこには一種の交感がある。たがいに見つめあ。そして、ひとりであること。「ひとりぶん」の空であることを知る。
「ひとり」を感じる時間はいろいろあるだろうが、「朝」こめ「ひとり」を感じるのにふさわしい時間かもしれない。
北川の詩は、その後、いくつかの連をはさんで、次のように終わる。
それから
人の物語がはじまる前の
すこし膨らんだ地球を
ゆっくりと手で回す
世の中はしだいに目を覚まし、「人の物語」をつくりはじめる。朝は、まだその「物語がない」。だから「ひとり」なのだ。
--と書いたとたんに、私は、この詩がつまらなく感じる。
ちょっと聞き飽きた。そう思ってしまう。
「人の物語」「はじまる」「すこし」「ふくらんだ」「ゆっくり」「手」。どこにも新しいことばがない。そのことに苛立ちを覚える。なぜ、こんな形に美しく収斂してしまうのだろうと、その収斂の「技術」に苛立ちを覚える。美しくあることに苛立ちを覚える。抒情が、抒情まみれになってしまった、と感じてしまうのである。
もしこの詩が3連で終わっていたらどうだろうか。
中途半端だろうか。北川の思いが十分表現されていないだろうか。たぶん、北川自身はそう感じるのだろうと思う。3連だけでは、たんに目撃したことがらのスケッチに過ぎないと感じるのかもしれない。スケッチは、それに対応する「思想」を書くことで奥行きのある現実になる--そう考えるのかもしれない。
たしかにそうなのかもしれない。
しかし「ひとりぶん」の空と「男」が、空を見あげ、空から見下ろされ、交感するのように、何かをスケッチするとき、北川と対象は何らかの「交感」をしているのではないだろうか。その「交感」の美しさは、そこに「思想」をつけくわえない方が「誰のものでもない」ことばとなって、ことばそのものとなってゆくのではないだろうか。そんなふうに、作者の手からも離れていってしまうことばの力が「詩」ではないだろうか。
ことばは、作者が、自分の方へ引き寄せたり、引き止めたりしては死んでしまうものではないだろうか。
--そんなことを考えた。
(私は、この作品は3連目までで完成していると思う。したがって、4連目以降は引用しないので--最終連は引用してしまったが--、「石の詩」で読んでみてください。)