平野宏「草原のえいち」ほか(「水盤」2、2007年08月31日発行)
読み終わって不思議な気持ちになる。「草原のえいち」の1連目。
「抒情詩」として「過不足」はない。それが第一印象である。「終わった風」「果てている風」「船のようにすりよる」「歌は捨てて」「手前で」「踵を返して」「ひとりの討伐」。そのことばのひとつひとつが、とてもとてもなつかしい。70年代の「抒情詩」を復習しているような気持ちになる。70年代には、そういう「風」があり、また「草原」もあった。ただし、それは一種のフォークソングとともに流通していたものであって、ほんものの「風」や「草原」ではなく、遠く遠く夢みられた「風」であり「草原」だった。写真や映画で見た「風」と「草原」。それはひょっとすると、都会へ出てきた少年のこころの奥に残っている「風」「草原」だったかもしれない。「日本列島改造」論といっしょに消えはじめていく風景だったかもしれない。
なぜ、これが今?
「ひとりの討伐」なんて、ほんとうに今も平野は意識するんだろうか。「ひとり」ということばと「討伐」が結びつくときの、ありもしないヒロイックなこころ、そのセンチメンタルな夢。
「えいちってもんだろう」と「ひらがな」で全体をはぐらかす技法--その、あからさまなセンチメンタル否定のセンチメンタル。
ちょっとびっくりしてしまうのである。
*
山本まことは「炬火なくば」の1連目で書いている。
たしかに「うたってしまう」のだろう。「抒情」に導かれ歌いだしてしまうのだろう。自ら見つけ出した「抒情」というよりは「抒情」としてインプットされてしまったものに導かれことばが動いてしまうのだろう。何かに導かれ、その導きのままにことばを繰り出すというのは、一種の恍惚を味わわせてくれる。いい気持ちになれる。でも、そこで酔ってしまっていいのかな? 私は疑問に感じている。
「川」は、しかし、「うたってしまう」ことに少しあらがっているように感じられる。しかし、やっぱり溺れる。
1連目の最後で「まがって」という動詞の、すこし宙にういた感じ。そこで、うとやって現実へ戻ってくるか。
1連目と2連目のあいだの一行空き。これがくせものである。1連目と2連目の「断絶」。「断絶」があるということは、そこへ行くためには「飛躍」が必要だということだ。「どこにいたのかいなかったのか」というような、ずるずる地面をはいずるようなことばは捨てられれてしまう。
この転調を気持ちいいと感じるか、ぞっとするか。それはひとによってちがうと思う。私は、ぞっとする。とくに、この引用につづく次の部分に。
「だとしたら」。仮定。仮定は空想を呼ぶ。もちろん仮定をばねに現実へひきかえすこともできるのだが、山本は空想を選ぶ。1連目から2連目への断絶を、山本は空想で飛躍することになる。それが私には気持ちが悪い。
「少年」「痕跡」「うたう」。
山本が詩を書いているのではなく、「ことば」が山本に詩を書かせているのである。
3連目の途中に「その生臭い沈黙の小宮に川は吸われる」とあるのは「子宮」だろうと思って読んだが、その「沈黙の子宮」ということばも、なんともいえず「うた」なのだ。「うた」は70年代に終わった、と私は感じている。「うた」をどうやって破壊して行くか。そのことを山本や平野は、もう少し考えてもいいのではないだろうか。
読み終わって不思議な気持ちになる。「草原のえいち」の1連目。
草の葉を折ったのは
もう終わった風
均された狼藉のどこかで果てている風
(死体は 透明にきらめき)
風へ 船のようにすりよるぼくの歌は捨てて
整える合唱の手前できびすをかえして
風の起こりへ ひとり討伐のようにたどる
えいちってもんだろう
「抒情詩」として「過不足」はない。それが第一印象である。「終わった風」「果てている風」「船のようにすりよる」「歌は捨てて」「手前で」「踵を返して」「ひとりの討伐」。そのことばのひとつひとつが、とてもとてもなつかしい。70年代の「抒情詩」を復習しているような気持ちになる。70年代には、そういう「風」があり、また「草原」もあった。ただし、それは一種のフォークソングとともに流通していたものであって、ほんものの「風」や「草原」ではなく、遠く遠く夢みられた「風」であり「草原」だった。写真や映画で見た「風」と「草原」。それはひょっとすると、都会へ出てきた少年のこころの奥に残っている「風」「草原」だったかもしれない。「日本列島改造」論といっしょに消えはじめていく風景だったかもしれない。
なぜ、これが今?
「ひとりの討伐」なんて、ほんとうに今も平野は意識するんだろうか。「ひとり」ということばと「討伐」が結びつくときの、ありもしないヒロイックなこころ、そのセンチメンタルな夢。
「えいちってもんだろう」と「ひらがな」で全体をはぐらかす技法--その、あからさまなセンチメンタル否定のセンチメンタル。
ちょっとびっくりしてしまうのである。
*
山本まことは「炬火なくば」の1連目で書いている。
うたう、のではない
うたってしまうのだ
酒を絶つように
リズムを断つことはできぬから
たしかに「うたってしまう」のだろう。「抒情」に導かれ歌いだしてしまうのだろう。自ら見つけ出した「抒情」というよりは「抒情」としてインプットされてしまったものに導かれことばが動いてしまうのだろう。何かに導かれ、その導きのままにことばを繰り出すというのは、一種の恍惚を味わわせてくれる。いい気持ちになれる。でも、そこで酔ってしまっていいのかな? 私は疑問に感じている。
「川」は、しかし、「うたってしまう」ことに少しあらがっているように感じられる。しかし、やっぱり溺れる。
川もまた思考するのか
普遍だとか永遠だとか
どこにいたのかいなかったのかと
その度ごとに川は曲がって
でも、もときたように川は曲がらない
曲がるという語の最後の意味は
衰えるということでもあるんだが
1連目の最後で「まがって」という動詞の、すこし宙にういた感じ。そこで、うとやって現実へ戻ってくるか。
1連目と2連目のあいだの一行空き。これがくせものである。1連目と2連目の「断絶」。「断絶」があるということは、そこへ行くためには「飛躍」が必要だということだ。「どこにいたのかいなかったのか」というような、ずるずる地面をはいずるようなことばは捨てられれてしまう。
この転調を気持ちいいと感じるか、ぞっとするか。それはひとによってちがうと思う。私は、ぞっとする。とくに、この引用につづく次の部分に。
だとしたら
一〇〇〇のちの摘み草の少年は
昔、ここには川があったと
意識のような桃の花だって咲いていたと
カワセミや家鴨の死骸さえない
その川の痕跡をどうやってうたうのだろう
「だとしたら」。仮定。仮定は空想を呼ぶ。もちろん仮定をばねに現実へひきかえすこともできるのだが、山本は空想を選ぶ。1連目から2連目への断絶を、山本は空想で飛躍することになる。それが私には気持ちが悪い。
「少年」「痕跡」「うたう」。
山本が詩を書いているのではなく、「ことば」が山本に詩を書かせているのである。
3連目の途中に「その生臭い沈黙の小宮に川は吸われる」とあるのは「子宮」だろうと思って読んだが、その「沈黙の子宮」ということばも、なんともいえず「うた」なのだ。「うた」は70年代に終わった、と私は感じている。「うた」をどうやって破壊して行くか。そのことを山本や平野は、もう少し考えてもいいのではないだろうか。