大西規子『ときの雫ときの錘』(思潮社、2007年08月20日発行)
「パンドラの箱」という詩の2連目が不思議だ。
「ふ」。2行目と5行目に出てくる。これは何?
4連目まで読むと「ふ」がわかる。
「ふ」は「負」にもなれば「不」「歩」でもある。「負」「不」だけではなく「歩」(将棋の駒だろう)という「比喩」が混じってくることろが、大西の特徴かもしれない。将棋では「歩」はもっとも非力なもの。このとき「歩」はそっくりそのまま「負」になる。けれども、「負ける」とわかっているものも、からなず存在する。「負ける」という役割を果たす。「歩」が「負ける」ことで、「勝ち」を呼び込む戦術がある。(捨て歩という戦術)。とはいうものの、その「価値」は、「歩のない将棋は負け将棋」といわれているわりには、そんなに高くはない。なにか一種の矛盾のようなものがある。
その矛盾のようなものに刺激されて、
という2行も存在している。
「歩のない将棋は負け将棋と言ったってねえ」という気持ちと、どこかそういう人生を歩いている人間に身を寄せたい気持ちもあるようだ。ふんぎりがつかない。大西自身が「矛盾」を抱えているということだろう。
こういう矛盾を抱えた部分が、私は好きだ。割り切れないものをかかえ、それでもその割り切れないものを何とかみつめてみたいという気持ちが、そこにはある。
「ふ」という文字、「負」にでも「不」にでも、さらには「歩」にでも、(そしてもっとほかの「ふ」にでも)、なれるものがある。肉体が出会った瞬間には、それがまだ「負」「不」「歩」の区別がないもの。それをていねいに追って行く。断定せずに、揺れるがままに、どこへ行くのか追ってみる。
そういうことろに大西のよさがある。
1連目を読み返し、2連目と比較するとそのことがより鮮明になる。1連目。
ここでは「ふ」は「不」という明確な概念をもっている。
この概念を大西はいったん捨てる。それが2連目。「不」を「ふ」にかえることで、概念が簡単にかたづけてしまっている「不」とはいったい何なのかを考える。
「負」「不」「歩」。この「歩」という比喩もやっぱり概念かもしれない。そういうことを意識するからこそ、3連目に
という行が誕生する。「ふ」はほんとうは「ふふふ」。
「ふ」を「負」「不」「歩」なんて、やっぱり概念語なのだ。「比喩」なんて、概念なんだ。
この「ふふふ」が詩集全体を貫くと、とてもおもしろい詩集になっただろうと思う。あいまいなもの、肉体のなかにひそんでいるあいまいなもの、まだことばにならないものを、少しずつ追い求め、そこに概念を否定して行く肉体というものがもっと出てくるとたいへんおもしろい詩集になっただろうと思う。
肉体が出てくる前に、どうしても「負」「不」というような、見ただけでイメージが固定してしまうような概念にたよって動くことばがある。そして、その「負」「不」という否定的な、あるいは悲観的な、ようするに弱々しい概念にたよって抒情を書いてしまうことばがある。
そこが残念。
「パンドラの箱」という詩の2連目が不思議だ。
パンドラの箱を開けた日から
ふの形で一日が流れている
けれども大方の眼に映る
朝の風景は
ふをかくして
眩暈のように始まる
「ふ」。2行目と5行目に出てくる。これは何?
4連目まで読むと「ふ」がわかる。
真昼の街角で
負の人生とか
一生 歩だったとか
肩を丸めてあるいていく男の
背後から-とっても幸せ-と浴びせてやる
と どこからか
ふふふと笑い声が聞こえてくる
負負負なのか
不不不なのか
やがて
影の時間が還ってくる
ふの形をした想いが
現実と希望の間を
慈しむように漂いはじめる
「ふ」は「負」にもなれば「不」「歩」でもある。「負」「不」だけではなく「歩」(将棋の駒だろう)という「比喩」が混じってくることろが、大西の特徴かもしれない。将棋では「歩」はもっとも非力なもの。このとき「歩」はそっくりそのまま「負」になる。けれども、「負ける」とわかっているものも、からなず存在する。「負ける」という役割を果たす。「歩」が「負ける」ことで、「勝ち」を呼び込む戦術がある。(捨て歩という戦術)。とはいうものの、その「価値」は、「歩のない将棋は負け将棋」といわれているわりには、そんなに高くはない。なにか一種の矛盾のようなものがある。
その矛盾のようなものに刺激されて、
肩を丸めてあるいていく男の
背後から-とっても幸せ-と浴びせてやる
という2行も存在している。
「歩のない将棋は負け将棋と言ったってねえ」という気持ちと、どこかそういう人生を歩いている人間に身を寄せたい気持ちもあるようだ。ふんぎりがつかない。大西自身が「矛盾」を抱えているということだろう。
こういう矛盾を抱えた部分が、私は好きだ。割り切れないものをかかえ、それでもその割り切れないものを何とかみつめてみたいという気持ちが、そこにはある。
「ふ」という文字、「負」にでも「不」にでも、さらには「歩」にでも、(そしてもっとほかの「ふ」にでも)、なれるものがある。肉体が出会った瞬間には、それがまだ「負」「不」「歩」の区別がないもの。それをていねいに追って行く。断定せずに、揺れるがままに、どこへ行くのか追ってみる。
そういうことろに大西のよさがある。
1連目を読み返し、2連目と比較するとそのことがより鮮明になる。1連目。
反転の朝に向けて
しきりに闇が蓄えてるものは
不安とか不信とか
不確かなものばかりだ
ここでは「ふ」は「不」という明確な概念をもっている。
この概念を大西はいったん捨てる。それが2連目。「不」を「ふ」にかえることで、概念が簡単にかたづけてしまっている「不」とはいったい何なのかを考える。
「負」「不」「歩」。この「歩」という比喩もやっぱり概念かもしれない。そういうことを意識するからこそ、3連目に
ふふふという笑い声が聞こえてくる
という行が誕生する。「ふ」はほんとうは「ふふふ」。
「ふ」を「負」「不」「歩」なんて、やっぱり概念語なのだ。「比喩」なんて、概念なんだ。
この「ふふふ」が詩集全体を貫くと、とてもおもしろい詩集になっただろうと思う。あいまいなもの、肉体のなかにひそんでいるあいまいなもの、まだことばにならないものを、少しずつ追い求め、そこに概念を否定して行く肉体というものがもっと出てくるとたいへんおもしろい詩集になっただろうと思う。
肉体が出てくる前に、どうしても「負」「不」というような、見ただけでイメージが固定してしまうような概念にたよって動くことばがある。そして、その「負」「不」という否定的な、あるいは悲観的な、ようするに弱々しい概念にたよって抒情を書いてしまうことばがある。
そこが残念。