詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金井雄二『にぎる。』

2007-09-26 01:17:18 | 詩集
 金井雄二『にぎる。』(思潮社、2007年08月25日発行)
 「握っていてください」の1連目はおもしろい。

蛇口をひねるあなたの手で。包丁を持つあなたの手で。ミトンの鍋つかみのなかに手を入れるあなたの手で。赤ちゃんの手を握るように。やつれた母親の背中をさするように。開いた傷口にそっと薬をぬりこむように。ぼくの陽の当たらない寂しげな部分にあなたの手をそえてやってくださいませんか。

 「握る」ということばは一度しか出てこない。もちろん書かれていない「握る」は存在する。「握っていてください」は存在する。
 省略されている部分を補ってみる。

蛇口をひねるあなたの手で「握っていてください」。包丁を持つあなたの手で「握っていてください」。ミトンの鍋つかみのなかに手を入れるあなたの手で「握っていてください」。赤ちゃんの手を握るように「握っていてください」。

 ここまでは「握っていてください」を補うことができる。ところが、それがつづかない。

やつれた母親の背中をさするように「握っていてください」。開いた傷口にそっと薬をぬりこむように「握っていてください」。ぼくの陽の当たらない寂しげな部分にあなたの手をそえてやってくださいませんか。

 こんな言い方は、普通はしない。では、何を補えばいいのか。

やつれた母親の背中をさするように「あなたの手をそえてやってくださいませんか」。開いた傷口にそっと薬をぬりこむように「あなたの手をそえてやってくださいませんか」。ぼくの陽の当たらない寂しげな部分にあなたの手をそえてやってくださいませんか。

 「握る」「握っていてください」は「あなたの手をそえてやってくださいませんか」と同じ意味を持っているのである。
 金井にとっては「握る」とは「つかむ」とは違うのだ。「把握する」とは違うのだ。それは「握る」とみせかけて、実は「そえる」ということなのだ。そばにいる、ということなのだ。そばにいるという関係が、すぐに離れてしまうそばではなく、いつでも触れられる距離、何かあればすぐ支えられる--そういう関係が「握る」なのである。
 それは力で相手に何かをするというのではなく、何かあればそばにいるひとを助けるという姿勢である。
 この作品と対をなしている「きみの場所だよね」を読むとそのことがいっそうはっきりするだろう。

不思議だな
手を動かして
そっと置いてみると
ちょうどいい場所にあるんだ
子ども心になぜだろうって思っていたけれど
毎晩眠りにつく前に
あきることもなく
自分の手をその場所にあてがって
軽く触れてみるんだ
ときどき握ってみたりもするんだ
すると自然に落ちつく
ぼくの心に平和が訪れたのさ
(略)
人生にはいろいろなことがあるものさ
ぼくはときどき
角度をかえて手をのばすと
そこにはまた
不思議なことに
別なものがあって
たぶんそこはきみの場所だよね
ときどきおじゃましちゃってごめんね
ぼくにはまた
新たなる平和が訪れるのさ

 ここでも「握る」と一回きり。あとは「あてがう」「触れる」。それはやはり力で何かをするというのではない。
 そのときの感覚、握るのではなく、あてがう、触れるという感覚で「きみの場所」に手をのばす。手をのばし、「ふれる」「あてがう」。
 そして、この瞬間「ふれる」「あてがう」が実は「握る」(つかむ)というしっかりしたものにかわる。「平和」をしっかりつかむ。握って、はなさない。手は、そっと触れる、あてがうだけだが、こころはしっかりと「平和」をつかんではなさない。「平和」を握りしめる。

 「握る」とは金井にとって「手の行為」というよりも、「心の行為」なのだ。
 「手」が何かを握るとき、それは心にとっては「平和」ではないかもしれない。それがたとえセックスのはじまりだったとしても(あるいはセックスのはじまりならなおさら)、「平和」ではなく、もっと別のものかもしれない。セックスは、ある意味で戦いである。小さな「死」をもたらす戦いである。
 何かを「握る」、「つかみ取る」のではなく、そっと手をそえる。そばにいるよ、と告げる。そのとき「心」が何かをしっかりと「握る」「つかむ」。金井にとっての「平和」を。

 人に対してやさしいやさしい人なのだ。金井はきっと。そう思った。



コメント (1)
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