詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡本勝人『都市の詩学』(1)

2007-09-28 10:32:33 | 詩集
 岡本勝人都市の詩学』(思潮社、2007年07月31日発行)
 読みはじめてすぐ興奮する詩集と、読み進むにつれて加速度的に興奮する詩集がある。岡本の詩集は、私にとっては後者である。最初は、その抒情性にとまどった。抒情の性質が20年ほど前、という印象がした。なぜ、今、こうした詩が……と思った。ところが読み進むにつれて、その抒情に引き込まれた。繰り返されることで、その深みが伝わってきた。一篇の詩ではわからなかったものが少しずつ姿をあらわしてきた。--ああ、私は鈍感な読者だなあ、とつくづく思った。詩集を読み終えて、たいへんな傑作である、とうなった。最初の1行で気づかないのは、私がよほどの鈍感だからである。

 読み終えて、私が最初に思い浮かべたのは「距離」ということばである。「距離」ということばが詩集に出てくるというのではなく、「距離」というものを感じたのだ。時間と時間の「距離」、空間と空間の「距離」。その立体的で、同時に歴史的な広がり。その広がりの中、宇宙の中をことばが飛ぶ、飛躍する。ことばは存在に触れて、その内部へ侵入していくというのではなく、ことばは存在に触れ、そこから感じたものをエネルギーにし、別の存在へと飛躍する。そのときにできる時間の「距離」、空間の「距離」--それが一定している。ゆるぎがない。その美しさに私は感動した。

 こうした印象批評を繰り返しても、岡本の作品の魅力を語ったことにはならないだろう。もっと具体的に書かなければ……と思うのだが、まだ、感動がことばにならない。私のことばは岡本のことばが作り出した「距離」のなかでさまよっている。--それでも何か書きたい。そういう感じもする。ようするに、興奮して、私自身がうわずっているのである。
 しかし、書いてみる。とりええず書けることを書いてみる。--これから書くことは、私が書きやすい対象から書き進めるという事情があるので、これから取り上げる詩がこの詩集の最良のものであるということではない、とまず断っておく。そうしないと、たぶんこの詩集の魅力を壊してしまうことになるので。
 「春の人魚のマドリガル」。その冒頭。

雪の降った冬の朝
ベッドからおきあがると首にタオルをかけた
休日の歯磨きには
大きさのちがう三本のブラシを使っている
窓のそとは青空と雪
部屋にあるブルー&ホワイトの中国風染付けは
オランダで買ったデルフト焼きの花柄の皿である
首をかたむけてそとをみあげると
朝の空気が移動した

 1行目の「雪の降った冬の朝」の「ふ」の音の高低の変化の音楽が美しくて、すーっと誘われるようにひきこまれる。何気ない日常の、タオルとか歯ブラシとか、一種の「俗」の温かさのあと、冬の冷たさが「窓のそとは青空と雪」で戻ってきたあと、(この立ち帰りにも「距離」があるが)、不思議な「距離」の拡散がある。
 「青空と雪」「ブルー&ホワイト」「中国」「オランダ」。視線が類似のものを自然に探し当て、青空と雪とを青(空)と白(雪)の陶器へ飛ぶ。そして、陶器(あるいは磁器か)から中国、オランダへと距離を拡げる。その広がりのなかには「現代」から「過去」への飛躍も含まれる。歴史が含まれる。
 朝の何気ない一瞬、起きて、歯を磨こうとするそれだけの日常のなかに、空間的な広がり、時間的な広がりが、すーっと入ってくる。それは日常というよりも、勝本の肉体に入ってくるといった方がいいかもしれない。勝本の肉体のなかに入ってきた空間的な距離、時間的な距離が、勝本の肉体を解放する。そのとき肉体と意識は、ほとんどひとつのもの、区別のつかないものである。
 だからこそ、次の2行がある。

首をかたむけてそとをみあげると
朝の空気が移動した

 「空気が移動した」。「みあげる」と勝本は書いているが、空気の移動は肉眼では見えない。それが浮遊物で汚れていないかぎりは、肉眼では見えない。冬の朝の透明な空気の移動を肉眼で見ることのできる人間はいない。それなのに「空気が移動した」と書いている。--そう書けるのは、岡本が、ここでは肉眼だけで空気を見ているのではなく、精神でも空気を見ているからである。
 「青空と雪」「ブルー&ホワイト」「染付け」「中国」「オランダ」「デルフト焼き」と自在に飛躍した精神が、そのはりつめた力で朝の空気の移動を把握したのである。というよりも、岡本の自在に飛躍する精神が、朝の空気に触れて、精神自身の移動を感じ、自己の移動を空気の移動と勘違いしたのである。そこには「空気」と岡本の「一体感」のようなものがある。
 「青空と雪」「ブルー&ホワイト」「染付け」「中国」「オランダ」「デルフト焼き」と自在に飛躍することで、岡本は「朝の空気」に「なる」。なってしまったのである。

 抒情とは「雰囲気」のようなものであり、岡本が書いていることばを使えば、抒情とは、この「空気」のことなのである。
 岡本の抒情に引き込まれてしまうのは、それが「雰囲気」ではなく、「空気」にまでなっているからだろう。肉体が必要とするものにまでなっているからだろう。「空気」のなかで、精神と肉体が、しっかりと立ち上がっているからだろう。


コメント
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