詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平田俊子「『恋の山手線』二〇〇七系」

2007-09-09 09:15:30 | 詩(雑誌・同人誌)
 平田俊子「『恋の山手線』二〇〇七系」(「現代詩手帖」2007年09月号)
 とてもおもしろい。そして残念なことに、私は平田俊子のおもしろさを伝えることばを持っていない。この詩のおもしろさを浮き彫りにするには私は不適格である。それでもおもしろいと書かずにはいられない。

わたしの名前は駒込で
田端の隣に住んでいます
アパートの壁は薄いので
上野がくるとすぐわかります
不倫はいけないと思うのね
わたしは巣鴨に相談します
ほっときなさいよと巣鴨はいいます

 引用したのは2連目。

不倫はいけないと思うのね

 この「のね」がいいなあ。自分の考えなのに「不倫はいけないと思う」と言い切っていない。というか、それをいったん客観的(?)にしようとしている。思いを確認して、念押しをしている。その呼吸の「一拍」が絶妙なのだ。「一拍」おくことで、不思議なずれが生まれる。
 「不倫はいけないと思う」と「わたしは巣鴨に相談します」はつながっているのだが、直接つながっているわけではない。「駅」と「駅」を結び距離の間に線路があるように、「不倫はいけないと思う」と「わたしは巣鴨に相談します」の間には「のね」があるのだ。「のね」は線路なのだ。「わたし」の思いと「巣鴨」の思いはもちろん別のものである。それを直接つなげることはできない。だから、「わたし」の思いをいったん「のね」によって切り離し、まるで「わたし」の思いではないかのように、客観的な思いであるかのように装って、「巣鴨」に提出する。
 「巣鴨」答えは簡単。
 そんなもの、「線路」で結びつけるの、やめなさい。ほっときなさい。「上野」と「田端」(その間には複数の「駅」がある)が「くっついている」と思っているなら、それらにそう思わせておけばいいのである。「恋」というのは間にどんなものがあろうと、くっつくときはくっくつ。「不倫はいけない」というようなものを持ち込んでみてもなんにもならない。
 
 山手線の駅名が人間に置き換えられ、そのついでに(?)位置関係に置き換えられ、そのついでに、山手線の全部つながってぐるりと回ってしまう関係が「恋」の関係に置き換えられている。
 「恋」なんて、全部つながっている。誰かと誰かがくっついている。駅と駅とが線路によってくっついているのとかわりはない。そして、その駅と駅とを結んで行き来している何かと、「恋」を行き来している何かも、そんなに差はない。
 ぐるぐるまわって、めぐりめぐって、あらゆる差異をのみこんで「恋」というもののすべてが完成する。ひとつひとつの「恋」はそれぞれに「恋」だけれど、結局、くっついて、そのくっつきに焼き餅やいて、その焼き餅をやくということさえ、「恋」とは何かのなかに含まれてしまう。
 相談に乗るふりをして、自分を通り越して、相談相手が「恋人」とくっついてしまうなんてこともある。

そういえば
巣鴨は 以前は原宿でした
いつのまにか巣鴨になって
わたしの隣に住んでいました
巣鴨の 上野が好きなのです
じりじり上野に接近し
西日暮里か 日暮里か
あわよくば鴬谷の座をねらってるのです
どいつもこいつも油断がならない
上野のようなみにくい男の
どこがいいというのでしょう

 女は男に「恋」をするのではない。男も女に「恋」をするのではない。「恋」そのものに「恋」する。くっついていることに「恋」する。だから、どこかで「恋」を見れば、それを奪ってみたくなる。邪魔したくなる。そんなことは誰もが知っている。そして誰もが知っているけれど、知っているからといってそこからのがれることもできなければ、それをうまく乗りこなすこともできない。

不倫はいけないと思うのね

 せいぜいが、「のね」を繰り出し、それが「客観的」を装うことぐらいである。あるいは「同情」を誘い込むことくらいししかできない。でも、「のね」というような「客観」を装った思いには、誰も「同情」はしないなあ。

 とてもいい感じで、ふてぶてしい。若い女性には、こういうふてぶてしさ、ふてぶてしさの奥にあるさびしさは書けないだろうなあ、と思う。
 私はふてぶてしい人間というのはどうにも好きになれない感じがするのだけれど、平田は私のそばにいないから、平気で、平田のふてぶてしさが好き、と言える。
 変かな?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする