詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本博道『ダチュラの花咲く頃』

2007-09-07 10:42:42 | 詩集

 山本博道『ダチュラの花咲く頃』(書肆山田、2007年08月30日発行)
 たくさんの「数字」が出てくる。たとえば「雨の日とその翌日」。

ぼくはくたびれた
全国には二十七万人の医師がいて
入院患者は百五十万人で外来患者は八百八十万人
公務員は五百四十万人いて火災は年間六万件起きている
そして失業者が四百万人以上もいるというのに
プロスポーツ選手が一万四千人もいる

 これが詩? 確かに詩なのだ。
 医師→入院患者→外来患者は一つながりの数字だ。しかし、公務員→火災件数→失業者→プロスポーツ選手は? つながらない。つながらないものを山本はつなげてゆく。しかも空想ではなく、現実にあるつながらないものをつなげてゆく。
 何によって?
 数字によって。
 数字が、同じ「数字」であることによって、あたかも何か関係があるかのようにつながってゆく。
 これはとても不思議である。

 「数字」の不思議さは、それを簡単に「頭」の中で復唱できることである。「二十七万人の医師」。その「二十七万人」という数字を「頭」は間違えることができない。間違えてもすぐ気がつく。
 「間違いのなさ」によって、これらの行はつながっているのだ。

 しかし実際に肉眼で二十七万人の医師にであったときはどうだろう。「二十七万人」という数を間違えずに数えられるかどうかわからない。さっきあった医師と今目の前にいる医師が別人が同じ人物か、それもあいまいになるかもしれない。肉体ではわからないことが多い。間違えてしまうことか多い。しかし「数字」は「頭」のなかでは間違えない。
 「頭」と「肉体」は、そんなふうに「ずれ」を抱え込んでいる。

 「間違いない」ことと、「間違えること」。
 その間を山本は進んで行く。
 2連目。

ゴッホもダリも本物は観たことがない
美術館はいつも雨の日のように混んでいる
だからショパンも家で聴く
本棚におさまりきらなくなった詩の本は
ひまをみて段ボール箱に詰めて行く
ふだんのぼくの一日は
アポリネールに会うことではじまる
ミラボー橋の舌を流れる遠いわれらの恋?
通勤時の水道橋を流れる濁った神田川だ
川の水が逆流する大雨の翌日は
東京湾からの潮の匂いがした
ときおり見かける白い鴎に
文具店の片隅が書店を兼ねていて
それだけでも夢が凋みそうだった
少年時代の海辺の街が浮かんで来る
ここはいったいどこだろう?

 「頭」と「肉体」のずれは、日常においてこそ、強烈になってゆく。ゴッホ、ダリ、ショパン、アポリネール……。「頭」が知っているものによって、山本の肉体はあっちへ引っ張られ、こっちへ引っ張られ、行方が定まらない。
 その定まらなさに悲しみが漂う。

ぼくはくたびれた

 疲労というのは、確かに「頭」と「肉体」が分離し、しかも完全に分離するわけではなく、常に「頭」が肉体を「正確さ」で締め上げるところからはじまる。そのことが山本の詩を読んでいると、悲しみといっしょに伝わって来る。
 抒情詩はこういうところへやってきたのだ。
 今年の傑作の一冊だと思った。


コメント
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