監督 チアン・チアルイ 出演 リー・ミン、ヤン・チーカン
朝、少女が目を覚ます。戸をあけて庭に立つ。カメラは家の内部から少女の姿と、その向こうの棚田を映し出す。不思議な遠近感である。カメラはあとで棚田の全景を映し出すが、それはたいへんな広さをもっている。よく、こんなにも美しい棚田を維持しつづけているのものだと、ただただその風景に感動する。映画のなかで起きている少女の恋を忘れてしまうほど、その風景は美しい。棚田にみなぎる水が、空を、その村の空気の透明さをそのまま映し出して、静かに静かに広がっている。こんな美しい風景を、なぜ、冒頭で、わざわざ家のなかから、しかも戸口の暗い輪郭のなかに閉じ込めるような遠景でとらえるのか。予告編で、棚田の美しさを見ていただけに、この冒頭の棚田の紹介の仕方には心底驚かされた。なぜ? なぜ、こんな不思議な、まるでホウ・シャオシェンの遠近感のような映像を映し出すのか。
この理由は徐々にわかってくる。
海抜二千メートル、ハニ族の村。棚田の美しさを見るために世界から観光客がやってくる。--だが、その美しさは、少女にとっては「美しさ」ではない。あくまで家のなかからつづいている風景なのである。お婆さんと二人暮らしの、質素な生活。村で採れるトウモロコシやその他の野菜の質素な生活。つましく積み上げてきた生活。それと棚田は地つづきなのである。棚田は、きのうきょうできたものではない。村人たちが共同して長い年月をかけてつくりあげてきたものである。そこでは協同して田植えがおこなわれる。収穫も協同して行われるだろう。たがいに自分のできることをする。そういうことが「自然」にまでなってしまって、その結果としての棚田がある。それは、いわばこころの外の風景ではなく、ハニ族のこころそのものの美しさであり、また少女自身のこころの美しさでもある。
外から見れば「美しい」。けれど、その「美しさ」は少女が意識しているものではない。少女の内面、こころの美しさ、意識しない美しさなのである。こころが、そのまま外へ出て行ったとき、それが美しく見えるだけのことであり、それは少女には意識することのできないものなのである。
この家と(村と)少女と棚田(美しさ)の関係は、棚田の風景そのものではなく、少女の美しさそのものについても言える。少女はたいへん美しい。観光客がみな少女といっしょに写真を撮りたいと思うほど美しい。だが、少女は彼女自身の美しさを意識していない。無垢なこころ、おばあさんを大切に思い、村の老人を大切に思い、そして子牛をかわいいとだけ思っている無垢なこころの美しさが、彼女の顔を輝かせていることを知らない。意識していない。
少女は棚田を美しいと思ってやってくる観光客、そしてその観光客を相手に商売をする青年をとおして棚田は美しいのだと知る。同時に、少女を美しいという観光客、そういう観光客と少女を結びつけて商売をする青年をとおして、自分は美しいのだと知る。
少女はまだ見たことのない都会を美しいと感じている。エレベーターを美しいと感じている。それと同じように、ハニ族の村の外の人たちは棚田を美しいと感じ、少女を美しいと感じていることを知る。
ここから少女が少しずつ変わる。美しさを意識させてくれた青年にこころが少しずつ動いてゆく。朝、目を覚まして庭へ少女が出るように、少女のこころのなかから新しい少女が外へ出てくる。冒頭のシーンが、このとき、はじめて意味を持ってくる。少女は少女であることに目覚める。棚田と家(こころのありか)の間に歩みだす。少女は、目の前に広がる棚田を越えて、遠い遠い都会へ行くこともできる。また逆にひっそりと家のなかへ引き返すこともできる。そういう世界のありかたを冒頭のシーンは象徴していたのである。
映画は、その冒頭の象徴するシーンそのもののなかへ収斂して行く。それは悲しい。悲しいけれど、とても美しい。少女はあいかわらず棚田の村にいる。少女と出会った青年は、遠い遠い都会より、さらに遠い世界へ行ってしまった。しかし、その青年は少女と出会うことでその遠い世界へ旅立つことができた。そういう形で結晶する「愛」というものもあるのだ。
高い高い山の上に広がる棚田。千枚田というより、万枚田といった方がいいくらいの広がり。その美しさ。それに触れて、誰かがいままで知らなかった世界へ歩みだすことがあるかもしれない。それはもちろんハニ族の村に、そして少女に何かをもたらすということはないかもしれない。だが、そういう形で結晶する何かがあるのだ。
少女は、いま、それを受け止め、受け入れている。
あらゆる「人事」は、ハニ族のつくりあげてきた棚田、自然となってしまった棚田のなかに、ゆるやかに溶け込んで行く。通りすぎる雨、吹きすぎる風となって、それもひとつの自然となる。そういうものを自然にしてしまうほど、ハニ族の棚田は美しく、大きい。人の暮らしは、こんなにも豊かでありうるのだ。失恋も、悲恋も、こんなに豊かで美しくありうるのだ。
朝、少女が目を覚ます。戸をあけて庭に立つ。カメラは家の内部から少女の姿と、その向こうの棚田を映し出す。不思議な遠近感である。カメラはあとで棚田の全景を映し出すが、それはたいへんな広さをもっている。よく、こんなにも美しい棚田を維持しつづけているのものだと、ただただその風景に感動する。映画のなかで起きている少女の恋を忘れてしまうほど、その風景は美しい。棚田にみなぎる水が、空を、その村の空気の透明さをそのまま映し出して、静かに静かに広がっている。こんな美しい風景を、なぜ、冒頭で、わざわざ家のなかから、しかも戸口の暗い輪郭のなかに閉じ込めるような遠景でとらえるのか。予告編で、棚田の美しさを見ていただけに、この冒頭の棚田の紹介の仕方には心底驚かされた。なぜ? なぜ、こんな不思議な、まるでホウ・シャオシェンの遠近感のような映像を映し出すのか。
この理由は徐々にわかってくる。
海抜二千メートル、ハニ族の村。棚田の美しさを見るために世界から観光客がやってくる。--だが、その美しさは、少女にとっては「美しさ」ではない。あくまで家のなかからつづいている風景なのである。お婆さんと二人暮らしの、質素な生活。村で採れるトウモロコシやその他の野菜の質素な生活。つましく積み上げてきた生活。それと棚田は地つづきなのである。棚田は、きのうきょうできたものではない。村人たちが共同して長い年月をかけてつくりあげてきたものである。そこでは協同して田植えがおこなわれる。収穫も協同して行われるだろう。たがいに自分のできることをする。そういうことが「自然」にまでなってしまって、その結果としての棚田がある。それは、いわばこころの外の風景ではなく、ハニ族のこころそのものの美しさであり、また少女自身のこころの美しさでもある。
外から見れば「美しい」。けれど、その「美しさ」は少女が意識しているものではない。少女の内面、こころの美しさ、意識しない美しさなのである。こころが、そのまま外へ出て行ったとき、それが美しく見えるだけのことであり、それは少女には意識することのできないものなのである。
この家と(村と)少女と棚田(美しさ)の関係は、棚田の風景そのものではなく、少女の美しさそのものについても言える。少女はたいへん美しい。観光客がみな少女といっしょに写真を撮りたいと思うほど美しい。だが、少女は彼女自身の美しさを意識していない。無垢なこころ、おばあさんを大切に思い、村の老人を大切に思い、そして子牛をかわいいとだけ思っている無垢なこころの美しさが、彼女の顔を輝かせていることを知らない。意識していない。
少女は棚田を美しいと思ってやってくる観光客、そしてその観光客を相手に商売をする青年をとおして棚田は美しいのだと知る。同時に、少女を美しいという観光客、そういう観光客と少女を結びつけて商売をする青年をとおして、自分は美しいのだと知る。
少女はまだ見たことのない都会を美しいと感じている。エレベーターを美しいと感じている。それと同じように、ハニ族の村の外の人たちは棚田を美しいと感じ、少女を美しいと感じていることを知る。
ここから少女が少しずつ変わる。美しさを意識させてくれた青年にこころが少しずつ動いてゆく。朝、目を覚まして庭へ少女が出るように、少女のこころのなかから新しい少女が外へ出てくる。冒頭のシーンが、このとき、はじめて意味を持ってくる。少女は少女であることに目覚める。棚田と家(こころのありか)の間に歩みだす。少女は、目の前に広がる棚田を越えて、遠い遠い都会へ行くこともできる。また逆にひっそりと家のなかへ引き返すこともできる。そういう世界のありかたを冒頭のシーンは象徴していたのである。
映画は、その冒頭の象徴するシーンそのもののなかへ収斂して行く。それは悲しい。悲しいけれど、とても美しい。少女はあいかわらず棚田の村にいる。少女と出会った青年は、遠い遠い都会より、さらに遠い世界へ行ってしまった。しかし、その青年は少女と出会うことでその遠い世界へ旅立つことができた。そういう形で結晶する「愛」というものもあるのだ。
高い高い山の上に広がる棚田。千枚田というより、万枚田といった方がいいくらいの広がり。その美しさ。それに触れて、誰かがいままで知らなかった世界へ歩みだすことがあるかもしれない。それはもちろんハニ族の村に、そして少女に何かをもたらすということはないかもしれない。だが、そういう形で結晶する何かがあるのだ。
少女は、いま、それを受け止め、受け入れている。
あらゆる「人事」は、ハニ族のつくりあげてきた棚田、自然となってしまった棚田のなかに、ゆるやかに溶け込んで行く。通りすぎる雨、吹きすぎる風となって、それもひとつの自然となる。そういうものを自然にしてしまうほど、ハニ族の棚田は美しく、大きい。人の暮らしは、こんなにも豊かでありうるのだ。失恋も、悲恋も、こんなに豊かで美しくありうるのだ。