米田憲三「歩く人多ければ、即ち道になる」(「原型富山」143 、2007年09月01日発行)
上海の魯迅故居を尋ねたときの短歌。
静かな時間が漂っている。魯迅の、無駄の無い、正直な文体を思い出す。いつもの米田節のうねり、精神が華麗に身をひるがえす語法ではないが、そういう語法を知っているためだろうか、この静かな文体がとても不思議な感じで胸に迫ってくる。「時止まれり」ということばが出てくるが、ほんとうに時間が止まっているような静けさである。
その静けさの中、「暦、時計」「机、書架、貧しき画学生の淡き絵」と読点「、」だけがくっきりと呼吸する。魯迅は死んでいない。時は止まっているけれど、そこへやってきた米田の「時」は止まらない。止まった時に向き合って、息を飲む。それから息が声になる、息がことばになるのを待って、そっと語り出す感じ、このことばなら魯迅と対話できるだろうかというように引き出されたことばと、その呼吸のリズムが美しい。
読点「、」によって、読点の無言によって、読点の沈黙によって、米田は魯迅の残した静けさ、静寂と向き合っている。読点「、」のなかに、上海の街の、ひっそりと奥まった場所にある魯迅の住居が浮かんでくる。
そして、いくつもの歌のあとの次の三首。
私は、ふいに涙が出てきた。
人はだれでも自分のことばで何かを語ろうと思う。(この文章書いている私も、私のことばで語りたいからこそ書いている。)ところが自分のことばで語る必要というのは、いつでもあるわけではない。他人のことばであってもいい。他人の生き方であってもいい。それが正しいと思うなら、それに「和す」。(これは「従う」とは違う。)それでいいのだ。
自分のことばではなく、魯迅のことばを感謝の印として口にする。同じことばをまた「杜さん」(ガイドである)が中国語で語る。そのときの呼吸。そのなかに通い合うものがある。竹内好訳では「もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」(岩波書店、魯迅選集第一巻)
米田は自分のことばを捨てて、ここでは魯迅のことばをそのまま「(5)7・5・7・7」のなかに取り込んでいる。一首だけ取り出したとき、これを「米田の短歌」と呼んでいいのかどうか、短歌の門外漢である私にはよくわからない。けれども、短歌の門外漢である私は、この歌がとても好きだ。
魯迅の住んでいた家を訪ね、その空気を呼吸し、時間を呼吸し、一瞬、米田は魯迅になる。そういう瞬間の透明な呼吸、読点「、」のようなことばにならない一瞬--そのなかに、あるこころが通い合う。それがいい。その瞬間がいい。
上海の魯迅故居を尋ねたときの短歌。
魯迅逝きて七十年は過ぎたるに故居の暦、時計はそのときのまま
五時二十五分 魯迅故居の時計は永久にその時を指す
その日のまま時止まれり机、書架、貧しき画学生の淡き絵などにも
静かな時間が漂っている。魯迅の、無駄の無い、正直な文体を思い出す。いつもの米田節のうねり、精神が華麗に身をひるがえす語法ではないが、そういう語法を知っているためだろうか、この静かな文体がとても不思議な感じで胸に迫ってくる。「時止まれり」ということばが出てくるが、ほんとうに時間が止まっているような静けさである。
その静けさの中、「暦、時計」「机、書架、貧しき画学生の淡き絵」と読点「、」だけがくっきりと呼吸する。魯迅は死んでいない。時は止まっているけれど、そこへやってきた米田の「時」は止まらない。止まった時に向き合って、息を飲む。それから息が声になる、息がことばになるのを待って、そっと語り出す感じ、このことばなら魯迅と対話できるだろうかというように引き出されたことばと、その呼吸のリズムが美しい。
読点「、」によって、読点の無言によって、読点の沈黙によって、米田は魯迅の残した静けさ、静寂と向き合っている。読点「、」のなかに、上海の街の、ひっそりと奥まった場所にある魯迅の住居が浮かんでくる。
そして、いくつもの歌のあとの次の三首。
四辻大人(うし)が朗読をして謝意とせしは魯迅の「故郷」の結びの部分
若き杜さんも諳じていて和したるは原語の「故郷」の同じ結びを
魯迅語録「地に道はなし歩く人多ければ即ちそれが道になる」
私は、ふいに涙が出てきた。
人はだれでも自分のことばで何かを語ろうと思う。(この文章書いている私も、私のことばで語りたいからこそ書いている。)ところが自分のことばで語る必要というのは、いつでもあるわけではない。他人のことばであってもいい。他人の生き方であってもいい。それが正しいと思うなら、それに「和す」。(これは「従う」とは違う。)それでいいのだ。
自分のことばではなく、魯迅のことばを感謝の印として口にする。同じことばをまた「杜さん」(ガイドである)が中国語で語る。そのときの呼吸。そのなかに通い合うものがある。竹内好訳では「もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」(岩波書店、魯迅選集第一巻)
米田は自分のことばを捨てて、ここでは魯迅のことばをそのまま「(5)7・5・7・7」のなかに取り込んでいる。一首だけ取り出したとき、これを「米田の短歌」と呼んでいいのかどうか、短歌の門外漢である私にはよくわからない。けれども、短歌の門外漢である私は、この歌がとても好きだ。
魯迅の住んでいた家を訪ね、その空気を呼吸し、時間を呼吸し、一瞬、米田は魯迅になる。そういう瞬間の透明な呼吸、読点「、」のようなことばにならない一瞬--そのなかに、あるこころが通い合う。それがいい。その瞬間がいい。