詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小杉元一「瞑想するテロリスト」

2007-09-13 10:21:12 | 詩(雑誌・同人誌)
 小杉元一「瞑想するテロリスト」(「ESO」13、2007年08月31日発行)
 ときどき好きで好きでたまらない、という1行に出会うことがある。たとえば小杉の詩の2連目。

おとこは下穿きを洗う手を止め
痛い手を下げながら
声を上げる
静かに水はそこで改行し

 「しずかに水はそこで改行し」。「改行」ということば。それがこんなふうにつかわれるとは思いもしなかったが、実は、私の驚きはその「改行」というつかい方そのものに対する感動ではない。
 きのう9月12日の「日経新聞」のコラム「春秋」に「共感覚」のことが短く紹介されていた。黒いインクで印刷された数字の5が緑に見える。半音高いドの音を聞くと青い色が見える--というような、感覚のリンクのことを「共感覚」というらしい。
 うまくいえないが、それに似た感じだ。
 「静かに水はそこで改行し」という1行に触れた瞬間、私は不思議な音を聞いた。透明な音楽を聴いた。それがCかGか、ということはわからない。透明な音がすーっと頭の中を横切って行き、世界が晴れわたった。
 小杉がこの1行で何を言いたかったのか、何を伝えたかったのか--そういうことはまったく考えず、ただ、その瞬間に聞こえてきた音に、ことばの音ではなく、抽象的な、それこそバイオリンでも、ピアノでもなく、そういう「物体」に触れていない「音」(沈黙の奏でる音)にこころがひかれた。
 「意味」「内容」などまったく関係がない。

 こういうことがときどき私には起きる。

 詩を読みながら、実は詩を読んでいない。「意味」を読んでいない。「内容」を読んでいない。
 ほんとうは説明できないものにひきずられて、ある作品を「好き」と感じ、ある作品を「嫌い」と感じる。そして「好き」と感じて繰り返し読んでいて、ようやく「意味」とか「内容」に出会う。「一目惚れ」したあと徐々に相手のことを理解しはじめるのに似ている。「一目惚れ」に理由がない。それと同じように、詩のある1行を好きになるのに理由はない。嫌いになるのにも理由はない。強いて言えば、小杉の1行に「音楽」を感じたように、ことばを読んだ瞬間、音楽を感じるものが私は好きなのだと思う。

 小杉の詩の感想をつづけるなら……。といっても、ほかに実は書くことがないというのが正直なところなのだが……。
 その1行で聞いた「音楽」がつづかない。「音」の気配はするのだが、「音」にまでいたっていない行がつづく。そうすると、なんだか気が滅入るのである。さっきの「音楽」は私だけに聞こえて、小杉には聞こえないものなのか。私だけが感動し、小杉は自分自身の書いた行に感動していないのか、と考えはじめてしまう。
 こういうことを、「つまらなくなる」と私は言っている。突然、詩がつまらなくなるのである。
 小杉にとっては、私の書いていることは理不尽なことにしか感じられないだろうと思う。この文章を読んでいる他の人にとってもそうかもしれない。そうと、うすうす(というより、はっきりと)感じながらも、私は小杉の1行に感動してしまった。でも、あとの行には感動しなかった、としか書けない。

 小杉には申し訳ないが、そういことがあるということを明確にしておきたくて、小杉の詩の一部だけをつかわせてもらった。


コメント (2)
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