詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川島洋「再会」

2008-04-05 11:19:50 | 詩(雑誌・同人誌)
 川島洋「再会」(「すてむ」140 、2008年03月25日発行)
 不思議な詩である。

 父が死んで 会う機会もめっきり少なくなった。それでも夢で一度 うつつで一度あっている。

 という前文があり、夢の描写があり、現実の描写がある。夢は夢だから、もちろん現実にはありえないことが書いてある。ありえないことなのだが、そういうことがあってもいい、という感じがしてくる。ゆったりした、気持ちのいい文体である。

 何か話しかけていなければどこかへ消えてしまうのではないかと思った時 父がまた口をひらいた。あのな とうさんな ゾウムシになるよ。「ゾウムシ?」ああ。頑丈な虫だなあれは。かなり硬いぞ。地味だけどよく見ると可愛いな。おっとりして、死んだふりもうまいんだ。ゾウムシってなかなかいいと思ってな。あとは何ゾウムシがいいのか ということなんだが。
「どうせなら オオゾウムシがいいんじゃないかな」と僕は答えた。

 いわゆる「輪廻」について書かれているのだが、ゾウムシというあまり知られていないものに生まれ変わる、というのがなんともおかしい。カブトムシとかクワガタとか、とんぼとか蝶々ならすぐにわかるのに、ゾウムシ。私は昆虫はほとんど知らないので、思わず調べてしまった。(そのため、感想を書くのも遅くなってしまった。)
 死んでしまった父と、そんな普通は知られていないような(と、私は思う)昆虫を話題にして話ができるのは、父も川島も昆虫に詳しいのだろうか。そうではなくて、川島だけが昆虫に詳しいのだけれど、その昆虫に対する詳しさ、温かい視線のようなものが父に対して欠落していたと感じて、その反作用のようにして、そんな対話が生まれたのだろうか。
 どちらにしろ、いま、そこにあることば、夢のなかのやりとりは、とても温かい。とてもゆったりしている。
 「死んだふりもうまいんだ。」がとてもこころに響いてくる。父は死んだのか。それとも死んだふりだったのか。死んだふりだったら、いいのだけれど。父は、そういう川島の思いをすくいとるようにして「死んだふりもうまいんだ。」といったのか。
 こういう、互いのこころの、作用・反作用、相手のことを思っての意外なところからのことばの登場こそ、「再会」を強く印象づける。昔はわからなかったものが、ふたたび出会うことで、突然、わかるようになる。突然和解する。出合いか、再会が、過去を美しく整えるのである。
 そいういう父と子の、夢のなかでの若いのあと、現実が描かれる。

 二度目に父と会ったのは それから一年近くあとだ。散歩に出かけた三ツ池公園の 蓮の花を見おろすベンチの上に父はいた。もう言葉を交わすことはできなくなっていた。家に連れて帰ろうかとも一瞬考えたが 思い直した。手近な樹の枝先に乗せてやると 父はそこに おっとり しっかり掴まった。

 2連目の、夢のなかで父が言った「おっとりして。」が川島の表現として復活している。その、ことばの「再会」の仕方のなかに、川島と父との対話のすべてがある。あることばが、ふっと口をついて出てくる。それは川島のことばであるけれど、そのことばの奥には父のことばがある。あ、父はこんなことを言っていたな、という思い出がある。
 特別な強調もなく、しずかにおかれていることば--そこに、不思議な温かさがある。交流がある。いいなあ、と思う。


コメント
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