詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八木幹夫『夜が来るので』(2)

2008-04-02 10:32:33 | 詩集

 八木幹夫『夜が来るので』(砂子屋書房、2008年04月09日発行)
 八木のかなしさ(愛しさ、哀しさ)はさまようところにあるのかもしれない。
ことばに頼って(ことばの可能性に賭けて)、ことばの突き進むままにどこかへ行ってしまう。その結果として、自分を超えて、自分でなくなる--そういう詩ではない。そういう詩の対極にある。
 ことばは自己を超える瞬間があるけれど、そのときも軸足は「日常」に(あるいは「現実」に)とどまっている。軸足をきちんと守りながら、片方の足を伸ばせるだけ伸ばしてみる--そういう「冒険」の哀しさ。それは、別の角度から言えば、もし、他人の「領域」があるとしても、その「領域」のなかに完全に侵入し、踏み荒らしてしまうのではなく、ちょっと足跡をつけて、「やってきましたよ」と挨拶をする感じなのである。あいさつだけです。私は、すぐにおいとまします。そういう感じである。
 その感じが非常によくでているのが「ミドリのハイキング」。ミドリさんと課長の情事。ちょっとした行き違いがあって、課長は死んでしまい、ミドリさんは生きている。そして、課長の葬儀。会葬でのあれこれのことばを書き留めている。

課長の死は
ミドリさんとのラブホテルの個人的なトラブルが
原因だろうか
(あのねミドリ 緑のうねり ハイキングは楽しかったね)
ホテルの一室
睡眠薬と一緒に飲んだウイスキーが
遺書めいた紙片を汚していた
会葬に並んだ耳のうしろから
このカッコ書きの言葉は前後左右にひろがった

 「前後左右にひろがった」。これが八木の特徴である。どこかへ一直線に、ことばの推進力を借りて進むのではなく、前後左右にひろがる。前後左右を自在にひろがり、ゆれる。それは、人生はそんなふうに前後左右に余裕を持っているんだよ、という感覚に通じる。人生は前後左右に余裕を持っている。その余裕の部分へはみ出して、そのはみだしたところから軸足をみつめなおしてみたりする。
 ちょっと奇妙に見えるね。軸足の人生は。

会社のために働き通したんだよ
会社と心中かい
みんな自分のためさ
そうじゃない人間もいることはいるけどね
会葬の脚がすこし動く
誰と行ったハイキング
子供 奥さんが残されてどうなるのかねえ
愛人のミドリさん
彼女は田舎へ帰ったそうだ
人事の中にみどりは見えない
非情だというが人事は淡々としている
淡々とクビになり
淡々と事は運ばれる

 もちろん、人生には前後左右に余裕があるから、軸足を抜いて、その余裕の部分で生きることもできる。ミドリさんも田舎へ帰って、そこで生きて行くことができる。田舎へ帰っていきながら、どこかで田舎へ帰らずみんなの記憶の中にとどまりつづけるミドリさんもいるだろうけれど。そんなふうな軸足の残り方もあるだろうけれど。あるいは、そんなふうにミドリさんを思い出すという人生の愛し方もあると言えばいいのだろうか。ミドリさんの立場からではなく、ミドリさんを描いている八木の方から言えば、そんなふうにミドリさんを思い出し、そんなふうにミドリさんをそっと生き延びらせる--そういう愛し方、いとおしみかたがあると言えばいいだろうか。

焼香をすませて
オーイみんなどこへ行くんだ
あのみどり 葬儀場の大きな欅
みどりのうねり
ハイキング
闇空に大きくゆれるみどり
わからないことばかりだ
役に立つ人間であることをやめると
いっせいに夜の毛細血管からみどりが噴き出す
ミドリさんは五月の故郷で生きていくよ
きっと

 このおだやかなひろがり、人生の肯定の仕方に、八木の愛しみ、哀しみがある。愛と哀の重なり合ったひろがりがある。
 あるとき人は愛に軸足をおいて哀に足を伸ばす。あるとき人は哀に軸足をおいて愛へと足を伸ばす。くりかえしているうち、その両方が軸足になって、人生が少しずつ前後左右にひろがって行く。
 そして、人生が好きになって行く。人間を好きになって行く。そんなふうに、読者の心をひろげてくれる。それが八木の詩だ。



八木は、下のような本も書いています。

仏典詩抄 日本語で読むお経

松柏社

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