詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺武信「記憶の負荷」

2008-04-09 02:11:59 | 詩(雑誌・同人誌)
 渡辺武信「記憶の負荷」(「AFTER HOURS OF AN ARCHITECT 」9、2008年03月30日発行)
 渡辺武信のことばは不思議である。社会というものを常に含んでいる。どんなことばも社会を含んではいるのだが、渡辺の社会は、「常識的社会」である点がとてもかわっている。(たとえば鈴木志郎康の社会はきわめて個人的であるし、清水哲男の場合は新古今的抒情まみれの社会である。)
 「記憶の負荷」の1連目。

死者たちは既に遠い60年 6月15日から
時を追って並び続けているが
彼ら彼女らを思い出すことはない なぜなら
忘れられたことのないものは思い出せないからだ

 「60年 6月15日」がすっと割り込む。こういう「社会的日時」を書くことに対して渡辺は抵抗感を持っていない。あまりにもまっとうな日にちなので、私はびっくりしてしまうが、このまっとうさこそが渡辺のことばの特徴である。
 2連目は、もっとおかしい(?)。--おかしいということばしか思いつかないのだが、たぶん先に上げた鈴木や清水なら絶対に書かないことば(けれども、ごく普通のひとが書くかもしれないことば)があふれている。つまり、渡辺は、詩とは無縁(?)であるようなひとがつかうことばをつかって詩を書いているのである。
 2連目の途中。

おいおいと老いを意識してからは
死者たちのクヨクヨ供養したり、オイオイと嗚咽する暇(いとま)も失せ
ついつい追悼の一句を詠んで片付けるしかない

 この駄洒落のようなことばの羅列。それは最終連にも出てくる。

いずれにせよ それは 酒乱でも癒せない修羅であり
生き残った者が歩む他ない未知の道なのだろう

 「酒乱」と「修羅」、「未知」と「道」。こうしたかけはなれたものがひとつの音のなかで偶然出会うその瞬間の、意識のゆさぶり。そういうところに確かにひとつの詩のあり方はあるにはあるのだが、そうした音の楽しさ(不思議さ)を追い求めるというのであれば、ここに書かれていることばはあまりに凡庸ではないだろうか。あたりまえすぎないだろうか。--詩、と定義するには、ちょっと恥ずかしい感じがしないだろうか。
 渡辺は、そういうことに対して恥ずかしさを感じない人間なのである。
 どういえば的確なのかわからないが、たぶん、あまりにも育ちがよすぎて「社会」というものを肌で感じてはいないのだ。「社会」とはこういうものである、ということを自分の肉体で感じるというよりは、たとえば家族(両親)が「世間のひとは、こんなふうに生活しているのよ」というのを聞いて、つまり、ある「距離」をへだてて見るものなのである。「庶民」というものは(社会というものは)、こういうことばで出来上がっている、ということを聞いて学び、それにあわせてことばを動かしている感じなのである。
 逆に言えば、渡辺の実際の生活は「社会」とは触れ合っていない。そのために「社会」で流通することばをつかうことで「社会」のなかに自己を組み込んでゆく--そういう感じでことばを動かしている。
 「社会」のひとびとは「おいおいと老い」というようなしゃれをつかう。「ついつい追悼」というようなことばのつかい方をする--そういうことばにあわせて渡辺は渡辺自身を動かしている。そういうことばをつかうことで「社会」の一員であることを偽装(?)する。
 偽装としての「社会」というものがあり、その偽装のなかで、渡辺は「社会人」となる。「独自のことば」は排除される。あくまで、「流通していることば」を手がかりにことばを動かしていく。そのなかに「社会」が「社会」として浮かび上がる。その社会が「建前」か「本音」か、よくわからないが、(というのもひとはしばしば「建前」の形で「本音」を言うからである)、その「よくわからない社会」が、清水哲男の「抒情詩」よりもときに痛切に響く。自分自身に対するかなしみではなく、「社会って、世の中って、なんでこんな具合なのかなあ」というかなしみである。そんなふうにしてかなしみながら、「社会」と和解する--そういう形での、詩、そのことば……。

 渡辺は「落語」も好きなようである。
 「落語」と渡辺の詩の関係を追ってゆくとなにかおもしろいことが書けるかもしれない。「落語」には「庶民」が描かれているが、それは現実の庶民ではなく、「話芸」にまで高められた「庶民」である。落語の登場人物に似た行動をするひとはいるが、「落語」の登場人物そのものは現実にはいない。現実の人間を題材に、それをある種の「芸術」(ゆるぎない典型)にまで高めたものが「落語」である。それは、いっしゅの「芸術としての庶民」である。この「芸術としての庶民」(芸術としての社会)を、私は、「偽装」と仮に呼んだのである。
 そこには「典型」がある。「普遍」がいきなり、存在する。
 個別であること(極私的であること)から、遠く離れて、ただひたすら「典型」として「社会」が存在する。「社会」のなかで語られる「ことば」がある。
 これは「現代詩」の基準(?)から見ると、とても変わっている。非常に風変わりである。



 余談といっていいのかどうかわからないが。
 渡辺は映画が大好きである。そして、渡辺が好きな映画というのは、やはり「典型にまで高められた社会」としての映画である。「 8号」で渡辺は2007年の映画ベスト10を掲げている。「今宵フィッツジェラルド劇場で」「恋とスフレと娘と私」「ホリデイ」などは「典型としての社会」である。特に、「恋とスフレと娘と私」「ホリデイ」で描かれている「社会」は、現実の庶民とは無縁のものである。現実はそんな具合にはなっていない。そういう生活を、普通のひとはしていない。だから、その映画がどんなにおもしろおかしくても、普通のひとは「絵空事」(偽装の社会)と見てしまう。だから普通は「ベスト10」などには選ばない。親身に感じられない、からである。(「今宵フィッツジェラルド劇場で」は「芸人」という特別の世界であるから、まあ、許容できるし、映画の完成度も非常に高いから「ベスト10」に選ぶ。)

 こんなことは書いてもしようがないことなのかもしれないけれど、こういう「ずれ」に接するのは、私はなんとなく楽しい。
 「現実」(?)というのは、ひとによって、こんなにも違うのだ、と感じてしまうのである。現実にはどうかよくわからないが(渡辺の私生活を私は知らないが)、あ、上流社会の人間から社会を見ると、こんなふうに見えるのか、と私は驚いてしまうのである。






渡辺武信詩集 続 (2) (現代詩文庫 第 1期186)
渡辺 武信
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする