詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

加藤郁乎「乙酉稾」、岡井隆「二〇〇七年水無月の或る夜」

2008-04-27 02:10:57 | その他(音楽、小説etc)

 加藤郁乎「乙酉稾」、岡井隆「二〇〇七年水無月の或る夜」(「たまや」04、2008年05月12日発行)
 加藤郁乎「乙酉稾」、岡井隆「二〇〇七年水無月の或る夜」の俳句、短歌をつづけて読んだ。とても不思議な感じがした。(きのう、岡本勝人の詩について「不思議」と書いたばかりなので、自分のことばの数の少なさにちょっと嫌気を覚えた。)
 二人の作品は、とても自在である。五・七・五、とか五・七・五・七・七というものにこだわっていない--というと変な言い方になるのだが、五・七・五、あるいは五・七・五・七・七になりさえすれば、それが俳句、それが短歌という感じがする。ことばはが五・七・五、あるいは五・七・五・七・七なのに、私の肉体のなかにはそれが五・七・五、あるいは五・七・五・七・七のリズムとして響かない。逆に、五・七・五、五・七・五・七・七でありながら、そのリズムを破壊している。そして、それが破れているところに、あ、新しいことばを聞いた、という感じがする。私自身のことばが攪拌されたという感じがする。それが、とてもうれしい。
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仇なしに尽してそなた切山椒
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 「そなた」。なんでもないことばなのかもしれない。しかし、手応え、手触りを感じる。ことばではなく「もの」に触った感じがする。それが意識に「障る」。これはなんだろう。繰り返される「さ行」の音。しかし、実際は「し」は「さんしょう」の「し」と同じで「S」音ではない。「そなた」の「そ」だけが「S」音であることと関係しているのかどうか、私にはよくわからないが、いったん、「そなた」で私はつまずくのである。そして、そのつまずきを私は「存在感」と感じる。その存在感があって、切山椒がいっそうくっきり見えてくる。「そなた」がなければ(ほかのことばだったから)切山椒は私にはリアルには感じられないかもしれない。実在感のあるものには感じられないかもしれない。
読み返す書なく朝より蒸鰈

 「書」は「しょ」と読ませるのだと思う。ここで、私のリズムは崩れる。そして、その崩れたリズムのなかにある「し」の音と「蒸鰈」の「し」が不思議に呼応して、私の意識・感覚のなかでは鰈がくっきりと浮かび上がる。
 リズムは、とても読みにくい。読みにくいからこそ、読みたいという気持ちになる。
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終のこと破礼がましく昼かはづかな
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 「破礼がましく」は「はれがましく」と読ませるのだろうか。「はれがましく」の「は」が「ひる」「かはづ」と呼応する。「かはづ」は「かわず」と読むのだが、前の音にひきずられ「は」と読みそうになる。そのときの不思議な破調。(これは、たぶん加藤が感じない破調。教養のない私だけが感じる破調だろうけれど。)
 私の書いている感想は、たぶん感想にもなっていない奇妙なものだ。私が感じるのは、破調と、破調によって浮かび上がることばの強さである。破調することで、ことばが「もの」にかわる。その強い感じが、あ、これが詩というものかという思いを引き起こす。

 岡井の短歌は、これも不思議である。
 あたりまえのことだが、俳句より長い。そして、その長いリズム、うねりのなかに、伝統(?)とは違うリズム、破調を感じる。そして、その破調が、あ、これが現代というものかという気持ちを引き起こす。
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君を措きて旧友はない筈なのに君の勤めゐしビルを見上げつ
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 「筈」。このことばの音の、何とも言えない響きに私はうっとりする。え、こんなとき、こんなことば? という驚きとともに。「筈」は「口語」というわけではないかもしれないけれど、私のなかでは短歌のリズムに乗らない。どちらかというと「俳諧」的な音である。そして、その音があるがゆえに、なにか、この短歌は新鮮なのである。ほかのことばが強靱に感じられるのである。「措きて」ということば、その古い(?)感じのことばが、とてもとても強く感じる。それ以外にことばはないという感じで響いてくる。「措きて」ということばが「もの」のように、手ごわいものになって立ち上がってくる。そして、その向こうに「君」もくっきりと見えてくる。
 違和感が意識をひっかきまわし、ことばを洗い直すのだ。
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敵だつた男が急に崩れたり屍(しかばね)を析(ひら)くメスの重たさ
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 「急に」がやはり私には「破調」に響く。そして、とても新鮮に響く。
 あ、岡井にとって、短歌のリズムなんて、もうどうでもいいのだ。そういうものを超越しているのだ。ほら、かぞえてみて、五・七・五・七・七と短歌の形式に入っているでしょ? リズムはご自由に、と言っている感じがする。
 短歌は、そういうところまで来ているのかなあ。進んでいるのかなあ。詩よりもはるかに前へ行っているなあ、と思う。いや、これは岡井だけの「前衛」なのかもしれないが。それにしても、すごいものだと思う。いったい岡井は短歌をどこまで運んでゆくのだろうか。





前衛短歌運動の渦中で―一歌人の回想(メモワール)
岡井 隆
ながらみ書房

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