詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中庸介「わかることわからないこと」

2008-04-20 09:06:42 | その他(音楽、小説etc)
 田中庸介「わかることわからないこと」(「葛西琢也先生 御定年記念文集」葛西琢也先生御定年記念実行委員会2008、2008年03月19日発行)
 昭和50年に聖徳学園小学校に入学、「みずほ組」の同級生有志が先生の定年退職にあわせて発行した文集(?)である。私は幼稚園というものを知らず、入学前日に自分の名前のひらがなだけを教えてもらって学校へ行ったので、池田友子の書いている文にとても親近感を覚えた。私は「窓際のトットちゃん」状態で、関心のあることにしか集中できなくて、関心があることが発生すると授業をひっかきまわしてしまうこどもだったなあ、とふと思い出した。2人でつかう机になじめず、3年生くらいまで、テストのときには教室の隅っこで、椅子を机代わりにし、床に座り込んで答えを書いていた。他人の邪魔をするのは得意だったが、他人に邪魔されるのはとても苦手だったのである。と、いうようなことがまざまざと思い出されてくる。

 田中庸介は「わかることわからないこと」というタイトルで先生の思い出を書いている。「わっかるかなあ、わかんねぇだろうなあ」という当時の流行語を口にしながら授業を進める先生の様子、そしてそこから学びとったものをていねいに紹介している。そして、それが田中の詩をささえている。田中のことばの基本となっている。

 「みんな」というものを「わかる」ということは、世界との折り合いをつけ、その「みんな」がどのように「わかって」くれるかを想像することでもある。そんな想像力があってこそ、説得力のある表現が可能なのだ。

 表現の場合には、まず表現すべき内容の本質をしっかりと「わかる」必要があり、そして、その「わかった」内容を、「みんな」が「わかる」ように受け渡すことになる。そうやって、自分が新しいことを知った興奮を、はじめて大向こうのものとすることができるのだと思う。

 「わかる」と「みんな」。たぶん、「みんな」の方に思想の重心がある。「みんな」にたどりつくために(とどくために)、何をどうするか。それをつなぐものとして「しっかり」という思想を田中は手に入れている。

 テンポが遅くても、しっかり考えぬいて、しっかり説得する。そんな「しっかり」ということほど、この超高速時代から遠いことはない。しかし、自分の新しい考えを次々と形にしていくためには、「あー知ってらあ」などと軽くあしらってしまうのではなく、「しっかりわかる」深さがないとやっていられない。

 田中は田中の詩を引き合いに出していないが、田中の詩は「みんな」「わかる」「しっかり」が基本である。「みんな」が「わかる」ことばを「しっかり」組み立てて、自分が「わかった」ことを「しっかり」読者に「わからせる」。そのためにことばを選んでいる。その努力をおしまない。
 ここに書かれている文章もそうだが、ことばの動きがいつもとてもていねいである。ていねいさは「しっかり」からきている。「しっかり」をこころがけるというのは、とても面倒なことである。面倒なことであるけれど、手を抜かずに、それこそしっかりと手をかけている。その、手をかける手の、そのぬくもり。そういうものが、田中のことばにはいつもいつも、存在している。

 葛西先生は田中に「わっかるかなあ、わかんねぇだろうなあ」ということば(授業)をとおして「わかる」と「みんな」という種を蒔いた。田中は、その種から「しっかり」という実を結んだ。そして、その実は、日本語の大地にふたたび蒔かれ、詩という花を咲かせた。
 この継承と発展の形はいいなあ。
 教えること、学ぶこと、というのは、こんな形で引き継いで行かれるものなのだ。




田中の詩を読むなら。

山が見える日に、
田中 庸介
思潮社

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