海埜今日子「みずのね、」(「すぴんくす」15、2008年03月20日発行)
ことばとことばが呼び合う。その呼び合うことばに誘われるようにして、ことばが意識しなかった領域へと進んでゆく。そこには、きのう触れたたなかあきみつの詩とはまた別の「呼吸」がある。
「みずのね、」の書き出し。
「こえにならない沼がきこえる。」
声にならない声が聞こえる--というのはふつうの言い方である。それが「こえにならない沼がきこえる。」になった瞬間に、常套句にひそんでいた「こえ」と「きこえる」の「こえ」同士が響きあって、不思議な感じがする。その「きこえる」沼というのは、近くにはない。近くにあれば見える。遠いから、ただ「きこえる」のである。「きこえる」のだが、それはどこかで、聴覚ではなく、視覚を刺激する。沼が「きこえる」ということは常識的にありえないから、その「きこえない」ものを補足するようにして「視覚」がかってになにかを引き寄せる。それが「面」。水をたたえた「面」。沼。
そんなふうにして、私の意識は動く。
「面と面、とおくできっとかみあわないから」は、私の意識のなかで、「こえにならない沼がきこえる。」を呼吸して、そういう情景をくりひろげる。
その意識のなかでは、聴覚と視覚が融合する。そこでは、ことばは「意味」ではなく、「おと」そのものとして存在し、「意味」の枠を超越していく。越境していく。その越境にあわせるようにして、聴覚・視覚も越境し合う。その越境し合う状態を私は「融合」と呼んでいるのだが……。
「かみあわないから」の「かみ」は越境して「かみのながい」の「かみ」になり、「かみあわないから」の「から」は「からませ」へと融合する。「ながい」「ねがえり」にもな行、鼻濁音の「が」、そして母音「い」の越境と融合がある。その融合は、ずーっと尾を引いて、「ながい」「ねがえり」「ねがい」へと動いてゆく。
「やさき」「あとさき」という「おと」の完全な重なりもあるが、「うつ」「おもった」「ぶしつけ」、「したため」「ていたい」、「したため」「しずんだ」、「おもった」「くもらす」という響き合いにも、私の意識はゆらぐ。なぜ、ゆらぐのか、どんなふうにゆらぐのか、私はまだ具体的に書けないけれど、そのゆらぎのなかへ誘われてしまう。
「かみのながい息づかい」ということばがある。どういうことを具体的に言おうとしているのか、私にはよくわからないが、わからないままそのことばのなかにある「息」に私は反応する。海埜は「息」、「呼吸」でことばを動かしている、と感じる。あらゆることばの奥には「息」(呼吸)がある。そして、ひとは「意味」ではなく、「息」(呼吸)を無意識的に肉体化する。そして、その肉体でことばを動かしてゆく。(唐突な言い方にあるが、たとえば私は、海埜のほかに、高貝弘也にもそれを感じる。たなかあきみつにも感じる。いや、おもしろいと思う詩人のすべてに、何かしら「息」「呼吸」というものを感じる。日本語の歴史が呼吸していることばの無意識の動き、響き合いを感じる。)
海埜の作品の2段落目。
1 段落目の最後の「うらをくもらす」の「うら」から「うめますか」への動き。「うめますか」を「うめる」という動詞の基本形(?)に戻すと(意識のなかでは、自然に、うめる、うめます、は呼応し合っている)、「うら」「う(め)る」のなかには「う」と「ら行」が響きが浮かび上がる。その「ら」から「からまわり」の「ら」が引き出されるし、その「ら」、あるいは「ら行」のゆらぎから「ぐるぐる」の「る」(ら行のひとつ)も浮かんでくる。さらに「かんじて」と「うかんだもの」のなかにある「かん」という音……。
海埜の詩には、そういう「おと」そのものの響き合いが重複して存在する。
この「おと」のからみあい、響き合いは、まだ「音楽」にまでは高まっていない。完成されていない、(かもしれない。--高貝の作品と比べると、そういう印象が、確かに残る。)
「音楽」にまで高まっていないのは、まだ、この作業が模索中のものだからである。つづけていけば必ず「音楽」にかわる。短く完成させるのではなく、禁欲的に完成させるのではなく、「みずのね、」のように、あるいはもっともっと長い作品のなかで豊かな「交響曲」にかわることを期待したい。きっといつかは、そういう「音楽」が誕生するだろうと思う。
ここまで書いてきて、タイトルの「みずのね、」とは、「みずの音(ね)、」なのかな、とふと思った。「きこえる」「ひびき」、引用はしなかったが、「おんいき」ということばも出てくる。
海埜は最初から「音楽」をめざしているのだ。うかつといえばうかつだが、私は「意味」が書かれているとは、まったく気づかず、ただ響きだけを聞いていたようである。楽器だけで演奏される音楽そのもののように、動き回ることばを音符(音色)のように聞いていたが、そこには「意味」もあったのだ。
だが、その「意味」については、私は触れないことにする。きっと誰かが「意味」から、この作品について批評するだろう。私の関心は「意味」ではなく、あくまで「音楽」の呼吸なので、その呼吸、息づかいそのものを興味をそそられたとだけくりかえしておく。
*
ことばとことばが呼び合う。その呼び合うことばに誘われるようにして、ことばが意識しなかった領域へと進んでゆく。そこには、きのう触れたたなかあきみつの詩とはまた別の「呼吸」がある。
「みずのね、」の書き出し。
こえにならない沼がきこえる。面と面、とおくできっとかみあわないから、かみのながい息づかいをする。からませ、ねがえりをうつようにして、ちいさい橋をしたためよう、そうおもったやさき、いや、あとさきで、ていたいするひびきだった。しずんだねがいをぶしつけにたぐり、ちかくてきっとうらをくもらす。
「こえにならない沼がきこえる。」
声にならない声が聞こえる--というのはふつうの言い方である。それが「こえにならない沼がきこえる。」になった瞬間に、常套句にひそんでいた「こえ」と「きこえる」の「こえ」同士が響きあって、不思議な感じがする。その「きこえる」沼というのは、近くにはない。近くにあれば見える。遠いから、ただ「きこえる」のである。「きこえる」のだが、それはどこかで、聴覚ではなく、視覚を刺激する。沼が「きこえる」ということは常識的にありえないから、その「きこえない」ものを補足するようにして「視覚」がかってになにかを引き寄せる。それが「面」。水をたたえた「面」。沼。
そんなふうにして、私の意識は動く。
「面と面、とおくできっとかみあわないから」は、私の意識のなかで、「こえにならない沼がきこえる。」を呼吸して、そういう情景をくりひろげる。
その意識のなかでは、聴覚と視覚が融合する。そこでは、ことばは「意味」ではなく、「おと」そのものとして存在し、「意味」の枠を超越していく。越境していく。その越境にあわせるようにして、聴覚・視覚も越境し合う。その越境し合う状態を私は「融合」と呼んでいるのだが……。
「かみあわないから」の「かみ」は越境して「かみのながい」の「かみ」になり、「かみあわないから」の「から」は「からませ」へと融合する。「ながい」「ねがえり」にもな行、鼻濁音の「が」、そして母音「い」の越境と融合がある。その融合は、ずーっと尾を引いて、「ながい」「ねがえり」「ねがい」へと動いてゆく。
「やさき」「あとさき」という「おと」の完全な重なりもあるが、「うつ」「おもった」「ぶしつけ」、「したため」「ていたい」、「したため」「しずんだ」、「おもった」「くもらす」という響き合いにも、私の意識はゆらぐ。なぜ、ゆらぐのか、どんなふうにゆらぐのか、私はまだ具体的に書けないけれど、そのゆらぎのなかへ誘われてしまう。
「かみのながい息づかい」ということばがある。どういうことを具体的に言おうとしているのか、私にはよくわからないが、わからないままそのことばのなかにある「息」に私は反応する。海埜は「息」、「呼吸」でことばを動かしている、と感じる。あらゆることばの奥には「息」(呼吸)がある。そして、ひとは「意味」ではなく、「息」(呼吸)を無意識的に肉体化する。そして、その肉体でことばを動かしてゆく。(唐突な言い方にあるが、たとえば私は、海埜のほかに、高貝弘也にもそれを感じる。たなかあきみつにも感じる。いや、おもしろいと思う詩人のすべてに、何かしら「息」「呼吸」というものを感じる。日本語の歴史が呼吸していることばの無意識の動き、響き合いを感じる。)
海埜の作品の2段落目。
こぼれるきわでうめますか。ぷつぷつとしたものをからまわりし、ぐるぐるかんじて、うかんだものをすくいたい。
1 段落目の最後の「うらをくもらす」の「うら」から「うめますか」への動き。「うめますか」を「うめる」という動詞の基本形(?)に戻すと(意識のなかでは、自然に、うめる、うめます、は呼応し合っている)、「うら」「う(め)る」のなかには「う」と「ら行」が響きが浮かび上がる。その「ら」から「からまわり」の「ら」が引き出されるし、その「ら」、あるいは「ら行」のゆらぎから「ぐるぐる」の「る」(ら行のひとつ)も浮かんでくる。さらに「かんじて」と「うかんだもの」のなかにある「かん」という音……。
海埜の詩には、そういう「おと」そのものの響き合いが重複して存在する。
この「おと」のからみあい、響き合いは、まだ「音楽」にまでは高まっていない。完成されていない、(かもしれない。--高貝の作品と比べると、そういう印象が、確かに残る。)
「音楽」にまで高まっていないのは、まだ、この作業が模索中のものだからである。つづけていけば必ず「音楽」にかわる。短く完成させるのではなく、禁欲的に完成させるのではなく、「みずのね、」のように、あるいはもっともっと長い作品のなかで豊かな「交響曲」にかわることを期待したい。きっといつかは、そういう「音楽」が誕生するだろうと思う。
ここまで書いてきて、タイトルの「みずのね、」とは、「みずの音(ね)、」なのかな、とふと思った。「きこえる」「ひびき」、引用はしなかったが、「おんいき」ということばも出てくる。
海埜は最初から「音楽」をめざしているのだ。うかつといえばうかつだが、私は「意味」が書かれているとは、まったく気づかず、ただ響きだけを聞いていたようである。楽器だけで演奏される音楽そのもののように、動き回ることばを音符(音色)のように聞いていたが、そこには「意味」もあったのだ。
だが、その「意味」については、私は触れないことにする。きっと誰かが「意味」から、この作品について批評するだろう。私の関心は「意味」ではなく、あくまで「音楽」の呼吸なので、その呼吸、息づかいそのものを興味をそそられたとだけくりかえしておく。
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