詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊武トーマ「ディア・ハンター」

2008-04-07 10:52:16 | 詩(雑誌・同人誌)
 伊武トーマ「ディア・ハンター」(「歴程」549 、2008年03月31日発行)
 映画「ディア・ハンター」の1シーンをことばで追っている。語られなかったことばを再現しようとしている。

星はながれ。
星はきらめき。

きみの瞳に。
月のしずくがこぼれ落ちた。

夜の光。
美しい鹿よ。

今宵もひとり。
狩りに出たぼくは。

血まみれの銃を捨て。
つめたい闇に身を投げる。

森の奥深く分け入れるほど。
樹々はますます口を閉ざし。

凍てついた沈黙に。
ひとすじの銃声が舞い戻る。

あれは。
獲物を狙ったものじゃない。

去りゆくきみの後ろ姿を。
永遠に焼きつけようと。

おのれの頭に銃を突きつけ。
引き金をひいたのだ……。

星はながれ。
星はきらめき。

 「あれは。」以後の2行3連のセンチメンタルを引き立てるためにことばが動員されている。
 映画のなかで語られなかったことばを再現している--と私は最初に書いたが、正確には、映画のなかで語ってほしかったことばを再現しているというべきかもしれない。
 ベトナム戦争をくぐり抜けてきた男。その男のなにか起きた変化。狙った鹿を逃したとき、男は自分になんと言い訳をするか。「獲物を狙ったものじゃない。」--否定し、それからゆっくりと逆説のように語りはじめる。「去りゆくきみの後ろ姿を。/永遠に焼きつけようと。」--この否定を踏み台にしてこころを美へむけて再構築するセンチメンタル特有の動き。それを書きたいために、伊武は映画の1シーンを借りてきたというべきかもしれない。
 否定を踏み台にして、美を再構築しようとしている。--この意識があるからこそ、

星はながれ。
星はきらめき。

 と、いったいいつの時代のことばなのだ、といいたくなるような、歌謡曲のような行を平然とくりかえすことができる。

 ああ、と、伊武のことばに引き込まれるようにして、私は溜め息をもらしてしまうのだが、それは詠嘆ではなく、嘆きの溜め息である。
 ベトナム戦争は、こんなふうにしてセンチメンタルを輝かせる「道具」になってしまったのだろうか。こころを「美」にむけて飾りたてる「道具」になってしまったのか。
 あの映画は、センチメンタルになった男の哀しみを描くことが目的だったのか。

 この作品は、映画のなかで語られなかったことばを再現しようとしているのではない。そうではなくて、映画が否定したことばを、否定するために苦悩しながら語らなかったことばを、けっして語ってはいけないことばを、まるで宝石のように輝かせてみせる。
 どんな戦争であれ、それを利用して、こころの「美」を再構築するような動きには、私は嫌なものを感じる。私には、こういうことばは、映画への讃歌ではなく、映画への侮辱のように感じられる。

 ベトナム戦争は、センチメンタルで語られる時代になってしまったということだろうか。ベトナム戦争がセンチメンタルになりさがるなら、太平洋戦争がセンチメンタルになるのはもう防ぎようのないことなのか。
 とても不気味である。

コメント
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