夜鷹公園近藤 弘文ミッドナイト・プレス、2007年10月13日発行このアイテムの詳細を見る |
ことばの呼吸が不思議である。「鶇」の1連目。
雪をほしがる
のは鶇のとうめいないかり
ですほんとうは
みたことがありません
(みたことあります)
そばで小石のようなものが
ひとりでにはじけて
いましたダムの底に沈んでいくオルガンを
燃やしている鶇の姿をとらえて
、打ち落とした
行の渡りがいくつも登場する。行の渡り自体は多くの詩人がやっている。近藤の「渡り」の特徴はどこにあるか。3行目。「ですほんとうは」。この「ほんとうは」は2行目ににかかるのか、それとも4行目にかかるのか。何度読んでもわからない。そして、わからないことが、たぶん、重要なのだ。「わからない」ことはいろいろある。そして、その「わからない」には奇妙ないい方になるが、何もわからないのではなく、ことばとしてならはっきりわかるが、それが真実かどうかわからないということがある。真実かどうかわかったとしても、それが自分にとってどういう「意味」を持つのかわからないということがある。あらゆることが「理解」はできるけれど、それを納得できない(わからない)ということがある。「境目」をはっきり断定できない、その「境目」を自分自身の「肉体」として引き受けられないことがある。「理解」できるのだけれど、それを自分の「思想」として実践するとなると、躊躇してしまう。「理解」できるのだけれど、「感情」がついてゆかない。あるいは逆に「感情」は「理解」できるけれど、それをそのまま受け入れるわけにはいかない。そんなことは、できない……。何か、ことばとして表現できないもの、不思議な「境目」が私たちにはあって、それが私たちのすべてを縛りつけている。その「境目」は絶対に切り離すことができない。
みたことがありません
(みたことあります)
ここでは3行目と違って、「渡り」はない。「渡り」はないし、行わけにはなっているのだが、逆に、ほんとうは分離できない。見たことがなくても、見たことがある、というときもあれば、見たことがあっても見たことがない、と言うときがある。どちらがほんとうかといえば、事実と感情では「ほんとう」が違うときがあるから、どちらも「ほんとう」であり、どちらも「うそ」でもある。「ほんとう」も「うそ」もなく、その分離できないからみあったものを内部にかかえながら私たちはことばを動かしている。つまりは、ことばにならないものをむりやりことばにして、自分自身でそのわからないものを納得しようとしている。わけのわからないものに「けり」をつけようとしている。いつか、どこかで「けり」をつけないことには、動いてゆけないからである。
そういう、不思議なというか、(あるいは、ありきたりの、平凡な、と言った方がより正確なのかもしれないが)、うごめき、動きが近藤のことばにある。
そうしたことを特徴的に表現しているのが、1連目の最後の行の、冒頭の読点「、」である。読点「、」の「渡り」。こういうことは、学校の文法では禁じられている。句読点は、文末に置く。そう決まっている。しかし、近藤はそれを冒頭に置く。それは単に冒頭に置いているのではなく、読点「、」を渡らせているということである。
ここからが、実は、とてもやっかいである。
「渡り」と私は便宜上書いたけれど、それはほんとうに「渡り」なのか。前の行の読点「、」を引き継いでいるのか。前の行の呼吸を引き継いでいるのか。あるいは、前の行の呼吸を読点「、」を冒頭に持ってくることによって切断しているのか。つまり「連続」か「切断」か、区別がつかない。何かがわかるとすれば、この一瞬、近藤が「呼吸」を必要としているということだけである。
ひとには「呼吸」が必要である。--これはわかりきったことだけれど、そんなことをひとは普通は意識はしない。意識せずに「呼吸」している。近藤もたぶん無意識に「呼吸」している。無意識に「呼吸」しているのだけれど、その「無意識」が「無意識」のまま、突然自己主張する。浮かび上がってくる。ある状況のなかで、ふと人間が溜め息をつく。そうすると、その溜め息をひとに聞かれてしまい、はっとする。(あるいは、ふと溜め息を聞いて、はっとする。)そのとき、何かがわかる。あ、この状況が、ぴったりきていない。なじめない。そういうところにさしかかっている。「意味」ではなく、「肉体」として、私たちはそういうものを感じ取る。あるいは、ふともらすのではなく、そういう状況に苦しんでいるとういことを、「意味」ではなく、ことばではなく、ただ「肉体」として知ってもらいたいために、ひとはわざと溜め息をついたりもする。
近藤の、冒頭の読点「、」は、そういう強い呼吸(溜め息)に似ている。
近藤の場合、詩であるから、無意識というよりは「わざと」である。「わざと」のなかにこそ、詩が、「流通していることば」(教科書のことば)にはならないけれど、肉体に密着した思いがつまっている。
ふつう、ひとが意識しない切断と連続、連続と切断--その境目が近藤を縛りつけている。そういうものがある、ということを明確にしたくて、「わざと」吐き出す溜め息のように、近藤は読点「、」を冒頭に置くのである。
「わざと」吐き出す溜め息--その「わざと」の奥にあるものを明確にしなければ「意味」がない、かもしれない。しかし、そうではないかもしれない。私たちは現実において、そういう「わざと」発せられた溜め息に対してどう向きあっているだろうか。追及はしないのではないだろうか。「わざと」をきっかけに、ふっと我に返って話題を変えてみたりしないだろうか。あ、ここに、私とは違うひとがいて、そのひとが、この「空気」をいやがっている。この「空気」に困惑している、と気づいて、「空気」をなんとかしようとしないだろうか。「わざと」の溜め息は、「空気」に対する「悲鳴」である。哀しみである。「空気が読めない」ということばが流行りのようにして幅をきかせているが、「わざと」の溜め息は、別の「空気」がほしいという哀しいささやきなのでもある。
そういう状況を思い浮かべるとよくわかるのだが、「わざと」の溜め息の瞬間、ひとは「連続」と「切断」を生きている。その場の延々と続く「連続」、そしてその「空気」を吸い続ける(連続)に対する苦しみ--そこから「切断」されたがっている自分。その連続と切断はぴったりくっついている。連続があるから切断がある。切断への思いがあるから連続が意識される。
意識のなかにある連続と切断をみながら、そういうものが近藤をつくっている、近藤のことばの基本になっている--そのことを近藤は、行の冒頭の読点「、」で伝えようとしている。明らかにしようとしている。そこから始まる、哀しみ(愛しみ、かもしれない)は、近藤の詩を読みはじめたばかりの私にはまだよくわからない。よくわからないけれど、そういうものは、ほんとうはよくわかるはずがないものかもしれない。ただぼんやりと、あ、近藤はこういう「呼吸」の仕方をするんだ、こういう「空気」のもとめ方をするのだ、とうすうす感じればいいのかもしれない。そんなふうに「肉体」を、いまという時間のなかでいっしょに共存させればいいのかもしれない。
私は、近藤の冒頭の読点「、」のさばきが嫌いではない。むしろ、好きである。その一瞬の「呼吸」になんとなく救われるものを感じる。共感してしまう。
私の感想は感想にもなっていないかもしれない。
だが、こんなふうにして呼吸(読点「、」の渡り)をくっきりと浮かび上がらせながら、そこに「わざと」という感じがしないのは、それが近藤の「呼吸」の本質だからだろうと思う。本質と信じていいと思う。
詩集中、「、割れた黒曜石のなかをのぞく子の姿は」はタイトルもそうだが、作品そのものも読点「、」から始まっている。この作品にはほかにも独特の読点「、」のつかい方、呼吸があっでそれは特に美しい。--美しいと感じた、とだけ、書いておきたい。
部分引用の形ではなく、ぜひ、1篇を通して読んでもらいたい。1冊まるごとを読んでもらいたい。