詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

たなかあきみつ「(空地を遮光瓶に捕獲せよとささやく……)」

2008-04-23 01:17:40 | 詩(雑誌・同人誌)
 たなかあきみつ「(空地を遮光瓶に捕獲せよとささやく……)」(「組子」15、2008年04月10日)
 ちょっと不思議な体験をした。「(空地を遮光瓶に捕獲せよとささやく……)」の最初の5行を引用しようとすると、ワープロがこの詩を記憶している。だが、私はこの詩について感想を書いたかどうか覚えていない。(なにか書こうとして、作品を引用し、中断したのかもしれない。)

空地を遮光瓶に捕獲せよとささやく晩夏の空
驟雨は空の舌の栓抜あるいは夜来の食器の底へ
かつての水と油の同心円を油断なく追いつめてゆく火あるいは
空地と隙間の差異はなにか湧水池はどうして無言で間投詞を
ギザギザに放置するのかあるいはうちっ放しのコンクリートであれ

 私は書いた文章をネットに掲載しているが、検索しても出てこない。不思議な不思議な体験である。
 そして、その体験と、この詩のことばの動きが奇妙に一致する。

 たなかのこの詩は何が書いてあるのかわからない。何が書いてあるのかわからないのに、そのすべてが記憶にある。記憶がかってに動いていって世界を作り上げる。その印象に似ている。
 とくに印象的なのが「あるいは」ということばである。

驟雨は空の舌の栓抜あるいは夜来の食器の底へ
かつての水と油の同心円を油断なく追いつめてゆく火あるいは

 この2行ではっきり私がことばの意味(?)を理解できるのは「あるいは」だけである。「あるいは」は反対のものを結びつけながら不思議なことに可能性としてどちらでもありうることを提示する。「死、あるいは生」。「男、あるいは女」。それはどっちでもいいはずはない。しかし、どちらも可能だと教える。考えれば、とても変なことばである。その変な性質を利用して、ことばがどんどん進んでゆく。
 そして、そのどんどん進んでゆく運動というのは、どこかで「記憶」のようなものを頼りにしている。どこへ進んでもいいにもかかわらず、それはどこかで決定されている。「死、あるいは生」とは言っても、「死、あるいは地獄への転落」とは言わない。「あるいは」が結びつけるものには、何らかの法則(?)のようなものがあるのだ。
 たなかの詩が、どんな「あるいは」の法則を生きているのかわからない。
 だが、奇妙に安心してそのことばを追いかけることができる。私のワープロは不思議なことに、たなかのことばを記憶している。その不思議な既視感--一種の錯乱と、一種の安心と、一種の不安を同時に抱え込むなにか。それがたなかのことばのなかにある。

 この既視感を私は、どう説明していいのかわからない。
 ひとつ感じるのは、「あるいは」の呼吸である。私は「死、あるいは生」と読点「、」を挟んで「あるいは」をつかうが、たなかは読点「、」なしで「あるいは」をつかう。そのとき、読点「、」をつかった文体よりもはるかに強くことばが動く。肉体をぐいっと力任せにねじられたように感じる。だが、ねじられても体はそのまま存在し、一貫性がある。断絶がない。その呼吸のおもしろさ。

かつての水と油の同心円を油断なく追いつめてゆく火あるいは

の「あるいは」は文末(行末)にあって、このときは呼吸が少し違う。明らかに次の行まで一呼吸ある。しかし、その一呼吸が、

空地と隙間の差異はなにか湧水池はどうして無言で間投詞を

 とまた、不思議な文体を引きずり出す。「空地と隙間の差異はなにか/湧水池はどうして無言で間投詞を」ではなく、「なにか」のあとには「呼吸」がない。
 たなかの詩を動かしているは、いわば呼吸の乱れなのである。
 ただし、この乱れは無理をしたために肉体が拒絶反応を起こしている乱れではない。逆に肉体を励ます乱れである。高鳴る鼓動である。きちんと呼吸すれば楽なのかもしれないが、そういうことをしたくない。ただただことばを走らせたい。走るにまかせるための、ギアを切り換え、トップスピートにのるための乱れである。
 ことばは加速する。ただ加速する。どこまで加速できるか知るために加速する。
 しかし、そのことばの奥にはたっぷりした「記憶」があり、その「記憶」の確かさがスピードを守っている。
 とてもおもしろい。


コメント
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