北爪満喜「さしのべる」(「エウメニデスⅡ」31、2008年02月15日発行)
枯れた枝をしたから見上げた写真といっしょに掲載されている。写真に撮った風景を、もう一度ことばでとらえ直している。
その中程。
「ハハ」とはもちろん「母」である。「コ」は「子」である。
ところが北爪は「母」とは書かない。「子」とは書かない。漢字で書いてしまうと、ことばが既成のものにしばられるという感じがするのかもしれない。既成のものではない何か、北爪がほんとうに感じているものを探すために、あえてカタカナの表記をつかったのだろう。
既成のものではない何かを探そうとする想い、熱意のようなものは、
の2行に凝縮している。「まなざし」「届かない」がくりかえし、そしてただくりかえすだけではなく、順序がいれかわなりがら手さぐりしている。そこには具体的には見えないもの、「まなざしの痕跡」というような、ことばでしかたどれない何かが浮かび上がるのだが、この見えないものを存在させるには、同じことばをくりかえすしかないのだろう。同じことばをくりかえしながらでも、なんとかそれを明確にしたいという思いが、そこには存在する。
そして、この熱意のようなものに揺すぶられて、最後の3行で、ことばが不思議な化学変化を起こす。
「ハハ」は「母」である。それは前とはかわらない。しかし、「チ」はどうだろうか。「地」であろうか。それとも「血」であろうか。「地」と読むのが論理的かもしれない。しかし、私は「血」を最初に思い浮かべた。
「届かないまなざし」は「血」を源としている。「まなざしの痕跡」も「血」を出発点としている。「母」は「大地」であるが、その「大地」は「大血」でもある。おおいなる血でもある。そこからすべてが生まれる。生まれたもののなかには同じ「血」が流れている。その同じ血、同じ血でありながら、違ったものになっていくものに向けて、いつでも「手」を「さしのべる」--そこに母の「原型」、母の「神話」のようなものを感じているのだ。
「血」は樹木のなかを通れば樹木の叫びになる。そして、その叫びは樹木であることを超越する。「鳥」をも生み出してしまう。「樹木」と「鳥」は同じ「血」からできている。だからこそ、強く強く結びつく。
「ハハ」は「母」を「母」以前の混沌に還元し、そこから「血」は流れはじめる。何にでも変わりうるエネルギーそのものの運動として、どこへでも動いてゆく。「樹木の叫び」になり、「叫び」は「鳥」を生む。こういう自己超越、自己を次々に乗り越えて自己以外のものに変身し、なおかつ固い結びつきとしてあらゆるものが存在しうるのは「チ=血」だからである。
「地」は「チ」という音そのものに解体、還元されて「血」へと化学変化を起こし、そこからすべての世界がはじまる。
「ハハ」「チ」というカタカナ表記には、はっきりした「思想」が込められているのだ。
*
いま手に入る北爪満喜の詩集。
枯れた枝をしたから見上げた写真といっしょに掲載されている。写真に撮った風景を、もう一度ことばでとらえ直している。
その中程。
細い指と尖った爪を霧に覆われた空へきりきりさしのべている。
見つめていると、ハハを想いだした。
ハハというまなざしは、このようではなかっただろうか。
霧のような他者のほうへコのほうへ、刺さってしまいそうなほど
ことばのようなまなざしをのべ、
そしてまなざしのなかに込められた想いはおおくは届かないまま
届かないまま、まなざしの痕跡が、霧のなかに刻まれてゆく。
影のように、霧のなかに模様をつくる。
まるで霧のこころのうちの傷のように。
「ハハ」とはもちろん「母」である。「コ」は「子」である。
ところが北爪は「母」とは書かない。「子」とは書かない。漢字で書いてしまうと、ことばが既成のものにしばられるという感じがするのかもしれない。既成のものではない何か、北爪がほんとうに感じているものを探すために、あえてカタカナの表記をつかったのだろう。
既成のものではない何かを探そうとする想い、熱意のようなものは、
そしてまなざしのなかに込められた想いはおおくは届かないまま
届かないまま、まなざしの痕跡が、霧のなかに刻まれてゆく。
の2行に凝縮している。「まなざし」「届かない」がくりかえし、そしてただくりかえすだけではなく、順序がいれかわなりがら手さぐりしている。そこには具体的には見えないもの、「まなざしの痕跡」というような、ことばでしかたどれない何かが浮かび上がるのだが、この見えないものを存在させるには、同じことばをくりかえすしかないのだろう。同じことばをくりかえしながらでも、なんとかそれを明確にしたいという思いが、そこには存在する。
そして、この熱意のようなものに揺すぶられて、最後の3行で、ことばが不思議な化学変化を起こす。
ハハというまなざしはチのそこからうかびあがる樹木かもしれない
チはそこから空へむけてのびあがる樹木の叫びににている
鳥をもわたしがうんだと
「ハハ」は「母」である。それは前とはかわらない。しかし、「チ」はどうだろうか。「地」であろうか。それとも「血」であろうか。「地」と読むのが論理的かもしれない。しかし、私は「血」を最初に思い浮かべた。
「届かないまなざし」は「血」を源としている。「まなざしの痕跡」も「血」を出発点としている。「母」は「大地」であるが、その「大地」は「大血」でもある。おおいなる血でもある。そこからすべてが生まれる。生まれたもののなかには同じ「血」が流れている。その同じ血、同じ血でありながら、違ったものになっていくものに向けて、いつでも「手」を「さしのべる」--そこに母の「原型」、母の「神話」のようなものを感じているのだ。
「血」は樹木のなかを通れば樹木の叫びになる。そして、その叫びは樹木であることを超越する。「鳥」をも生み出してしまう。「樹木」と「鳥」は同じ「血」からできている。だからこそ、強く強く結びつく。
「ハハ」は「母」を「母」以前の混沌に還元し、そこから「血」は流れはじめる。何にでも変わりうるエネルギーそのものの運動として、どこへでも動いてゆく。「樹木の叫び」になり、「叫び」は「鳥」を生む。こういう自己超越、自己を次々に乗り越えて自己以外のものに変身し、なおかつ固い結びつきとしてあらゆるものが存在しうるのは「チ=血」だからである。
「地」は「チ」という音そのものに解体、還元されて「血」へと化学変化を起こし、そこからすべての世界がはじまる。
「ハハ」「チ」というカタカナ表記には、はっきりした「思想」が込められているのだ。
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いま手に入る北爪満喜の詩集。
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