詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

道ケージ『Quand, de 棺』

2008-04-19 02:23:09 | 詩集

 道ケージ『Quand, de 棺』(Meine 企画、2008年04月01日発行)

 あらゆることばは「わざと」書かれる。そして、その「わざと」には「意味」がないときがある。ただ「わざと」書くのである。そして「わざと」を通って、何かに触れる。何か--というのは「意味」ではないから、そこに「意図」もない。ただ偶然に触れる。詩は、もともと偶然のものである。自分で発見するのではなく、向こうからぶつかってくる。だから、その「ぶつかり」が少しでも起きるように「わざと」を繰り返す。そんなふうにして書かれる詩もある。
 こういう詩は、きのうの感想を書いた石井久美子の作品とは対極にある。
 たとえば道ケージの『Quand, de 棺』。その巻頭の「シャけどひかり(lumiere de sermnt )」。「鮭の光」を「日本語」と「フランス語」の結合することで破壊している。そこから何が出てくるか。--そんなことは、道にもわからない。ただ、そうしたいから結びつける。結びつけることが、破壊でもあるという喜びのために。
 「シャけどひかり」は「シャケ de ひかり」。それを「シャけどひかり」と書いた瞬間、そこに「けど」という奇妙な「理由」のあらわすことばが浮かび上がってくる。「けど」(けれど)って、何?
 この作品では、「愛」である。
 鮭の産卵を描くとき、そこに鮭という魚だけではなく、人間の行為が、つまり感情がからんでくる。そういうものが「けど」のなかにある。「けど」のなかからこぼれ落ちてくる。これは、そういうことを書こうとしてそうなったのではなく、「シャけどひかり(lumiere de sermnt )」と書いたために、そうなってしまったのである。

 偶然は詩ではない、という意見もあるかもしれない。しかし、私は、詩は偶然だと思う。偶然に何度会えるか、どれだけ強烈な偶然に会えるか、偶然に会って、それを詩と感じることができるか--それが詩人と詩人ではない人間をわけるのだと思う。
 道は、その偶然を、ただことばをぶつけながら待っている。偶然がくるのを待ちながら、待つという過程を、ことばにしてみせる。「わざと」その、いわば退屈な時間をくぐりぬけてみせる。

さけて 裂け 鮭 咲け 咲け
ふりかえらず あるはず
うっすらと剥げ 傷跡は盛り上がり

 「裂け」から「咲け」へ。そこに、一瞬の祈りのようなもの、願いのようなものがまじる。
 その願いに、次のことばが遅れて重なる。

「わたしのせいではない!」
「…ソウダ………………」
「あんたのせいだ!」
  響き溶ける
   その言葉 忘れられず

 さらに、次のことばが遅れてやってくる。

避けず 裂けず 咲けず りんごさん
林檎さん リンゴ酸 なめただけ さわっただけ なにもしていない
ようさん 葉酸 あとわずかに舐めていれば おお

 そして、ふいに次の言葉となって結晶する。

感情と 感情を言い示す言葉をひっそり分ける
それが愛情である

 美しいことばである。だが、私はこの2行はない方が好きである。「意味」が邪魔をする。ことばのうごめきを閉じ込めてしまう。「けど」が、こんなふうにことばになってしまうと、セックスはセンチメンタルになってしまう。思い出になってしまう。思い出のひかりになってしまう。--鮭にはたぶん思い出はない。本能はあっても思い出はない。本能を思い出に変えてしまっては、鮭がかわいそうである。そして、人間の本能も、そのとき「思い出」に閉じ込められてしまうそうで、私はかわいそうだという気がする。
 道には具体的な思い出があるのかもしれない。
 けれど、その具体的な思い出は「わたしのせいではない!」「あんたのせいだ!」だけで十分な気がする。
 その瞬間が「避け」「裂け」「咲け」と重なり、「鮭」の産卵が重なれば、そこからどんなことばが出てくるかは、読者にまかせればいいのではないだろうか。

 こんなことを書いてしまうのも、実は「伝言--キヌおばあちゃんと」という美しい作品があるからだ。思わず涙が流れる佳品である。全行引用しておく。

小さな声でよか
黙っててもよかよ
言葉が見つけにくる
聞いたふうなけとは怪しか
大きな声は警戒しんしゃい
もうあるとよ

ああ えずか
目を閉じ 祈りんしゃい
透明になるとよ
夜ば見ると
照り返されると
小さなズレもいるとよ

記憶は奇妙な命令形で詫びのよう
抱きしめて クリームパンの匂い

涙流しんしゃい 時間はいらんとよ
気づかんだけたい もうあると
許さなぁ あとでわかると
「そうだね あれは潮騒?」
血たい
「利己的遺伝子と被投性は?」
なんね そんなもん なーんもならんとよ
モノとかいらんとよ
ほんに えずかー

ハムいるね?
小さなあごをなでて
まず 言葉たい
挨拶 学びんさい

 道は、道自身の「挨拶」を探している過程である。「学ぶ」のではなく、自らの「挨拶」をつくりだそうとして、詩を書いている。それは「キヌおばあちゃん」の伝言に背くことになるかもしれない。しかし、背いたあとでの「挨拶」の方が、より深い愛情にあふれる挨拶かもしれない。私はそう信じたい。

コメント (2)
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