詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

たなかあきみつ訳、ドミトリイ・バヴィリスキイ「ショスタコーヴィチの交響曲第六番(一九三九)」

2008-04-14 10:53:18 | その他(音楽、小説etc)
 たなかあきみつ訳、ドミトリイ・バヴィリスキイ「ショスタコーヴィチの交響曲第六番(一九三九)」(「組子」15、2008年04月10日発行)
 エセー、評論の文体がどういうものであるべきか私は知らないが、ことばはいつでも他人の意識をひっかきまわすことを目的としている。びっくりさせる。混乱させる。その瞬間に、いままで見たことのないものが見える。見たことがないから、それは、「わからない」という印象を引き起こす。いままでの、自分が持っていることばの体系を超越しているので、手に負えないのだ。
 たとえば、たなかあきみつが翻訳しているドミトリイ・バヴィリスキイ「ショスタコーヴィチの交響曲第六番(一九三九)」。その書き出し。

 状況を関係を相関性を志向の定位をえがき、あえて人間と人間の周囲(社会環境)をではなく客体と主体を連結する空の架け橋を描くポートレイトの古典的(典型的、ショスタコ的)実例であり、おのれの論理的延長をめざす情動の道程であり、諸条件のむなしさを誇示する全体性の重圧である(このような状況下の個人はつねに事態の推移に及ばない)。

 「状況を関係を相関性を志向の定位をえがき、」--この文の「を」の連続。こういう文体を日本語は持っていなかった。学校の「作文」なら書き直しを勧められるだろう。その後の「……でなく、……であり、……であり、……である。」も同じく、「美しい文体」とは言えない。「美しくない」から、手に負えないのである。特に「……を……を……を」という書き方が、これはいったい何?という印象を引き起こす。「目的語」はひとつ、が文章として読みやすい。「目的語」あるいは「補語」が複数なら「……を……を」と繰り返すのではなく、「と」で並列すべきである。--たとえば、そんなふうに、学校の「作文」は指導するかもしれない。「わかりやすい文体」への書き直しを指導するかもしれない。
 だが、それをやってしまうと、この文章は読みやすくなるかもしれないが、「おもしろさ」を失ってしまう。
 「……と……と……と」ではなく、「……を……を……を」。並列ではなく、繰り返し。繰り返すことでしか書けないものがあるのだ。こでは学校の「文体」(教科書の文体)ではとらえられない何かが起きているのである。
 「状況を関係を相関性を志向の定位を」と書くとき、「状況」のなかから「関係」が絞り出され、「関係」が「相関性」に凝縮され、「相関性」が「志向の定位」に純粋化されていることがわかる。書くことで、ドミトリイ・バヴィリスキイは、自分の思考を少しずつ明確に(限定的に)している。「……でなく、……であり、……であり、……である。」も同じである。ここでは、何かが並べられているのではなく、何かが、ドミトリイ・バヴィリスキイの思考が、不純物を除外しながら純粋化されているのである。
 普通、「……と……と……と」と並列すると、その存在は複数にまみれていく。「純粋な固体」といしての性質を失ったゆく。幅がひろがった分だけ、あいまいになる。ドミトリイ・バヴィリスキイは、そういうこととはまったく逆のことをしているのである。いくつかのことを特別な文体(それまでは存在しなかった文体)で並べることで、単純化(抽象化)の方向を強調しているのである。複数のものがぶつかり合いながら、互いの外側を(余分を)削りあい、どんどん純粋化してゆく。その純粋化の過程の強調--それをドミトリイ・バヴィリスキイは実践している。
 なぜ、そういう文体を選んだか。
 それはドミトリイ・バヴィリスキイにとってショスタコーヴィチの音楽が、そんなふうに感じられたからだろう。聞き取った音楽と、自分の思考を、ぴったり重ね合わせ、ことばを、思考を音楽そのものにするために、わざと(あえて)、そういう文体をつくりだしているのである。学校の文体(教科書の文体)ではできないことを、だれもしなかったことをやろうとしているである。
 ドミトリイ・バヴィリスキイは、まず他人を(読者を)おどろかし、読者の意識をひっかきまわすまえに、自分自身をひっかきまわし、文体をつくり直しているのである。文体を作り上げることを最優先にしているのである。

 手に負えない。そういう欲望をていねいに追って読むことはとても苦しい。論理的に「意味」をつかみ取り、要約することはむずかしい。しようとすればできるのかもしれないが、そんなことはしたって無意味である。(と、私は思う。)

 こういうときはどうするか。私は、ただ酔ってみる。(漂ってみる、となぜかワープロは最初に変換し、あ、それはそれでおもしろいかもしれないと思った。--いつか時間があったら、「漂ってみる」の方向へ行ってみたい。)音楽に「論理的意味」を結びつけても無意味である。いままで聞いたことのない音の動きにただ酔えばいい。(漂えばいい。と書けば、漂うが、身を任せればいいに動いてゆく--そして、酔うと、何かに身を任せる、がここでも復活する。)そうすると、この「意味」を拒絶することばのうねりが、音楽そのものになる。この「音楽」は、わからない。最初はただ驚くだけである。驚かされるだけである。--これは、しかし、あたりまえのことなのだと思う。
 知らない文体で書かれている文章を最初から「わかる」ということはありえない。最初の「文体」に出会って最初に感じるのは、「好き、嫌い」である。そういうところからしか人間は(少なくとも私は)入ってゆけない。「好き」と感じているうちに、なんとなく自分のなかで、その「文体」に共鳴するものが生まれてくる。ことばが動きはじめる。音楽を聴いていて、だんだんと、そのメロディーを、あるいはリズムを口にしてみるようになるのと同じである。(私は、ここに再現された「文体」が「好き」である。)
 
 こうした文体を再現するたなかの翻訳は翻訳そのものとしても大変おもしろい。優れたものではないか、と私は思う。(原文を私は知らないし、それを眼にしても、たなかの訳が正しいかどうかということは私には判断できないが。)
 ここに訳出された「文体」は読みにくい。そしてわかりにくい。だが、読みにくさを再現することが「翻訳」なのである。「文体」を再現することが「翻訳」なのである。「文体」が再現されているから(と、私は思う)、訳出されたことばに私は酔うことができる。




たとえば、こんなCDがあります。

ショスタコーヴィチ:交響曲第1番&6番
バーンスタイン(レナード)
ユニバーサル ミュージック クラシック

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする