長嶋南子「タガ」(「すてむ」140 、2008年03月25日発行)
長嶋南子は自分を愛する方法を知っている。「タガ」という作品を読みながら、そう思った。このときの「愛する」というのは「かなしむ」というのに、いくらか似ている。自分の中にある「かなしみ」を見つけ、それを大事にする(愛する)ということを知っている。
「タガ」の3連目。
ここには不完全な(?)「わたし」がいる。思い通りにならない「わたし」がいる。それでも「わたし」をちゃんと「わたし」として見つめている。不完全な「わたし」、理想と違う「わたし」は哀しいが、それをうけとめている。「こうなったら自動車にでも轢かれたほうがいいのではないか」とは書いてみるが、ほんとうにそう思っているわけではない。
なんとかしたいと思っている。だからこそ、つづける。
いまの「わたし」は退職して「タガ」がゆるんでいるのだ。そんなふうに自分を哀しみ、同時に「愛する」。「タガ」がゆるんでいるなら、それをしめなおせばいい。
「タガをしめなおす」--たぶん長嶋は「タガをしめなおす」ということばを、その店先で知ったのだ。そのころは意味もわからずただ聞いていた。しかし、それをいまくっきりと思い出す。そのときに、おじさんと、おじさんが生きているその地域の空気を思い出している。地域があり、ひとがゆったりと関係し合う空気--それを呼吸して(もちろん、こどもはそういうことを意識しないが)生きてきたことを思い出している。
そして、それにちょっとよりかかる。
自分ひとりの力でなにかをするのではなく、まわりに、まわりの「空気」によりかかる。それは自己のなさけなさ(?)の自覚であると同時に、周囲への信頼の告白でもある。他人によって生かされている、という自覚のあらわれでもある。その瞬間の、弱さ、哀しみと、そんなふうにして自分を建て直すときの、自分へのいとおしみ。
この感じがとてもいい。
私は長嶋がどういう人間なのかまったく知らないが、想像するに、ひととの関係をとてもゆったりと築き上げているひとなのだろう。常に長嶋のまわりにはひとがいる。見守っていてくれるひとがいる。見守るといっても、なんといえばいいのだろう、ゆったりとした感じで、見守るひとと長嶋の間に「空気」がある感じで……。
長嶋は、その「空気」を愛する。懐かしむ。それは、ゆったりと呼吸になって、そこに生きているひとを愛することでもある。
詩の引用が逆になるが、前半(1連目、2連目)は次のようになっている。
いいなあ。ひとと一緒に生きているのはいいなあ、と思う。間違いも、嘘も、泥棒(?)も、すべて周囲に吸収されて、吸収されることで、「わたし」は立ち直っている。「タガをしめなおす」というのは、そういうことかもしれない。他人の力にささえられて、「わたし」の間違いをすくい取られて、正常にもどる。
そんなふうにして生きているのは、哀しい? 自分だけの力だけで生きていく強さがないから哀しい? そんなことはない。
哀しい「わたし」を自覚することは、哀しい人生をひとといっしょに生きることだ。ひとはたいてい哀しい存在である。弱い存在である。だから、愛し合うのである。
*
この詩には、不思議な隠し味もある。1連目の「会計のタカガイさんにめいわくをかけて」という1行。そのなかに、「タカガイさん」という名前のなかに、わたしは「タガ」が隠れているのを感じる。また「めいわくをかけてて」のなかに「めがねをかけた」が隠れているのを感じる。
遠く離れていながら、なにかを呼吸し合っている。
この感じが「ふるさとの佐野桶店のおじさん」とも通い合う。
この感じが、なんとも哀しく、なんとも美しく、いとおしい。いいなあ、この感じ。この遠く離れて呼吸することばのなかにこそ詩がある。そのことからかきはじめるべきだったかなあ、と私は文章を反省している。
ごめんなさい。紹介の仕方、順序をまちがえて、変なことを書きすぎたかもしれない。ちょっと謝りたい気分。
長嶋南子は自分を愛する方法を知っている。「タガ」という作品を読みながら、そう思った。このときの「愛する」というのは「かなしむ」というのに、いくらか似ている。自分の中にある「かなしみ」を見つけ、それを大事にする(愛する)ということを知っている。
「タガ」の3連目。
退職した
どこで何をしてもいいのだから
勤め人とちがうことをしなければ
もっと大きなことをしなければ
それなのにひとりの昼間ボソボソご飯を食べている
こうなったら自動車にでも轢かれたほうがいいのではないか
わたしの破片がばらばら
ここには不完全な(?)「わたし」がいる。思い通りにならない「わたし」がいる。それでも「わたし」をちゃんと「わたし」として見つめている。不完全な「わたし」、理想と違う「わたし」は哀しいが、それをうけとめている。「こうなったら自動車にでも轢かれたほうがいいのではないか」とは書いてみるが、ほんとうにそう思っているわけではない。
なんとかしたいと思っている。だからこそ、つづける。
ふるさとの佐野桶店のおじさんまだ生きているか
きっちりタガをしめなしてもらいたいのだが
おじさん わたしは
店先でいつも遊んでいためがねをかけた女の子ですよ
いまの「わたし」は退職して「タガ」がゆるんでいるのだ。そんなふうに自分を哀しみ、同時に「愛する」。「タガ」がゆるんでいるなら、それをしめなおせばいい。
「タガをしめなおす」--たぶん長嶋は「タガをしめなおす」ということばを、その店先で知ったのだ。そのころは意味もわからずただ聞いていた。しかし、それをいまくっきりと思い出す。そのときに、おじさんと、おじさんが生きているその地域の空気を思い出している。地域があり、ひとがゆったりと関係し合う空気--それを呼吸して(もちろん、こどもはそういうことを意識しないが)生きてきたことを思い出している。
そして、それにちょっとよりかかる。
自分ひとりの力でなにかをするのではなく、まわりに、まわりの「空気」によりかかる。それは自己のなさけなさ(?)の自覚であると同時に、周囲への信頼の告白でもある。他人によって生かされている、という自覚のあらわれでもある。その瞬間の、弱さ、哀しみと、そんなふうにして自分を建て直すときの、自分へのいとおしみ。
この感じがとてもいい。
私は長嶋がどういう人間なのかまったく知らないが、想像するに、ひととの関係をとてもゆったりと築き上げているひとなのだろう。常に長嶋のまわりにはひとがいる。見守っていてくれるひとがいる。見守るといっても、なんといえばいいのだろう、ゆったりとした感じで、見守るひとと長嶋の間に「空気」がある感じで……。
長嶋は、その「空気」を愛する。懐かしむ。それは、ゆったりと呼吸になって、そこに生きているひとを愛することでもある。
詩の引用が逆になるが、前半(1連目、2連目)は次のようになっている。
きのうはあわてて
左右ちがう靴をはいて出て
数字はいつも写しまちがえて
会計のタカガイさんにめいわくをかけて
うそはよくついて
盗んできたもの多数 菓子 靴下 書類 本 夫
食べすぎては高脂血症
つまらないことできょうだいげんかをして
もっと身をよじるようなことをしたかったな
いいなあ。ひとと一緒に生きているのはいいなあ、と思う。間違いも、嘘も、泥棒(?)も、すべて周囲に吸収されて、吸収されることで、「わたし」は立ち直っている。「タガをしめなおす」というのは、そういうことかもしれない。他人の力にささえられて、「わたし」の間違いをすくい取られて、正常にもどる。
そんなふうにして生きているのは、哀しい? 自分だけの力だけで生きていく強さがないから哀しい? そんなことはない。
哀しい「わたし」を自覚することは、哀しい人生をひとといっしょに生きることだ。ひとはたいてい哀しい存在である。弱い存在である。だから、愛し合うのである。
*
この詩には、不思議な隠し味もある。1連目の「会計のタカガイさんにめいわくをかけて」という1行。そのなかに、「タカガイさん」という名前のなかに、わたしは「タガ」が隠れているのを感じる。また「めいわくをかけてて」のなかに「めがねをかけた」が隠れているのを感じる。
遠く離れていながら、なにかを呼吸し合っている。
この感じが「ふるさとの佐野桶店のおじさん」とも通い合う。
この感じが、なんとも哀しく、なんとも美しく、いとおしい。いいなあ、この感じ。この遠く離れて呼吸することばのなかにこそ詩がある。そのことからかきはじめるべきだったかなあ、と私は文章を反省している。
ごめんなさい。紹介の仕方、順序をまちがえて、変なことを書きすぎたかもしれない。ちょっと謝りたい気分。