詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トニー・ギルロイ監督「フィクサー」

2008-04-13 20:51:26 | 映画
監督 トニー・ギルロイ 出演 ジョージ・クルーニー、ティルダ・スウィントン、トム・ウィルキンソン、シドニー・ポラック

 「ボーン・アルティメイタム」のトニー・ギルロイ監督作品。「ボーン・アルティメイタム」の冒頭の新聞記者が殺されるまでのシーンのすばらしさ(カメラワーク)が忘れられない。今回も少し似たシーンがあるが、あれほどの緊迫感でかなり劣る。
 この映画の見どころは役者のつかい方である。
 ジョージ・クルーニーは目が大きく、美形である。その男が弁護士を演じる。ただし、この弁護士は「汚れ役」である。だらしない弁護士で、ギャンブルにおぼれている。担当も敏腕弁護士が手がけないような、「もみ消し」(フィクサー)専門である。「汚れ役」というのは美形が演じるととても魅力が出る。非情さが輝き、あ、こういう悪人になってみたい、という気持ちにさせられる。ジョージ・クルーニーには、そういう非情さがない。特徴的な目、口元が非情とはかなり遠い。甘いのである。その分、今回のようなだらしなさがずいぶん似合う。ミミ・レダー監督によって磨き上げられた役者だが、女性の心をくすぐるような、甘ったれた雰囲気が、だらしなさとなじみ、なかなかおもしろい。だらしなさ、甘さにつけこまれ、組織に利用されていく過程が、リアルになっている。
 そして、このジョージ・クルーニーの非情さを欠いた甘さとは逆に、敏腕の女弁護士が非情を売り物にしている。この対比がおもしろい。
 ティルダ・スウィントンは、起伏の少ない顔(ジョージ・クルーニーと対極的である。また、トム・ウィルキンソンとも対極的である。)で、非情を「理性的・理知的」へと昇華させて見せるのだが、これがなかなかすばらしい。鏡の前で、浴びせられるであろう質問を想定して、何度も答えを練習するシーンがすばらしい。(このシーンは「ボーン・アルティメイタム」の監督ならではのさばきである。)そして、この繰り返される練習に作り上げられた非情が、最後の最後、一気に崩れてゆくのだが、その顔の奥に、フラッシュバックのように、かつての繰り返しの練習が行き来するのである。この「練習」は映像としては存在しないのだが、見ている観客(私)の意識のなかでフラッシュバックが起きる。ジョージ・クルーニーを見つめ、必死になって冷静さ、非情さを守ろうとするのだが、つまずく。練習でつまずいても、何度かくりかえすことで乗り越えてきたが、今回は、練習(想定)を超えていて、がたがたと崩れる。これが、とてもリアルなのである。
 ティルダ・スウィントンはこの映画で「アカデミー賞助演女優賞」を獲得しているが、それにふさわしい演技である。彼女の演技を見るだけでもこの映画を見る価値がある。というか、この演技を見ないことには彼女については何も語れないだろう、という気さえする。
 彼女のこの演技があって、いわばジョージ・クルーニーの情のストーリー、情が非情に勝つというストーリーも説得力を持つ。キャスティングが映画をささえていると言える。





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瀬崎祐「湯治場の話」

2008-04-13 09:05:46 | 詩(雑誌・同人誌)
 瀬崎祐「湯治場の話」(「交野が原」64、2008年05月01日発行)
 湯治場で死に神(?)に会った「話」である。「話」を詩に仕立てている。「話」が詩にかわるとは、どういうことか。ということを、少し考えた。「話」を読みながら詩を感じたのだが、それはなぜか、ということを考えた。「話」を詩にかえるものがあるとすれば、それは何か。
 作品の前半。

薄暗い湯治場の天井は高くて湯気がたまっている
気泡場には男がひとり入っている
あなたをみとめると もっと近くへお寄りなさい と声をかけてくる
くぐもった声が高い天井に響く
近寄ると男の頭が不安定に揺れている
男の両肩も気泡に押されて小さく揺れている
まるで男の上半身が湯に浮かんでいるように見える

 文体。リズム。
 対象へ少しずつ近づいて行く。その近づいて行くときのリズム、対象との距離の縮むときの速度、間合いにゆるぎがない。
 そこに私は、瀬崎の「肉体」を感じる。そして、そこに詩を感じる。「薄暗い」ということばが作品の冒頭にあるが、その「薄暗い」場所を歩むときの、少しずつ、少しずつ、足許を確かめるようなリズムに詩を感じる。単に「薄暗い」だけではなく、そこは「湯治場」である。足許は濡れている。滑るかもしれない。どうしても、少しずつ、少しずつ、おそるおそる進む。

近寄ると男の頭が不安定に揺れている
男の両肩も気泡に押されて小さく揺れている

 同じことばがくりかえされ、くりかえされるたびに、少しずつ何かが変わる。あ、と思う。この少しずつに気がついたら、もう、その少しずつをどこまでも追いかけていくしかない。急激にかわる、大きくかわるなら、それは向こうがかってにかわっていくのをそのまま放っておけばいいけれど、少しずつだとついつい引き込まれるのである。
 少しずつなので、なんといえばいいのだろうか、その変化をおいかけるのにちょっと余裕(?)が生まれる。ついつい「考え」てしまう。思考が、精神が、感情が、動かなくてもいいのに動いてしまう。余分なことをしてしまう。
 次のように。

まるで男の上半身が湯に浮かんでいるように見える
気泡に隠されてよく見えないが 男の下半身はないようなのだ

 ここでも「見える」「見えない」という形で「見る」という動詞がくりかえされている。そして、その動詞の間には、実は「肯定」「否定」という大きな断絶があるのだが、「よく見えない」ということばの奥には「少しは見える」という微妙な「見る」が隠されていて、それが「微妙」(少し)であるからこそ、それを補おうとして、思考が、精神が、余分に動く。
 そして、動きはじめたら、止まらない。

まるで男の上半身が湯に浮かんでいるように見える
気泡に隠されてよく見えないが 男の下半身はないようなのだ
男は どうやってこの浴槽までたどり着いたのだろう
誰かが男を投げ入れていったのだろうか
それとも 湯に浸かっているうちに下半身を失ったのだろうか

 この動きはじめたら止まらない感じが、最初の少しずつのリズムと同じである。
 とんでもないことを考えているのだが、つまり現実的にはありえないことを考えているのだが、同じ動詞をくりかえすことで、その動きに急激な変化はないと「強調」し、そうすることで「少しずつ」のリズムのなかへ読者を誘い込むのである。
 少しずつというリズムの一貫性と、それを裏切るような現実(常識)を否定する現象--その落差、乖離の感じに「ゆるぎ」がない。文体がしっかりしている。その印象ゆえに、私は詩を感じる。

 私はいつでも、だれの作品でも、文体にひかれる。何が書いてあるかではなく、どんな文体で書いてあるか、に関心がある。そして、その文体が一定であるとき、対象を描写するときの、対象と精神の距離が一定であるとき、そこに魅力を感じる。
 対象と精神との距離--それを「一定」にしている「ことば」に「思想」を感じる。

 瀬崎のこの作品の場合、この作品を「一定」にしている「ことば」、キーワードは、「薄暗い」である。もっと強調して言えば「薄い」である。ただ「暗い」のではなく「薄暗い」。その「薄い」という形容詞のなかには「少し」が含まれている。「少しずつ」の「少し」が含まれている。その「少し」は「見える」と「よく見えない」の差の「少し」に通じる。さらには「下半身はないようなのだ」の「ようなのだ」の「よう」にも通じている。不確かであるけれど、肉体に触れてくる何か、「実感」のようなものが、全体を覆っている。支配している。統一している。
 その統一されたことばの世界が、動いて行く。
 その結果、それがどこにたどりついてしまうか。そんなことは、作品にとってはどうでもいいことである。どこまで、統一したリズム、ことばで世界をたどりおおせるかだけが問題である。
 文体が持続するとき、文体は「肉体」になる。そうすると、そこから詩が立ち上がってくのである。

*

風を待つ人々
瀬崎 祐
思潮社

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