詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

丁海玉「浴槽」

2008-04-16 10:30:26 | 詩(雑誌・同人誌)
 丁海玉「浴槽」(「トードー」14、2008年04月20日発行)
 ホテルの浴槽を描いている。とてもシンプルな作品だ。

ホテルのバスタブに
湯が溢れそうに満ちている
横たわるようにからだをつけた
長くて大きいわりに
つかまるところが
みあたらない
底に尻をつけようとしても
ぽっかり浮いてくる

 ここには「からだ」があるけれど、「からだ」を充たすというか、「からだ」を乗り越えてゆく気力のようなものがない。つまり、疲れている。虚無感。そういうものが、こころを描かず「からだ」を描くこと、「からだ」だけに意識がうろうろとさまよう感じで描かれている。シンプルだけれど、そのシンプルの部分にあらわれる「からだ」(肉体)にすーっと引き込まれていく。
 バスタブにだけこだわることで、バスタブと「からだ」の関係だけにこだわることで、こころの頼りなさのようなものが浮かび上がる。
 奇妙ないいかたかもしれないが、どうしようもない(自分ではどうすることもできない)そのバスタブが「からだ」(肉体)で、バスタブのなかにある「からだ」(肉体)がこころであるかのような感じがする。
 「からだ」(肉体)はこころのように、バスタブを乗り越えてゆけない。かといって、バスタブのなかで、自在に動き回るわけでもない。
 2連、3連とつづけて読んでゆくと、そんな気持ちがさらに強くなる。自分の「からだ」(肉体)がこころであって、バスタブが「からだ」(肉体)。肉体であるバスタブと、こころである「からだ」の間には、変な隙間がある。つまり、お湯だね。それはぽっかりとこころを浮かせてしまう。こころを浮かせてしまって、浮かせた状態に閉じ込めている。こころの思うように「からだ」(肉体)は動いてくれない。
 そんな虚脱感。

手をのばせばバスタブの
へりにとどく
からだを落ちつかせようと
両手をのばして
へりをつかんでみるが
磨きあげてあるせいかすべってしまい
てのひらばかり
お湯をきる
ゆるやかなカーブのバスタブに
背泳ぎするように頭だけもたせかけた
力を抜く
ゆらゆらただよううちに気まで抜け
口やら鼻やらつかってしまって
こんどはおぼれそうに
なった

にじんでいた肌色で湯の底を
蹴り
ざんぶり起きあがる
浸っていたバスタブから
からだを切りとって
揺れる湯が
湯気にまかれた脚に当たるさまばかり

ながめた

 3連目の「からだを切りとって」がなんとも不思議で、味わいがある。ますます、バスタブが肉体で、そのなかにお湯という変なものが紛れ込んで、こころがぽっかり分離している--その分離したこころを切り取って取り出した、という感じがしてくる。そんなふうに取り出した「こころ」がことばで、その「ことば」が、この詩である。

 いま、この文を書いているのは、朝の10時26分なのだが、きっと今夜は風呂に入ってバスタブに身を沈めたとき、この詩を思い出すだろうなあ、と思った。もし、仕事がとても順調でてきぱきと進むならそうでもあいかもしれないが、疲れて帰って来たら、絶対この詩を思い出すだろうなあ、と思った。そのあと、私も私のからだをバスタブから切り取ることができるかなあ、切り取りたいなあ、とひそかに願った。



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