岡本勝人「わたしは詩をかいていた」(「ガニメデ」42、2008年04月01日発行)
岡本の、世界と「わたし」の距離の取り方がとても不思議だ。
「わたしは詩をかいていた」の冒頭の1連。「渦は宇宙の神秘のコンプレックスだった」という行が不思議である。とても不思議である。現実の風景、目の前の風景から、目に見えない世界へ飛躍するからではない。意識へ飛躍するからではない。そういうことなら誰でもがする。私が不思議と感じるのは「だった」という時制である。なぜ? なぜ、過去形?
「うかんでいる」「流れている」「見える」「はしってゆく」はみんな現在形である。世界と岡本は直接触れ合っている。「渦は宇宙の神秘のコンプレックスだった」だけが世界と直接触れ合っていない。そこに「肉体」がかかわっていない。「意識」だけがかかわり、そしてその「意識」は現在の意識とは分離したもの、過去なのである。
しかし、この分離、あるいは乖離は、簡単に「現在」「過去」という言い方ではとらえることのできないものである。--だからこそ、不思議である。
この作品のなかには現在形、過去形が混在するが、学校文法とは著しく違う部分は、次の展開である。(本文は2文字下げ。)
「わたしは夜の窓辺で詩をかいていた」と過去形で書くなら、その書いていた瞬間は過去だから「テレビの映像は/グリーンとしろの異国のユニホーム姿を映していた」と書くのが学校文法である。時制の一致である。ところが岡本は「映している」と過去を現在形で書く。こときの、意識の差。落差。
詩を書いている(書く)という自分自身の行為は意識の上では遠くにある。現在という近くにあるのではなく、遠くにある。一方、直接岡本がかかわらないテレビの映像は現在の近くにある。「映している」という「わたし」にいま、直接かかわるかたちで存在する。テレビは映像を映している。そして「わたし」は「見ている」。「見ていた」のだが、「見ている」感じがなまなましく、「見ていた」を突き破って、いま、この瞬間に噴出してきている。
私たちはたしかにさまざまな時間を生きている。現在が現在だけの時間でできているわけではない。そうであるなら過去が過去だけの時間でできているわけでもない。過去のなかへも現在の時間は流入していき、そこに現在をつくりあげてしまう。テレビがユニホーム姿を「映している」というように。
岡本はそういう意識の行き来、現在と過去の行き来を、乱れを感じさせない具合にかきまぜる。
時間は「時」の「間」と書くが、岡本のことばは、その「時間」の「間」を、とても不思議な形でみせる。とらえる。時間が立体的になる。その立体のなかに人間が存在する、という感じだ。
1連目を読むと、岡本は、空間を描いているように見える。川の流れ、花びらの渦、高架、空--街をさまよいながら、空間をさまよいながら、目で空間の広さ、「間」をとらえていることがよくわかる。
しかし、そこには「時間」も侵入してきている。
時間が侵入してきて、空間を活性化させている。いま、ここにあるあらゆる存在--それが単に空間的に広がり、空間を構成しているだけではないのだ。その存在のそれぞれの奥には同時に「時間」があって、その時間も意識に作用し、視界(空間)を活性化させる。
1連目は、現実に(今に)こだわるなら、
と、「渦は宇宙の神秘のコンプレックスだった」を省略しても、現実の世界はかわらない。その1行がなくても神田川の上を桜の花びら流れる。花びらは渦になる。桜の上にある高架は高架として存在し、高架の上を電車が走るという現実に何もかわらない。
ところが、その写実に岡本はなんとしても「渦は宇宙の神秘のコンプレックスだった」という1行を入れたいのだ。書きたいのだ。書かないと、時間があらわれない。時間が立体化しない。
岡本は時間を立体化しながら、「いま」という時間に存在したいのである。
ことばは、その欲望と、そのうごめきをしきりに伝えたがっている。
ここにあるのは「都市」のことばである。岡本の詩は都会的だが、その都会的である理由は、ここにある。時間の立体化。そして、そのなかでの孤独。時間が岡本を孤立させるのである。その孤立した時間のなかで、岡本はことばを書く、詩を書く。書いている。そういうことが伝わってくる作品だ。
岡本の、世界と「わたし」の距離の取り方がとても不思議だ。
神田川の流れのうえに
桜の花びらがうかんでいる
しろい渦となって流れている
渦は宇宙の神秘のコンプレックスだった
桜のうえに高架が見える
コバルトの空をあかい電車がはしってゆく
「わたしは詩をかいていた」の冒頭の1連。「渦は宇宙の神秘のコンプレックスだった」という行が不思議である。とても不思議である。現実の風景、目の前の風景から、目に見えない世界へ飛躍するからではない。意識へ飛躍するからではない。そういうことなら誰でもがする。私が不思議と感じるのは「だった」という時制である。なぜ? なぜ、過去形?
「うかんでいる」「流れている」「見える」「はしってゆく」はみんな現在形である。世界と岡本は直接触れ合っている。「渦は宇宙の神秘のコンプレックスだった」だけが世界と直接触れ合っていない。そこに「肉体」がかかわっていない。「意識」だけがかかわり、そしてその「意識」は現在の意識とは分離したもの、過去なのである。
しかし、この分離、あるいは乖離は、簡単に「現在」「過去」という言い方ではとらえることのできないものである。--だからこそ、不思議である。
この作品のなかには現在形、過去形が混在するが、学校文法とは著しく違う部分は、次の展開である。(本文は2文字下げ。)
わたしは夜の窓辺で詩をかいていた
テレビの映像は
グリーンとしろの異国のユニホーム姿を映している
「わたしは夜の窓辺で詩をかいていた」と過去形で書くなら、その書いていた瞬間は過去だから「テレビの映像は/グリーンとしろの異国のユニホーム姿を映していた」と書くのが学校文法である。時制の一致である。ところが岡本は「映している」と過去を現在形で書く。こときの、意識の差。落差。
詩を書いている(書く)という自分自身の行為は意識の上では遠くにある。現在という近くにあるのではなく、遠くにある。一方、直接岡本がかかわらないテレビの映像は現在の近くにある。「映している」という「わたし」にいま、直接かかわるかたちで存在する。テレビは映像を映している。そして「わたし」は「見ている」。「見ていた」のだが、「見ている」感じがなまなましく、「見ていた」を突き破って、いま、この瞬間に噴出してきている。
私たちはたしかにさまざまな時間を生きている。現在が現在だけの時間でできているわけではない。そうであるなら過去が過去だけの時間でできているわけでもない。過去のなかへも現在の時間は流入していき、そこに現在をつくりあげてしまう。テレビがユニホーム姿を「映している」というように。
岡本はそういう意識の行き来、現在と過去の行き来を、乱れを感じさせない具合にかきまぜる。
時間は「時」の「間」と書くが、岡本のことばは、その「時間」の「間」を、とても不思議な形でみせる。とらえる。時間が立体的になる。その立体のなかに人間が存在する、という感じだ。
1連目を読むと、岡本は、空間を描いているように見える。川の流れ、花びらの渦、高架、空--街をさまよいながら、空間をさまよいながら、目で空間の広さ、「間」をとらえていることがよくわかる。
しかし、そこには「時間」も侵入してきている。
時間が侵入してきて、空間を活性化させている。いま、ここにあるあらゆる存在--それが単に空間的に広がり、空間を構成しているだけではないのだ。その存在のそれぞれの奥には同時に「時間」があって、その時間も意識に作用し、視界(空間)を活性化させる。
1連目は、現実に(今に)こだわるなら、
神田川の流れのうえに
桜の花びらがうかんでいる
しろい渦となって流れている
桜のうえに高架が見える
コバルトの空をあかい電車がはしってゆく
と、「渦は宇宙の神秘のコンプレックスだった」を省略しても、現実の世界はかわらない。その1行がなくても神田川の上を桜の花びら流れる。花びらは渦になる。桜の上にある高架は高架として存在し、高架の上を電車が走るという現実に何もかわらない。
ところが、その写実に岡本はなんとしても「渦は宇宙の神秘のコンプレックスだった」という1行を入れたいのだ。書きたいのだ。書かないと、時間があらわれない。時間が立体化しない。
岡本は時間を立体化しながら、「いま」という時間に存在したいのである。
ことばは、その欲望と、そのうごめきをしきりに伝えたがっている。
ここにあるのは「都市」のことばである。岡本の詩は都会的だが、その都会的である理由は、ここにある。時間の立体化。そして、そのなかでの孤独。時間が岡本を孤立させるのである。その孤立した時間のなかで、岡本はことばを書く、詩を書く。書いている。そういうことが伝わってくる作品だ。
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