青木はるみ「妖怪のように」(「交野が原」64、2008年05月01日発行)
現実のなんでもないことでも見つめているうちに妄想(?)が拡大していくことがある。ことばがじわじわと現実を越境して、ここではないところへ行ってしまう。青木は、そのことばの暴走を、現実を「越境」するというよりは、越境することで「現実」をおしひろげる。「ほら、ここまでが現実だよ」と言ってみせる。
その移行の仕方がおもしろい。
「妖怪のように」の全行。
前半は、どこにでもある山村の風景である。物干し竿に布団が干してある。ジーンズが干してある。そういうものを見ながら(見たことを記憶しながら)、蕨とりをしている。夕暮れが近いのに、布団は干したままだ。干した意味がなくなる。夕暮れになり、また水分を含みはじめる。取り込まなくていいのだろうか……。
ごくふつうの人間が考える(感じる)ことである。日常の生活を大切にしているひとなら、そういうことは、他人事ながら気になるものである。
そういうごくごくふつうのこと、実感を出発点にして、架空の「日常」が動きはじめる。布団を取り込んだあとは、夕御飯の準備。蕨を摘んだから、蕨をつかった料理。食べるなら、酒も飲もう。食べて酒を飲んだら、もうひとつの楽しみ。布団も春の日差しをあびてふっくら……。
そこから、もう一歩。
ふたりが「私」と「彼」の関係ならば、それは日常であっても、ちょっとはみ出た日常。どこにでもある日常だけれど、それはやはり毎日の日常からは少しはみ出ている特別の日常だ。特別であるからこそ、夢はいっそうしなやかに(つまり束縛から解放されて)、楽しい「最期」を夢見る。
そして。
「最期」--いったん死んで、生まれ変わるのだ。
こんな夢を見れば、そしてそれが青木の年齢ならば(失礼!)、たぶん「おいおい、それじゃあ色事を通り越して妖怪だよ」なんて軽口も飛び交うだろう。青木はもちろんそこまで承知の上で「妖怪のように」というタイトルをつけている。「そうよ、妖怪よ」と、最初から笑っている。
そして、この「笑い」の力が「現実」へ読者を引き戻す。
笑ったのは、ことばでおしひろげられた世界でのこと。笑ってしまえば、その世界は「笑い話」になってしまう。笑い話になってしまえば、残るのは「現実」である。
きのうの感想のつづきになってしまうが、はたして渡辺武信は、こういう「現実」と実際に交渉があるのだろうか。そういう交渉とは別の関係を生きているような気がしてならない。
*
現実のなんでもないことでも見つめているうちに妄想(?)が拡大していくことがある。ことばがじわじわと現実を越境して、ここではないところへ行ってしまう。青木は、そのことばの暴走を、現実を「越境」するというよりは、越境することで「現実」をおしひろげる。「ほら、ここまでが現実だよ」と言ってみせる。
その移行の仕方がおもしろい。
「妖怪のように」の全行。
古い民家の軒先がささくれだち
竿が一本吊るしてある
縞柄の固そうな敷布団が二つ折れに干してある
ブルージーンズの片方だけが竿に通り
ほとんど崖といってよいほどの険しい山肌が迫る露地
そこには僅か 陽の差す時間もあるのだ
彼と私はグループでハイキングに来ただけなのに
いつのまにか二人っきりになり夢中で蕨(わらび)を摘んでいた
山肌は徐々に紫の色を深め
足もとの芹(せり)も小川のなかに消えていく
他人の家のことだが あの敷布団を取りこもうと思う
蕨を上手に煮て卵で閉じようと思う
芹が もしも毒草のキンポウゲだったなら
お酒といっしょに ほどよく体の隅々まで
めぐりめぐって
どんな最期になるのかしら
(ねえ ここに住みましょうよ)
前半は、どこにでもある山村の風景である。物干し竿に布団が干してある。ジーンズが干してある。そういうものを見ながら(見たことを記憶しながら)、蕨とりをしている。夕暮れが近いのに、布団は干したままだ。干した意味がなくなる。夕暮れになり、また水分を含みはじめる。取り込まなくていいのだろうか……。
ごくふつうの人間が考える(感じる)ことである。日常の生活を大切にしているひとなら、そういうことは、他人事ながら気になるものである。
そういうごくごくふつうのこと、実感を出発点にして、架空の「日常」が動きはじめる。布団を取り込んだあとは、夕御飯の準備。蕨を摘んだから、蕨をつかった料理。食べるなら、酒も飲もう。食べて酒を飲んだら、もうひとつの楽しみ。布団も春の日差しをあびてふっくら……。
そこから、もう一歩。
ふたりが「私」と「彼」の関係ならば、それは日常であっても、ちょっとはみ出た日常。どこにでもある日常だけれど、それはやはり毎日の日常からは少しはみ出ている特別の日常だ。特別であるからこそ、夢はいっそうしなやかに(つまり束縛から解放されて)、楽しい「最期」を夢見る。
そして。
「最期」--いったん死んで、生まれ変わるのだ。
こんな夢を見れば、そしてそれが青木の年齢ならば(失礼!)、たぶん「おいおい、それじゃあ色事を通り越して妖怪だよ」なんて軽口も飛び交うだろう。青木はもちろんそこまで承知の上で「妖怪のように」というタイトルをつけている。「そうよ、妖怪よ」と、最初から笑っている。
そして、この「笑い」の力が「現実」へ読者を引き戻す。
笑ったのは、ことばでおしひろげられた世界でのこと。笑ってしまえば、その世界は「笑い話」になってしまう。笑い話になってしまえば、残るのは「現実」である。
きのうの感想のつづきになってしまうが、はたして渡辺武信は、こういう「現実」と実際に交渉があるのだろうか。そういう交渉とは別の関係を生きているような気がしてならない。
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