詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三井葉子「桃のはな」

2008-04-15 10:34:54 | 詩(雑誌・同人誌)
 三井葉子「桃のはな」(「楽市」62、2008年04月01日発行)
 詩は、あ、おもしろいなあ、と感じてもそれを伝えることばが見つからないときがある。どうしておもしろいと思ったのか、それを明確に言うことばを私が持たないだけ、といってしまえばそれまでなのだが……。それでも、何かを書いておきたい。おもしろいと思ったということだけでも。
 そう感じた詩。三井葉子「桃のはな」。

お雛まつりをしましょうよ
野に狐いろの月がでるころに


むかし 書いた
すると
野末からまるまる太った狐がとび出してきたものだ

きょう
それを思い出して
よく見ると
なんだ
尻尾の付け根にわたし 掴まっているではないか

 「狐」を想像力の産物ととらえ、あらゆる想像力には「わたし」がぶら下がっている、「わたし」から自由な想像力はない--などと考えてみることができるはできるのだが、それではおもしろくない。
 「狐いろの月」から「狐」、そしてその詩を書いたことが「むかし」なので、「むかし」から「いま」までのことが、狐とともに思い出される、というふにう読むことはできる。読むことはできるが、それではなんだか入学試験の問題を解いているようでおもしろくない。
 私がおもしろいと思ったのは、理詰め(?)のことばの描き出すものではない。

 さらっと(?)書かれていることばのなかにある躍動感--それがおもしろいと思った。


むかし 書いた
すると
野末からまるまる太った狐がとび出してきたものだ

 このリズム。「と」という一呼吸、とさえも言えないような一瞬。そして、「と」よりははるかに落ち着いた「すると」というゆったりした呼吸。あ、ここで何かが変わるぞ、という印象。そして実際に、「すると」とのあとには、「野末から」の長い1行があらわれる。このリズムが、好きである。
 「すると」が引き起こす「事件」のようなものが好きである。
 「と」も「すると」もとても短い。短いけれど、やはりその短さにも長短があって、「すると」の方が、ちょっと相手の反応をうかがうようなところがある。
 「と」は一気に前にあることがら(前に書いたことば)を引き継ぐのに対して、「すると」はまえに書いたことばをいったん閉じ込めて、別のものを引き出す感じがする。
 そのリズム、スピードの変化にあわせて「野末から」の1行がある。

 ここには「書きことば」というよりも、話しことばのリズムがあり、そのリズムが「風景」だけでなく三井という人間を浮かび上がらせる。私は三井にあったこともないし、写真も(たぶん)1度見ただけだと思う。顔が思い浮かばない。それなのに、三井の肉体を感じるのである。話している口調がことばのなかにいきいきと動いていて、それが私を引きつける。
 3連目の「なんだ」も「すると」と同じような、口語でしかあらわせない呼吸と呼吸の切り返しを感じさせる。(このリズムは、4連目の「そうかあ」以後も続く。)

 同じように(あるいは、それ以上に)、口語の呼吸、肉体を感じさせるのが

尻尾の付け根にわたし 掴まっているではないか

 の「が」の省略である。「尻尾の付け根にわたし 掴まっているではないか」は成文化すれば「尻尾の付け根にわたしが掴まっているではないか」となるだろう。ここでは助詞「が」が省略されていて、その省略がとても肉体的なのである。書かれていないけれど、それは書かれたときよりも強く呼吸を感じさせる。
 「わたし 掴まっているではないか」と書きながら、「が」が省略されたために、「わたし」そのものも、どこかへ消えてしまう。消えるといっても存在がなくなるのではない。そうではなくて、「尻尾」と一体になってしまうのだ。溶け合ってしまうのだ。
 「わたし」が存在しなくなり、狐の「尻尾」と溶け合ってしまう。
 それなのに、いきいきと動いている。
 これは矛盾だろうか。
 たぶん「頭」で考えれば矛盾なのだろう。だが、肉体、肉体の呼吸で考えれば矛盾ではない。あらゆるものが同じ呼吸で存在する。切り離せない呼吸となって存在する。そういう至福がここにある。
 4連目以降は、次のようになっている。

そうかあ
あれからずうっと
狐の尻尾に掴まっていたのか


よく見ると
ぐじゃぐじゃ 人も牛も虫も蛙もいて
いっぱい
飲んでいる
食べている
くちぐちに

桃のはな

そらに浮く。

 日暮れてもまだ咲いている桃の花  葉子

 「ぐじゃぐじゃ」がとてもいい。「わたし」と狐の「尻尾」(あるいは狐そのもの)だけが融合するのではない。世界が融合するのである。一体になるのである。世界がとこあって存在していることを祝福するのである。溶け合いながら、ときどき「自己主張して」顔を出す。
 そうして、そこから何かが、すーっと全体を凝縮させるようにして(同時に、開きはなつようにして)、浮かび上がる。それがこの作品では「桃のはな」。

桃のはな

そらに浮く。

 と放り出されて書かれている。その「放り出し方」のなかに、融合がある。狐の尻尾に掴まってぐじゃじゃになっているはずなのに、それは同時に「桃のはな」として「そらに浮」いているのである。呼吸があうと、世界はそんなふうに「ぽっかり」という感じでかわる。
 最後の「俳句」は、全体を要約したものである。
 三井が俳句をいつごろから書いているか知らないが、そして、この詩には、俳句の呼吸、存在に向き合い、呼吸をあわせることで世界全体と一体になる感覚が生きていると思った。俳句から吸収したものが、三井のなかできちんと「肉体」にまで昇華しているのだと思った。




畦の薺―三井葉子詩集
三井 葉子
富岡書房

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